第597話 第十一章「夜明けを越える」前編

夜明けは、夜の敗北ではない。

 夜が朝に負けて退くのではなく、太陽が闇を裁くのでもない。

 地上から見れば、光が来る。

 空から見れば、世界が回る。

 同じ出来事を、勝利と呼ぶか移動と呼ぶかで、朝の意味は変わる。

 夢灯都市には、夜明けを越えて眠る者がいた。

 病気だからではない。

 呪われたからでもない。

 負けたからでもない。

 今は起きないと決めた。

 その選択を町が初めて正式に記録した朝、夢灯都市は、眠らない町であることをやめた。

 眠る者を、町の外へ数えることもやめた。

【夢内/灯籠巨人崩壊後・無夢域/入夢/夜明け後〇分十二秒】

 夜明けは来た。

 無夢域は明るくならなかった。

 黒い紙の裂け目から、町の光だけが差す。

 紫。

 青。

 黄。

 白。

 四つの色が混ざらず、互いを照らしている。

「夜明け」とハル。

「過ぎた」とソムナ。

「夢、固定された?」

「一部」

「俺たち」

「ここは、夢じゃない」

「夢の中じゃん」

「夢景がない」

「じゃ何」

「役割の空白」

「分かりにくい」

「分かりやすく言うと、町が僕を置くために作った箱」

「箱から出る」

「出口、選んでない」

「今選べる」

「夜明けを過ぎた」

「過ぎたら選べない?」

「制度上は」

「制度は止まった」

「半分」

「残り半分を止める」

「誰が」

「俺たち」

「また、みんな」

「今は二人」

「少ない」

「外に多い」

 ハルは裂け目へ手を掛ける。

 黒い紙が指へ張り付く。

 冷たい。

 夢売買契約の輪痕と同じ冷たさ。

 ソムナが見る。

「触らないで」

「なんで」

「未受領札が、役割のない人へ移る」

「俺に?」

「一部」

「どれくらい」

「分からない」

「じゃ、触らない」

 ハルはすぐ手を離す。

 無鉄砲とは、危険を知らず進むことではない。

 危険を知った後も、他人へ証明するため進むことである。

 今、証明する相手はいない。

「どう出る」

「僕の術なら」

「使わない」

「なぜ」

「三度目は、使わないか、人へ任せるか、逆に使う」

「誰が決めた規則」

「俺たち。失敗するたび」

「僕、入ってない」

「今から入る」

 ソムナは杖を見る。

「名前」

「ピロウ」

「教わった?」

「お前からじゃない」

「じゃ、僕の記憶じゃない」

「うん」

「使い方」

「夢の断片を縫う」

「知ってる」

「逆にしたら」

「ほどく」

「ほどくだけ?」

「切れる」

「切るのと、返すのは違う」

「エリアみたい」

「褒め言葉?」

「今回は」

 ソムナは杖の先を、自分へ向けない。

 裂け目へも向けない。

 外へ向ける。

「夢綴りは、離れた断片を一つへ縫う」

「うん」

「今まで、患者の夢を僕の案内へ縫った」

「うん」

「逆なら、僕の案内を患者の選択へ分ける」

「できる?」

「分からない」

「やる?」

「一人では、やらない」

 ソムナが初めて、そう言った。

【現実/中央夢灯塔・開花外殻/覚醒/夜明け後〇分十五秒】

 空が、灯籠で埋まる。

 小さい。

 大きい。

 丸い。

 角ばる。

 穴がある。

 触れると鳴る。

 近づくと消える。

 千ではない。

 四千八百六十二。

「数えたの?」カイル。

「塔の排出計!」ロロ。

「信じていい?」

「今は、誤差十七!」

「つまり四千八百四十五から四千八百七十九!」

「説明長い!」

「誤差を隠すなって、みんな言うから!」

 灯は落ちる。

 夢紙の白火をまとったまま。

 防炎板が受ける。

 列車屋根が受ける。

 人が受ける。

 受けてはいけない灯もある。

「中央穴、無音!」イヴァ。

「拒否札!」

 黒穴の灯が、盾列へ落ちる。

 カイルが反射的に手を出す。

「触るな!」アサ。

 深紅の盾を、途中で消す。

 黒穴灯は、盾のあった空間を通り、石畳へ落ちる。

 燃える。

「消せない?」

「本人が触られるのを拒否!」

「火は!」

「周りを空ける!」

 ラトが人を下げる。

 石畳の周囲へ火止め枠。

 誰も灯そのものへ触れない。

 拒否を守るとは、危険を放置することではない。

 本人の領域を侵さず、周りの危険を減らす。

「本人はどこ」

「夢内。身体は北石路」

「声、届く?」

「アサが」

 通信の向こう。

『灯へ触れず、周囲の火を止めています。身体は安全。今後、灯を移すか、その場で保護するか、何も決めないか』

 返事はない。

『返事なしを、現状維持として扱います』

 黒穴灯は、石畳で燃え続ける。

 誰も消さない。

 その周りに、耐火石が一枚ずつ置かれる。

 一人分の拒否のため、広場の通路が曲がる。

「迂回!」エリア。

「最短じゃない!」

「最短は占有中!」

「誰もいないのに?」

「意思がいる!」

 通路が曲がる。

 町は不便になる。

 不便は、誰かがそこにいる形でもある。

 朝綴じ軸が、止まらない。

 夜明けを過ぎたため、遅延分を取り戻そうと回転を上げる。

「自動補正、二倍!」塔職員ヨア。

「止めろ!」

「停止命令を、未処理札として認識!」

「命令も処理するのか!」カイル。

「何でも処理します!」

「熱心な機械だ!」

「褒めてないですよね!」

「王族式なら最大の侮辱だ!」

 軸へ、四層の札が再び吸われる。

 巨人は分かれた。

 しかし、小灯が中央へ戻れば、また一つの受取先になる。

「物理切断」とロロ。

「塔が落ちる」とユーディ。

「外殻は列車が受けてる。中央軸だけ抜く」

「二百十三人」

「外へ出した?」

「百八十九」

「残り二十四」

「眠ってる」

「身体位置」

「第三内棚」

「軸の真横!」

 切れば、二十四人を乗せた棚が落ちる。

 切らなければ、町じゅうの札が中央へ戻る。

「救出時間」

「四分」

「軸限界」

「一分二十」

「残せる数を言って」

 誰かの声に似た文が、ロロの口から出る。

 彼自身が気づく。

 姉の言葉。

 まだ本格的に会っていない過去ではなく、子供の頃から聞いた判断の癖。

「違う」

 ロロは自分で訂正する。

「残せない数を先に決めない」

「じゃ、案」とユーディ。

「軸を抜かず、負荷を逃がす。二十四人の棚を軸と一緒に回す」

「人間を歯車に?」カイル。

「棚を! 人は棚に乗ってる!」

「加速度」

「下げる。外周へ列車の車輪を接続して、回転を発電へ逃がす」

「列車は橋」イヴァ。

「橋のまま車輪を回す!」

「線路がない」

「塔が線路!」

「運行定義違反」

「今さら!」

 イヴァは一拍だけ考える。

『臨時環状線として登録』

「駅」

『中央塔』

「目的地」

『停止』

「動くのに?」

『止まるために走る列車はある』

「言葉遊び?」

『制動』

 貨車の車輪が、開いた塔外殻へ押し当てられる。

 ロロが接続角を出す。

 本人の二本の補助腕では足りない。

「四人!」

 塔職員。

 列車整備員。

 紙職人。

 起きたばかりの少年。

「少年、工具使える?」

「鐘の歯車なら」

「同じじゃない」

「違いを言って」

「歯幅、熱、回転方向、全部!」

「じゃ、見てる」

「それも仕事!」

 少年は手を出さない。

 温度計を読む。

「右車輪、上がる!」

「何度!」

「九十一!」

「限界九十!」

「越えた!」

「冷却!」

「水は紙が膨らむ!」

「車輪だけ! 布で囲え!」

 人の手が増える。

 ロロは中央で全部を操作しない。

「ぼくに報告するな! 車輪班へ! ぼくは軸!」

「責任者」

「車輪はイヴァ! 紙層は老女! 棚はヨア! 呼吸はメイ!」

「呼吸は自分!」メイ。

「ぼくの!」

「なら私!」

 役割を名で分ける。

 一つの巨人を壊した町は、一つの指揮所を作らない。

【夢内/無夢域外縁/入夢/夜明け後〇分三十六秒】

 外から、声が届く。

『ソムナ』

 メイ。

「誰」

『塩のないスープを作った身体医』

「知ってる」

『思い出した?』

「教わった」

『分ける』

『ソムナ』

 アサ。

「退出札」

『理由を聞かない相談員』

「知ってる」

『今、出る理由を言わなくていい』

「出るとも」

『言ってない』

『ソムナ』

 エリア。

「地図」

『人』

「訂正、速い」

『あなたが私を、地図だけにした』

「ごめん」

『謝罪を、記憶回復に使わないで。私は濃紺の三つ編み。あなたと、夢の記憶を地図へ描く範囲で喧嘩した』

「勝った?」

『保留』

「あなたらしい」

『それ、思い出した?』

「今、推定した」

『推定と記憶を分ける』

『ソムナ』

 カイル。

「王子」

『名前は』

「……苺大福」

『人名ではない!』

「借りた」

『三個だ』

『四個』とロロ。

『お前は黙れ!』

『利息』

『夢葬師へ高利貸しするな!』

 ソムナが笑う。

「三個?」

『二個だ』とメイ。

『待て、誰が正しい!』

『帳簿は二』セレナ。

『王子が一個多く請求した!』ロロ。

『試しただけだ!』

「今の、覚える」

『何を』

「あなたたちが、僕の記憶を作らないよう喧嘩した」

 外の声が、一瞬静かになる。

『それは、今起きた』とセレナ。

「うん」

『新しい記憶として、本人発言を記録』

「記録しなくていい」

『拒否?』

「保留」

『記録しないことを記録する』

「面倒」

『法』

「言葉遊び?」

『いいえ』

 無夢域の裂け目が広がる。

 声が、糸になる。

 誰かがソムナへ記憶を戻しているのではない。

 自分の記憶として、自分の側に持ったまま話している。

 ソムナは聞く。

 受け取らない。

 否定もしない。

「僕のことを、知っている人がいる」

「うん」とハル。

「僕が、知らなくても」

「うん」

「怖い」

「うん」

「勝手に作られる」

「だから、誰の記憶か言ってる」

「全部違ったら」

「違うまま」

「僕は」

「今、怖いって言った人」

「それだけ」

「今は」

 ソムナは、苦い種のない口を動かす。

「外へ出る」

 初めて、保留以外を選ぶ。

「身体へ?」

「身体へ」

「記憶は」

「今ある分。失った分は、戻さない」

「役割」

「案内人。中央代理受取人は辞める」

「生活」

「……決まってない」

「二つ目の帰還路は保留」

「うん」

「じゃ、出口を作る」

「僕一人では作らない」

「分かってる」

【夢内/無夢域・退出準備/入夢/夜明け後〇分五十二秒】

 出口を作る材料は、四つある。

 銀の線。

 地図。

 赤い糸。

 仕事を分けたルメの小組。

 橙の灯。

 夢から出るかを本人が選ぶ醒め目。

 白い線。

 目覚めた身体を置く現実の支え。

 どれか一つで門を作れば、同じ失敗へ戻る。

 地図だけなら、到着後の生活を決められない。

 仕事だけなら、本人を役割へ閉じ込める。

 醒め目だけなら、起きた後の身体が落ちる。

 生活だけなら、夢の中の拒否を踏み越える。

「四つ、同時」とエリア。

『無理』ロロ。

「理由」

『塔の朝綴じ軸が、銀線と白線を同じ処理線へまとめる! 分けたまま通せない!』

「物理的に別の入口」

『出口は一つ!』

「増やす」

『塔を改造する時間ない!』

「塔を使わない」

『じゃ、何』

 ハルが黒い紙の裂け目を見る。

 外には、何千の小灯。

「灯籠」

『どれ』

「聞こえる人の、一つずつ」

 ソムナが理解する。

「患者側から、醒め目を縫う」

「うん」

「夢葬師が作らない」

「お前は案内する」

「僕の術を」

「他人へ委ねる」

「使い方、知らない」

「教える」

「時間」

「夜明け過ぎた」

「制限が消えたわけじゃない」

「でも、締切の言い方が変わった」

 夜明けまで、ではない。

 朝綴じ軸が再統合するまで。

 塔が物理的に崩れるまで。

 ソムナの体温が危険域へ落ちるまで。

 時間は残っている。

 複数ある。

 一つの時計へ人を合わせるのをやめれば、救難は少し遅く、少し正確になる。

「患者鍵、使える人」とアサが全市へ呼ぶ。

『自分の灯へ触れなくていい。触れられる人は、出口を作るためでなく、どこまで近づけてよいかを示してください』

 一鈴。

 近づけてよい。

 二鈴。

 見える場所まで。

 三鈴。

 触れず、声だけ。

 無音。

 今は何もしない。

「一鈴、二十七!」

「二鈴、四十!」

「三鈴、十一!」

「無音、多数!」

「多数を数にするな」とアサ。

「じゃ、何て!」

「無応答。意味未定」

「長い!」

「短くすると、同意になる」

 町の灯が、別々の距離へ止まる。

 一鈴の灯だけが、黒い無夢域へ細い橙糸を送る。

 二十七本。

 一本は弱い。

 二十七本が同じ一点へ集まれば、また一人へ預ける形になる。

「集めない」とソムナ。

 彼はピロウを横にする。

 杖先を、自分へ向けない。

 二十七本の間へ置く。

「僕の手を通さない」

「どうする」ハル。

「糸同士を、隣へ結ぶ」

「輪」

「輪にすると、中心ができる」

「じゃ」

「網」

「中心のない?」

「完全には無理。接点はできる」

「接点を交代」

「うん」

 ソムナは、夢の断片を縫う共有術〈ドリーム・ステッチ〉を逆へ使う。

 一つへ集めない。

 一本目を、二本目へ。

 二本目を、三本目へ。

 三本目を、離れた七本目へ。

 規則的な円を作らない。

 同じ場所へ負荷を戻さない。

 ハルが糸を持つ。

「触ると移るって」

「これは本人が送った糸。未受領札じゃない」

「説明、先」

「今した」

「遅い」

「一拍」

「お前の一拍、長い」

 ハルは右手で糸を押さえる。

 左肩を使わない。

 夢の中でも、身体の制限は消えない。

 消えたように動けても、現実の筋肉へ戻った時に代償が来る。

「次」

 ソムナが指示する。

「上の糸を、下へ」

「上ない」

「僕から見て」

「お前の上、俺の左」

「じゃ、左」

「最初から」

「地図がない」

「エリア」

『聞いてる! 無夢域へ仮座標を入れる!』

「夢景ないのに」

『人が二人いる。二点あれば線が引ける!』

「三点ないと面にならない」とソムナ。

『外の橙灯を第三点!』

「地図屋、強い」

『今さら?』

 銀線が、黒い空間へ座標を与える。

 北は、ハルの身体がある側。

 南は、ソムナの身体。

 東は、患者の灯。

 西は、生活支援。

 実際の方角ではない。

 帰還の関係を示す仮方位。

「北へ二」とソムナ。

「了解」

「南、一本」

「了解」

「東を西へ直接結ばない」

「なんで」

「患者の夢を、生活支援へ自動変換しない」

「途中に本人」

「うん」

 網ができる。

 中心はない。

 接点は多い。

 ソムナの杖は、網の一部にすぎない。

 術を使っている。

 しかし、術の結果を所有していない。

「次、患者側」とアサ。

 一鈴の灯を持つ住民へ、簡単な動作を伝える。

 糸を一度引く。

 止める。

 嫌なら離す。

 二十七のうち、二十二が引く。

 五は離す。

「五、退出拒否?」

「違う」とアサ。「操作をやめた。意味は未定」

 五本は網から外れる。

 残り二十二。

 引かれる。

 無夢域の黒い紙に、小さな穴が二十二個開く。

 出口ではない。

 外から見える窓。

 窓の向こうに、住民の現実がある。

 石造り避難所。

 診療車。

 列車の寝台。

 燃えた家の前。

 まだ決まらない白い欄。

「どれ」とハル。

「僕の身体は」

『中央塔側診療車、第一寝台』メイ。

「白線」

 生活支援の線を見る。

 第一寝台から先が、ない。

「身体へは戻れる」とソムナ。

「その後は保留」

「うん」

「なら、身体の窓」

「僕が決める」

「うん」

 ソムナは二十二の窓を見る。

 一つだけ、湯気のないスープがある。

 メイの診療車。

「これ」

「記憶?」

「今、メイから聞いた」

「教わったもの」

「うん」

「選んでいい」

「うん」

 ソムナは、窓へ手を伸ばす。

 止める。

「怖い」

「うん」

「身体へ戻ったら、何を忘れたか分かる」

「分からないかも」

「もっと怖い」

「うん」

「戻らなければ、今の僕でいられる」

「今の自分を覚えてないのに?」

「言葉遊び」

「質問」

「今、怖い僕でいられる」

「戻ったお前も、怖がれる」

「保証」

「しない」

「して」

「できない」

「優しくない」

「うん」

 ソムナは、窓へ触れる。

 橙の光が、指へ移る。

 彼自身が作った醒め目ではない。

 二十二人が、距離を選び。

 エリアが関係を描き。

 ルメが接点を交代し。

 メイが身体を置き。

 アサが拒否を守り。

 ハルが糸を支えた。

 ソムナは最後に、使うと選ぶ。

 出口が開く。

【現実/中央塔側診療車・第一寝台/覚醒移行/夜明け後一分四十一秒】

 ソムナの身体が、息を止める。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

「呼吸停止」

 メイが顎を上げない。

 首の位置だけ整える。

「自発、待つ。酸素」

 救護員が面を当てる。

「脈、一四八!」

「数値を叫ばない。手順」

「一四八は」

「私が聞いた」

 ソムナの右手が、宙を縫う。

 指が何かをつかむ。

 戻る窓。

 現実側には見えない。

「ソムナ」とメイ。

 返事なし。

「ここは中央塔側診療車、第一寝台。身体へ戻ると選んだ。生活は保留。記憶は、今ある分だけ」

 決定を増やさない。

「呼吸」

 胸が動く。

 浅い。

「一」

 もう一度。

「二」

 三度目。

 ソムナの喉が鳴る。

 目は開かない。

「味」とメイ。

 舌の下の苦い種。

 唇が動く。

「……苦い」

「正しい」

「正しい、って」

 声が出る。

「出来事として」

「聞いた」

「今?」

「前」

「思い出した?」

「分からない」

「分からないでいい」

 ソムナのまぶたが開く。

 薄紫の瞳。

 焦点が合わない。

 最初に見るのは、出口。

 診療車の扉。

 開いている。

 次に、メイ。

「誰」

 救護員が息を呑む。

 メイは名乗る。

「メイ・カフ。身体医。今朝、塩のないスープを一緒に食べた」

「それだけ?」

「私が今、証明できるのは」

 夜の初めに聞いた返事と同じ。

 ソムナは眉を寄せる。

「聞いた気がする」

「気がする、と記録する?」

「しない」

「了解」

「赤い人」

 ソムナが、窓の外を指す。

 巨人の胸に残ったハルの身体。

「ハル」とメイ。

「僕と一緒?」

「夢内に意識が残ってる」

「戻ってない」

「あなたが先に戻った」

「置いてきた」

「彼が選んだ」

「身体」

「安全索二本。エリア監視。カイルが支えてる」

「でも」

「あなたが戻る条件に、彼の帰還を入れない」

「僕が案内」

「今、患者」

「違う」

 本気で反対する声。

 メイは譲らない。

「低体温、低血糖、記憶欠落、入夢後。今は患者」

「案内人も」

「後で」

「今、出口が」

「他の人が作れる」

「僕が」

「他の人が作れる」

 同じ文を二度。

 ソムナの左手が震える。

 輪痕が光る。

「取られる」

「仕事を?」

「役に立つ場所」

「渡す」

「なくなる」

「仕事を渡しても、いる」

「ルメみたいに」

「ルメは、仕事をやめてもいる」

「僕は」

「確かめる」

 メイは、診療譜を出さない。

 質問をする。

「苦い?」

「苦い」

「寒い?」

「寒い」

「怖い?」

「……怖い」

「いる」

 ソムナは泣かない。

 目が乾いている。

 夢を見られない身体は、泣き方まで失ったわけではない。

 ただ、今は涙より先に震えが来る。

 メイが毛布を掛ける。

「触る」

「うん」

「肩まで」

「うん」

 許可を一つずつ。

 毛布は治療であり、関係でもある。