第598話 第十一章「夜明けを越える」後編
【夢内/無夢域・出口網/入夢/夜明け後一分五十秒】
ハルだけが残る。
「先に行った」
ソムナの声が、窓から届く。
「聞こえる」
『戻って』
「命令?」
『頼み』
「保留」
『さっきの仕返し?』
「確認」
ハルは、網を見る。
ソムナが通った窓は開いている。
同じ窓を使えば、ハルも診療車へ戻る。
だが、彼の身体は巨人の胸。
夢から診療車へ意識だけ戻れば、身体位置と覚醒位置がずれる。
「俺の窓」
『作る』エリア。
「同じ方法」
『患者鍵』
「俺、患者?」
『今は』メイ。
「みんな、それ好きだな」
『便利な分類は期限付き』セレナ。
「終了、いつ」
『身体へ戻り、呼吸と方向感覚を確認するまで』
「短い」
『延長できる』
「しない」
『今決めない』
アサが割り込む。
『ハル。夢から出る?』
「出る」
『記憶』
「持ってく」
『役割』
「空白」
『生活』
ハルは一瞬、答えない。
ゼロスター号。
仲間。
地球。
父。
帰る場所が複数ある。
「今は、塔へ戻る」
『今の目的地として記録』
橙の糸が、外から来る。
エリア。
一本ではない。
カイル。
ロロ。
ノクス。
セレナ。
診療車のソムナ。
それぞれ、自分の側から小さな引きを送る。
「ノクスも?」
「ナァ!」
夢内へ匂いは届かない。
音だけ。
「分かった」
ハルは出口へ踏み出す。
一。
二。
三。
足で覚えた無夢域を、最後に振り返る。
黒い紙。
空白。
誰も残っていない。
それでも、空白は消えない。
次に誰かが「今は決めない」と言える場所として、地図へ残る。
【現実/紙巨人胸部跡・銀索上/覚醒移行/夜明け後二分三秒】
ハルの目が開く。
最初に見えるのは、白火。
「方向」エリア。
「上」
「どっち」
上下が揺れる。
「俺の頭が上」
「現実」
「塔が右。空が左」
「逆」
「じゃ、まだ」
「動かない」
腰索が二本。
巨人は分かれ、足場だった胸面が薄い紙片へ戻りつつある。
ハルの身体が沈む。
左肩へ荷重がかかる前に、カイルの盾が下へ入る。
「一秒!」
「分かってる!」
ハルは盾を足で蹴る。
エリアの帰り線へ両脚を掛ける。
右手。
腰。
左腕を使わない。
「引く!」
エリア一人では引かない。
列車整備員。
紙職人。
ラト。
カイル。
四方向から索を巻く。
ハルが塔へ滑る。
白火が追う。
ノクスが塔面を走り、ハルの赤いマフラーへ噛みつく。
「首!」
「ナァ!」
「助けてる?」
「グルル!」
「分かった、ありがとう!」
塔面へ着く。
膝。
右手。
腰。
左肩は、入っている。
「痛み」とメイ。
「三」
「一般式」
「三」
「方向」
「塔が下。空が上。エリアが前。カイルが右。ノクスが首」
「合ってる」
「ソムナ」
「診療車」
「戻った?」
「身体へ」
「生活は」
「保留」
「なら、戻った」
「一回目だけ」
「うん」
ハルは立とうとする。
「三十秒」とメイ。
「塔」
「他の人」
「俺も」
「三十秒後」
「長い」
「夜明けは越えた」
ハルは座る。
待つ。
朝綴じ軸の回転が、列車の車輪へ移る。
一両目。
回る。
二両目。
回る。
三両目。
軋む。
「温度!」
「百二!」
「限界!」
「水!」
車輪だけへ布越しの水。
蒸気。
夢紙へ触れない。
「四両目、荷重過多!」
イヴァが穿票鋏を振る。
切符穴の形で、車両ごとの負担を表示する。
「一両切り離す」
「橋が切れる!」ミラ。
「切らない。回転接続だけ」
「負荷、どこへ」
「五両目」
「五が落ちる」
「六へ」
「全部へ送ると」
「全車、限界未満へ」
「計算」
「足りない」
「勘?」
「運行経験」
「高い勘」
「あなたの値段では」
「事故後請求」
「同意」
イヴァは、車両ごとに異なる穴を穿つ。
一つの制動命令を送らない。
それぞれの車輪へ、異なる上限。
ミラが帆を調整する。
風を盗まない。
帆ごとに受ける。
「三両目、二度下げ!」
「五両目、一度!」
「七、止めない!」
「七、乗客いる!」
「身体は避難済み!」
「荷物」
「結び目四つ!」
説明のない四つ。
人数差の未解決。
「今、切る?」ミラ。
切れば、列車は軽くなる。
軸の負荷を受けられる。
だが、結び目が何を意味したか分からないまま消える。
「切らない」とイヴァ。
「全車限界」
「七両目を、回転から外す。橋として残す」
「他が重くなる」
「速度を下げる」
「軸が戻る」
「三秒だけ」
「三秒で何する」
「ロロ!」
『聞こえてる!』
「軸歯、三秒戻る。何枚外せる」
『一枚!』
「一枚で」
『自動補正の速度を七パーセント下げる!』
「やる」
イヴァは全車へ時刻を送らない。
車両ごとに、異なる合図。
鈴。
振動。
灯。
結び。
同時ではない。
結果が三秒の窓を作るよう、ずらす。
「一!」
五両目が負荷を取る。
「二!」
三両目が解放。
「三!」
七両目が橋へ固定。
軸が三秒戻る。
ロロの工具が入る。
「今!」
塔職員が歯を押さえる。
ロロが一枚抜く。
右手が滑る。
補助腕が受ける。
喘息の息が鳴る。
「抜いた!」
軸速度、七パーセント低下。
列車全体の負荷が限界を下回る。
「結び目、残る」とミラ。
「残した」とイヴァ。
「解決じゃない」
「記録」
「失敗」
「運行継続中の失敗」
「高くつく」
「生還後、払う」
二人は笑わない。
未解決を残すのは、勝利ではない。
ただ、消して勝ったことにしない。
小灯の白火が、中央塔の外殻へ広がる。
巨人を分けたため、火点は増えた。
塔の八花弁。
列車屋根。
石畳。
紙橋。
「水路、限界!」ラト。
「紙が膨らむ!」
「燃える外装を外す!」
「中に眠った人!」
「もう移送済み!」
「記録棚!」セレナ。
「複製は」
「一部ない!」
「救う?」
セレナは一秒考える。
記録棚には、夢売買契約。
患者の退出履歴。
代理同意の運用。
今夜の違法と救難を立証する資料。
燃えれば、責任者が逃げる。
同時に、棚を守れば、火が診療車へ回る。
「人を」とセレナ。
「証拠は」
「持てる分だけ」
「何を選ぶ」
「制度原本ではなく、本人の撤回記録」
「旧制度の証拠が」
「旧制度は、町じゅうの傷に残る」
「裁判で使えない」
「使える形へ、後で集める」
「逃げられる」
「人を焼いて捕まえるよりまし」
セレナは、自分の証羽を棚へ飛ばさない。
退出・拒否・保留の記録箱だけを、左腕で抱える。
右手首は固まっている。
「重い」
ラトが取ろうとする。
「共同保持」とセレナ。
「はい」
二人で持つ。
記録箱一つ。
残りの棚へ、火が入る。
紙が燃える。
夢売買契約の原本が、白い場面を映す。
幼いソムナの左手。
家族の印。
治療費。
セレナは見ない。
夢景を証拠にしない。
原本の焼失時刻だけを、口頭でラトへ伝える。
「夜明け後三分二十二秒。中央夢灯塔、旧契約棚、救命上の放棄」
「放棄?」
「救出不能ではない。人を優先し、選んで置いた」
「責任」
「私も」
「俺も」
記録を守れなかった二人の名を残す。
証拠を失う責任も、一人へしない。
塔の火抜き折りが、順に外れる。
紙職人の老女が号令する。
「一番、外!」
花弁一枚が、列車の鉄輪へ落ちる。
「二番!」
別方向。
「三番、待ち!」
「なぜ!」
「風下、診療車!」
「風、変わる!」
「待つ!」
三番だけ残す。
火はそこへ集まる。
塔が傾く。
「老女、名前!」セレナ。
「今?」
「判断記録!」
「ハナ・オルド。紙職人、六十七年!」
「三番保持、理由、診療車風下」
「それだけじゃない!」
「追加」
「三番の裏に、朝綴じの手動弁がある! 落としたら閉じる!」
「先に!」ロロ。
「あんたが図を裏から読めなかっただろ!」
「言葉遊びしてる場合!」
「職人歴の説明!」
ハナが折り目へ手を入れる。
熱い。
メイが遠くから叫ぶ。
「手袋!」
「紙の温度は指で」
「火傷は指を奪う!」
「六十七年」
「六十八年目を使う!」
ハナは不満そうに耐熱手袋をする。
「分からん」
「何が」
「紙の声が遠い」
少年が温度計を読む。
「表、一二〇。裏、八十。折り目、九十七」
「湿り」
別の職人が触る。
「外縁三、中心一」
「音」
ロロが振動を読む。
「弁、まだ開いてる」
三人の感覚を合わせる。
ハナ一人の指を、英雄にしない。
「今、外す!」
三番花弁が落ちる。
手動弁は開いたまま。
診療車へ火は回らない。
【現実/中央塔側診療車/覚醒/夜明け後三分五十秒】
ソムナは、自分の腕へ絵を描く。
重要な記憶を忘れそうな時の癖。
丸い鍋。
開いた扉。
赤い布。
銀の線。
三つに分かれた糸。
「何」とメイ。
「今、あるもの」
「意味」
「鍋はあなた。扉はアサ。赤い布は、ハル。銀はエリア。糸はルメ」
「カイル」
「苺」
「王子が泣く」
「泣かない!」遠くから声。
「聞こえた」
「ロロ」
「工具」
「ノクス」
「耳を噛む」
「セレナ」
「記録しないことを記録する」
「ミラ」
「値段」
「イヴァ」
「目的地」
「全部、記号にする?」
「今は」
「あとで変えていい」
「うん」
「家族」
ソムナの指が止まる。
両親。
弟。
知識はある。
声がない。
「描かない」
「理由」
「言わない」
「了解」
腕の余白が残る。
メイは、その空白へ薬名を書かない。
別の紙へ書く。
「体温三十五・一。糖液、少量。飲む?」
「甘い」
「嫌い?」
「甘い睡眠薬は嫌い」
「これは糖」
「違い」
「眠らせない。身体を起こす燃料」
「値段」
「診療所負担」
「払う」
「今は保留」
「ミラみたい」
「褒め言葉?」
「今回は」
ソムナは少量飲む。
甘さに顔をしかめる。
「苦い種」
「一粒まで」
「二」
「一」
「医療に値切り」
「ない」
「知ってる」
苦い種を一粒。
噛む。
本音を隠す時の癖ではない。
単に甘さを消したい。
同じ行動の意味は、一つではない。
夢から戻った後の現実負担〈モーニング・コスト〉は、朝になってから来る。
夢内で走った者の筋肉痛。
返された記憶による吐き気。
失った時間。
焼けた家。
未払いの賃金。
眠るあいだ代わった者の疲労。
救難列車の費用。
壊した塔。
燃えた記録。
奇跡は、請求書を消さない。
メイは、診療車の外壁へ大きな方眼を出す。
「夢の処理、終わってない。生活支援、始める」
「今?」
「今から」
「火事中」
「だから」
食事。
寝床。
薬。
支える人。
仕事。
五列。
さらに二列を足す。
費用。
拒否鍵の保管。
「費用、今出すと、救助を断る人が」とミラ。
「請求しない」とメイ。
「なら隠す?」
「かかった額を共同体へ見せる。個人へ今請求しない」
「誰が払う」
「決まってない」
「赤字」
「見せる」
「寄付」
「条件つきなら監査」
「商業夢市場が出すと言ったら」
ソムナの顔が固まる。
「拒否」
「あなた一人で?」メイ。
「汚れる」
「誰が」
「治療が」
「資金を受けると」
「条件が」
「条件を患者組合と見る」
「断る」
「組合が受けると決めたら」
「……」
「あなたの清廉さで、病床を閉じない」
未来の失敗を、今すべて解決しない。
ソムナは答えられない。
「保留」
「それでいい」
方眼の費用欄へ、赤い空白。
未解決。
【現実/中央夢灯塔・朝綴じ核/覚醒/夜明け後四分二十八秒】
軸の回転が、止まる。
急停止ではない。
列車の車輪へ負荷を逃がし。
花弁を外し。
患者鍵で札を分け。
夢内の網を患者側から引き。
少しずつ。
最後の一回転。
歯車が、音を立てる。
カン。
塔の中心が開く。
白い紙筒。
中から、灯が一つ上がる。
小さい。
手のひらほど。
紙なのに燃えない。
火がないのに明るい。
表面へ、誰か一人の夢を映さない。
見る角度で変わる。
眠る者には出口。
起きた者には寝床。
記憶を保留した者には封。
役割を手放した者には空席。
「何」とハル。
塔へ戻った彼が、まだ座ったまま問う。
カイルが息を吐く。
「天鍵」
「番号」
「五」
セレナが台帳を確認する。
「第五の天鍵たる夢灯籠〈ドリーム・ランタン〉」
誰も触らない。
旅を始めたころなら、ハルが手を伸ばしたかもしれない。
王子が保護を宣言したかもしれない。
学院が研究名目で箱へ入れたかもしれない。
長い旅の末の彼らは、先に問う。
「所有者」とセレナ。
「町」とユーディ。
「町は一人じゃない」とルメ。
「王家ではない」とカイル。
「発見者でもない」とハル。
「患者だけでもない」とメイ。
「夢を見ない者もいる」とソムナ。
「今、決めない」とアサ。
天鍵の周りへ、八つの空席を置く。
患者。
医療。
生活小組。
都市。
外部監査。
記録。
救難。
保留。
保留が席になる。
誰も座らない席が、所有者の一人として認められる。
夢灯籠は、静かに回る。
その中へ、一瞬だけ、海の青が映る。
ハルが立ちかける。
「三十秒」とメイ。
「もう過ぎた」
「今の三十秒」
「更新された?」
「身体は常時更新」
「面倒」
「生きてる」
ハルは座ったまま見る。
海の青は消える。
今、追わない。
町が燃えている。
人が眠っている。
ソムナが戻った。
天鍵は、答えではない。
答えを急ぐ者の手から、少し離して置く道具である。
白火は、最後まで残った黒穴灯の周りで止まる。
耐火石が円を作る。
中の灯へ、誰も触れない。
夢内の持ち主から、初めて声が来る。
『夜が終わった?』
アサが答える。
「時計上は」
『夢は』
「続けられる」
『町は』
「燃えた。あなたの身体は石造り避難所。家は確認中」
『起きない』
「了解」
『いつまで』
「今は決めなくていい。次の身体確認は一時間後。夢内容は聞かない」
『灯は』
「触れていない。周囲を保護」
『誰か、怒ってる?』
「通路が曲がって不便だと言う人はいる」
『ごめん』
「謝罪は要らない」
『邪魔』
「占有」
『同じ』
「違う。邪魔は、いないほうがよいという言葉。占有は、いるから空ける言葉」
『言葉遊び』
「権利」
黒穴灯の火が、小さくなる。
消えない。
夜明けを越えて、眠り続ける。
町は、その灯の周りへ道を描き直す。
中央塔の最上部で、朝の第二鐘が鳴る。
通常なら、すべての夢灯が消える時刻。
消えない灯がある。
保留。
拒否。
指定保管。
段階返却。
以前の町なら、異常だった。
今朝からは、状態である。
ソムナは診療車の扉から、外を見る。
中央塔。
列車。
小灯。
燃えた屋根。
ハルが、二本の索に支えられて降りてくる。
赤いマフラー。
「赤い人」とソムナ。
「ハル」とメイ。
「知ってる」
「思い出した?」
「今、聞いた」
ハルが診療車へ入る。
「戻った」
「現在地」ソムナ。
「中央塔側診療車。入口から三歩。お前の寝台の前」
「次」
「座る」
「どこ」
「床」
「椅子」
「お前、椅子の向き直すだろ」
「僕が?」
「出口が見える向き」
「教わった?」
「俺の記憶」
「じゃ、置いて」
ハルは椅子を、扉が見える向きへ直す。
座る。
「帰る?」
ハルが聞く。
「身体へは」
「次」
「保留」
「うん」
「あなたは」
「ゼロスター号」
「地球」
「帰る」
「父親」
「探す」
「誓い?」
「今の目的」
「撤回する?」
「条件が変わったら」
「怖くない?」
「怖い」
「記録した」
「お前、セレナみたい」
「誰」
ハルは一瞬止まる。
セレナが扉の外で言う。
「セレナ・クロウ。星律官。あなたが『記録しないことを記録する』と言った相手です」
「言った?」
「私の記憶では」
「うん」
ソムナは腕の絵へ、六角形を一つ足す。
全部を思い出さない。
誰かから聞いたことを、自分の過去として塗り替えない。
それでも、今から知り直す。
夜明けは、元へ戻る時刻ではない。
戻らないまま、次の一日を始める境目である。
夢灯都市は、その境目を越えた。
塔の中心で、第五の天鍵たる夢灯籠が、誰の夢ともつかない光を一つ残していた。