第599話 第十二章「夢灯籠と不正確な記憶」前編
完全な記憶という言葉ほど、記憶を信じていない言葉はない。
人は、昨日の朝食を完全には覚えていない。
親しい者の顔も、見ていない角度までは知らない。
自分が発した言葉でさえ、相手が受け取った音とは違う。
記憶は欠ける。
混ざる。
後から知ったことに形を変えられる。
だから人は、完全な記憶を欲しがった。
欠けないもの。
編集されないもの。
見落としのないもの。
しかし、完全さを名乗る記録には、必ず誰かの補完が入る。
見えていなかった背中。
聞こえなかった音。
覚えていなかった時刻。
欠けを埋めた者が、自分の手を隠した時、再現は真実の服を着る。
ハルは父を探している。
ゆえに、父の完全な記憶を最も欲しがり、最も疑わなければならなかった。
【現実/夢灯都市・夜明け診療所仮設棟/覚醒/災害から六日後】
診療所の入口には、扉が三つあった。
一つ目。
入る。
二つ目。
途中で帰る。
三つ目。
中へ入らず、札だけ受け取る。
「三つ目、入口じゃない」とハル。
「外から見れば」とソムナ。
「中から見れば?」
「出口」
「言葉遊び」
「建築」
ソムナは、扉の蝶番を調整している。
綴灯杖ピロウは壁へ立ててある。
杖の輪には、患者が持つ退出札と同じ形の小札が増えた。
袖へ縫っていた夢断片は、半分以下。
記憶が戻ったからではない。
患者の夢を自分の身体へ保存する習慣をやめた。
「右、上がってる」とハル。
「どっちの右」
「扉から見て」
「扉は見ない」
「じゃ、俺から」
「あなたの右」
「うん」
「二ミリ?」
「一」
「ロロなら」
「半ミリって言う」
「呼ぶ?」
「呼ばない」
「なぜ」
「自分で直す」
「助けを借りない?」
「練習」
ソムナは右の蝶番を一度緩める。
扉が落ちる。
ハルが受ける。
「助け」
「頼んでない」
「落ちた」
「助けて、ハル」
「今?」
「今」
「具体的に」
「扉を、三呼吸持つ」
「了解」
ハルは三呼吸。
一。
二。
三。
「終わり」
ソムナが固定する。
扉は少し傾いている。
「一ミリ」ハル。
「次の修理札へ」
「今直さない?」
「扉は開く。人が待ってる」
完全な扉を作るより、不完全でも使える入口を先に開く。
六日前のソムナなら、自分が最後まで直したかもしれない。
今の彼は、修理札へ不具合を書き、別の手へ渡す。
忘れたからではない。
覚えたまま、渡す。
仮設棟の看板には、名称が二つある。
『夜明け診療所』
『夜を続ける相談所』
「長い」とミラ。
「短くすると、どっちかが消える」とアサ。
「看板代、二倍」
「紙は再利用」
「書く人の手間」
「共同時間」
「無償労働?」
「希望者。二時間。超過は有償」
「値段」
ルメの三つの声が答える。
『一時間、三十星片』
『食事券との交換可』
『作業をしなくても、看板を使う権利は変わりません』
「買う」とミラ。
「何を」とイヴァ。
「看板の作り方」
「自由港へ?」
「契約なし救難路の入口に、『乗らない相談』を置く」
「乗らない者を人数へ入れる?」
「入れたら乗客じゃない」
「入れなければ、行方不明確認から外れる」
「また、それ」
「解決していない」
「分かってる」
二人の共同列車は、災害後すぐ運行を止めた。
失敗したからではない。
成功したまま続けると、失敗を制度の内側へ隠すからだ。
結び目は百八十七。
身体は百八十二。
落ちた荷袋が一つ。
残る四つ。
重複か。
途中で降りた希望か。
乗らなかった者の相談記録か。
結びを作ってから撤回した者か。
分からない。
「試験報告、題」とイヴァ。
「『契約なし避難列車、成功』」ミラ。
「却下」
「『失敗』」
「却下」
「面倒」
「『運行により救命。人数管理に未解決四件。再運行条件未達』」
「長い」
「権利を略すなって言われた」
「誰に」
「エリア」
「地図屋が?」
「私も言った」
「車掌が?」
二人は同じところを回る。
循環は、いつも悪いとは限らない。
同じ問題へ戻るたび、前回消したかった細部を残せるなら、それは螺旋である。
「次の試験」とミラ。
「まだ決めない」
「怖い?」
「四人を消すのが」
「四件」
「人かもしれない」
「荷物かも」
「分からないまま、人として保留」
「高くつく」
「払う」
「共同で?」
「共同で」
ミラの風鈴が鳴る。
嘘ではない。
契約でもない。
今の合意。
診療所の中では、ルメが七つの小組に分かれている。
朝食。
投薬。
寝床。
記録。
子守。
修理。
何もしない組。
「最後、組?」ハル。
『組です』
『何もしない時間を共同で確保します』
『呼び出しへ応じない権利を交代で守ります』
「何もしないのを仕事にすると、仕事になる」
『だから、報酬を付けません』
『しかし、他の仕事を割り当てません』
『参加を義務にしません』
「難しい」
『難しくしたまま運用します』
ルメの赤糸は一本ではない。
七つの小さな輪。
輪同士をつなぐ糸も、固定ではなく、毎日交代する。
一つの人格を失った、と嘆く者もいる。
以前のルメの声を返してほしい、と求める者もいる。
小組は、その願いを悪としない。
ただし、一人へ戻らない。
「前のルメは、死んだ?」
子供が聞く。
三つの声が答える。
『一部は続いています』
『同じではありません』
『葬るかは、まだ決めていません』
「じゃ、誕生日は」
『七つあります』
『以前の日も残します』
『増えすぎるとケーキ代が問題です』
「ミラに聞く」
「高いよ」とミラ。
子供は笑う。
共同人格は、哲学だけで続かない。
誕生日とケーキ代が要る。
メイの診療譜には、夢から戻った後の現実負担が並ぶ。
家を失った者、二百十一。
仕事場を失った者、百三十七。
投薬継続が必要な者、八十九。
介護交代が必要な組、四十一。
記憶を保留した者、五十六。
夢へ残っている者、十三。
拒否灯を保護中、四。
数字は毎日変わる。
「減った」と救護員。
「何が」メイ。
「夢へ残ってる人」
「二人、身体危険で一時覚醒。三人、自分で退出。二人、人数確認から重複が判明」
「良くなった」
「そうとは限らない」
「起きた」
「起きた後、寝床を拒否した人が一人。身体は安全、生活欄は未定」
「でも、数字は」
「数字を褒めない」
「人を?」
「選んだことを確認する。褒めるかは、本人が望めば」
救護員は、帳簿の減少へ丸を付けかける。
やめる。
代わりに、変化理由を書く。
数字の裏へ、動詞を置く。
退出。
保留。
一時覚醒。
重複訂正。
町は見にくい。
少し正確。
ソムナの記憶は、夜明けに全部戻らなかった。
戻ったもの。
自分の名。
夢灯都市という町名。
メイの顔。
アサの杖。
ピロウの使い方。
弟がいること。
戻らないもの。
弟の声。
ゼロスター号で最初に座った席。
カイルから借りた苺大福の数。
ハルへ最初に抱いた印象。
夜市のどの屋根で、誰と笑ったか。
戻ったか、教わったか、分からないもの。
塩のないスープ。
エリアとの議論。
ルメが箒を置いた階段。
誓いを撤回した時の自分の声。
ソムナは、三種類の札を作る。
『覚えている』
『他人から聞いた』
『区別できない』
「四つ目」とセレナ。
「何」
「記録しない」
「札を作らない」
「作らないことを」
「記録しないで」
「了解」
セレナは筆を止める。
本当に止める。
ソムナは、その動作を見る。
「今のは覚える」
「記録しますか」
「しない」
「了解」
二人の間だけに、今の記憶が残る。
どちらかが忘れれば、消える。
消えうるものを持つことも、所有の一つである。
【現実/中央夢灯塔・共同保管室/覚醒/災害から七日後】
第五の天鍵たる夢灯籠は、八つの空席の中央にある。
保管室へ鍵はない。
鍵がないから自由に入れる、という意味ではない。
扉を開けるには、八席のうち三つが「見守る」と示し、二つ以上が「今は開けない」を示していないこと。
患者席。
医療席。
生活小組席。
都市席。
外部監査席。
記録席。
救難席。
保留席。
保留席には、誰も座らない。
白い札だけ。
そこが「開けない」と示す方法は、札を裏返すこと。
誰が裏返すか。
その日の無作為抽選で選ばれた、市民三人のうち一人。
「保留席なのに人が決める」とハル。
「完全な無人権限は作れない」とセレナ。
「じゃ、保留じゃない」
「人が、何も決めないと決める席」
「言葉遊び」
「制度設計」
今日、開室へ同意したのは患者、外部監査、記録。
医療席は条件つき。
『映像に身体反応が出た者は、即時停止を選べる』
生活小組席は、見守り。
都市席は棄権。
救難席は、目的を限定。
『天鍵の反応確認。父ソウジの探索へ直結する断定は禁止』
保留札は表。
開ける。
ハルは入口で立ち止まる。
「入る?」アサ。
「入る」
「途中で出る?」
「出られる」
「映像を止める鍵」
ざらつく小札を渡される。
「俺が持つ」
「エリアも持つ」とエリア。
「なんで」
「あなたが固まった時」
「本人以外が止める?」
「身体危険だけ。映像の内容が嫌そうだからでは止めない」
「セレナ」
「条件を記録済み」
「カイル」
「私は王子席ではない。友人として外にいる」
「入らない?」
「見たい」
「じゃ」
「見たいから入らない。君が私の顔を見て、反応を決める」
「そこまで器用じゃない」
「怖い時の君は、他人を先に見る」
「知ってる?」
「ここまでの旅で、見た」
「意味分かんない」
「私もだ」
カイルは外へ残る。
ロロは機械監査として入る。
ノクスは、匂いの比較。
セレナは、出所と停止時刻。
エリアは、身体と地図。
ソムナは、夢の再現と本人の記憶を混同しない監査。
「僕が入る?」ソムナ。
「嫌なら」とハル。
「夢を見る道具じゃない」
「でも」
「僕の夢を返す道具でもない」
「怖い?」
「怖い」
「じゃ、一緒」
「それ、参加を誘導する」
「俺は入る。お前は決める」
「入る」
「理由」
「言わない」
「了解」