第600話 第十二章「夢灯籠と不正確な記憶」後編

 夢灯籠は、台へ置かれている。

 手のひらほど。

 紙の面。

 中に火はない。

 ハルが近づくと、零星針が胸元で震える。

 指さない。

 現在地を返すだけ。

「現在地」とエリア。

「夢灯都市、中央塔共同保管室。入口から七歩。ハル、覚醒。ソムナ、覚醒。全員、現実」

「映像開始条件」とセレナ。

 夢灯籠の台へ文字が浮かぶ。

『欠落記憶の完全再現』

 ハルの喉が狭くなる。

「完全」とロロ。

「宣伝文句?」

「古星語刻印。製作者側の機能名」

「真実とは書いてない」とセレナ。

「再現」とソムナ。「再生じゃない」

「違い」ハル。

「再生は、記録されたものを出す。再現は、足りない部分を組み立てる場合がある」

「完全なのに」

「完全に見えるまで、埋める」

 停止札を握る。

「始める?」アサが外から問う。

「始める」

 灯籠の紙面が、海になる。

 青。

 頭上の海。

 アステリアの空を、天井のように覆う海。

 水面が上にある。

 魚影が雲の向こうを泳ぐ。

 岸壁。

 古い工房。

 十五年前。

 男が立っている。

 凪野ソウジ。

 ハルの父。

 背中だけ。

 黒に近い髪。

 工具鞄。

 歩き方。

 右足をわずかに外へ開く。

「父さん」

 声は、映像へ届かない。

 ソウジは工房の機械へ手を置く。

 金属音。

 カン。

 カン。

 カン。

 フウ。

 ハルの右手が、停止札を握り込む。

 止めない。

 映像の父は、振り返らない。

 工房の奥で、第三機械爪が下りる。

 金属板へ触れ、三度目のカンを鳴らす。

 蒸気がフウと抜ける。

 技術的に整った周期。

 カン、カン、カン、フウ。

 夢夜市から返された原初夢。

 六歳のカイルの記憶に混じっていた、別の工房音。

 実際の事故時。

 カン。

 カン。

 フウ。

 カン。

 三つ目の機械爪は鳴らなかった。

 最後のカンは、別の金属板を誰かが叩いた音。

「違う」とロロ。

 ハルより先に言う。

「機械周期、訂正版」

「映像の音源」とセレナ。

「旧工房の保守記録にある正常周期と一致。事故時の生音とは不一致」

「事故時の生音も、夢記録」とソムナ。

「単独では真実にしない」とセレナ。「ただし、夜市の鑑定で物理痕、機械爪の摩耗、金属板の打痕と一致した」

「この映像は、正常な音へ補完した」エリア。

「完全だから」とハル。

 完全にするため、不正確になった。

 映像のソウジが、工具鞄を持つ。

 頭上の海へ続く桟橋を歩く。

 海面へ逆さに伸びる船着き場。

 場所名はない。

 日付もない。

 誰かの声もない。

 ただ、背中。

 父が海へ向かう。

 ハルの胸が痛い。

 嘘だからではない。

 真実かもしれないから。

「止める?」エリア。

「見たい」

「身体」

「息、できる」

「肩」

「二」

「一般式」

「二」

 ソウジは、桟橋の端で一度止まる。

 振り返りそうになる。

 ハルの身体が前へ出る。

 父は振り返らない。

 海へ向かう。

 映像が白くなる。

 終わる。

 完全な記憶は、父の顔を見せなかった。

「場所」とハル。

「特定不能」とエリア。

「目的」

「映ってない」

「生死」

「分からない」とセレナ。

「音が違う」

「はい」

「編集?」

「再現補完の可能性」とロロ。

「誰が」

「分からない」

「いつ」

「分からない」

「父が本当に海へ?」

 誰も答えない。

 答えないことを、優しさと呼ばない。

 分からないから、分からない。

 ハルは停止札を開く。

 指に跡がついている。

「見た」

「真実?」ソムナ。

「映像」

「父親?」

「似てた」

「記憶?」

「今見た」

「探す?」

「探す」

「映像を信じて?」

「信じない」

「じゃ」

「見たから、調べる」

「矛盾」

「羅針盤は、答えを指さない」

 胸元の零星針は、今いる床を指している。

「現在地から行く」

 エリアが地図へ、頭上の海を描かない。

 まだ場所がない。

 代わりに、保管室から出口までの七歩を描く。

「先に、出る?」

「出る」

「途中で止まる?」

「止まらない」

「今は」

「今は」

 二人は七歩を歩く。

 一。

 二。

 三。

 ハルは、振り返らない。

 父の映像へではない。

 保管室に残るソムナへ、四歩目で振り返る。

「来る?」

「診療所へ戻る」

「同じ道」

「途中まで」

「じゃ、四歩」

「七」

「診療所、反対」

「出口まで、一緒」

「うん」

 五。

 六。

 七。

 扉を出る。

 その先で、道が分かれる。

【現実/ゼロスター号・客員席/覚醒/災害から八日後】

 ゼロスター号は、片帆のまま修理を終えていない。

 甲板に、客員席がある。

 ティアの規則札。

 ミラの硬貨穴。

 ガンガの骨飾り。

 ユノの鏡片。

 イヴァの行き先未記入切符。

 六枚目が増える。

 小さな紙灯籠。

 中に、苦い種が一粒。

 側面には四つの窓。

『起きる』

『保留』

『戻らない』

『今は答えない』

 どの窓も、閉じていない。

「航路札」とソムナ。

「名前」とハル。

「まだ」

「無名?」

「名前を付けると、使い方が一つになる」

「苦い灯籠」

「却下」

「夜明け札」

「朝だけになる」

「途中出口」

「入口にもなる」

「面倒札」

「あなたの札」

「俺の?」

「赤いマフラーを巻く?」

「燃える」

「じゃ、保留」

 名のない六枚目。

 ソムナはゼロスター号へ残らない。

「本当に」とハル。

「何」

「ここに残る」

「うん」

「診療所」

「うん」

「俺たちと行かない」

「患者の物語は、あなたの船へ乗らない」

「お前の物語」

「ここで続く」

「次、会った時」

「忘れてるかも」

「現在地、返す」

「毎日?」

「できる限り」

「できない日」

「できないって送る」

「期限」

「次に会うまで」

「長い」

「更新できる」

「契約?」

「約束」

「撤回?」

「条件が変われば」

 ソムナは苦い種を噛まない。

「ありがとう」

 本音。

「何に」

「僕を連れて帰らなかったこと」

「途中まで、一緒だった」

「うん」

「俺も、ありがとう」

「何に」

「帰るか、自分で決めた」

「あなたのためじゃない」

「知ってる」

「それでも?」

「うん」

 感謝は、相手の行動を所有する言葉になることがある。

 ハルは理由を足さない。

 ソムナも、受け取るかを保留しない。

「受け取る」

 そう言う。

 メイは診療所へ残る。

 アサも残る。

 ルメの小組は、それぞれの区画へ戻る。

 ユーディは危機局長のまま、公開審理へ出る。

 セレナは焼けた契約棚の代わりに、住民の撤回記録を一件ずつ集める。

 ラトは、拒否灯の周りで曲がった通路を、まっすぐへ戻さない。

 カイルは王国へ、中央代理制度停止の照会を送る。

「王家にも似た制度、ある?」ハル。

「似ていない名前で、あるだろう」

「止める?」

「調べる」

「王子命令」

「調べず止めると、別の誰かへ移る」

「慎重」

「怖い」

「記録した」

「お前までセレナになるな!」

 カイルは笑う。

 笑ったから、王国の問題が解決したわけではない。

 船は出る。

 夢灯都市の紙屋根は、三分の一が焼けている。

 中央塔は八枚の花弁を失い、鉄の列車に支えられたまま。

 夢灯籠の保管室には八つの席。

 再建は始まった。

 始まった、という言葉は便利である。

 終わっていないものへ、前向きな顔を与える。

 だから町の人々は、別の言い方も使う。

『まだ途中』

【現実/ゼロスター号・離港航路/覚醒/災害から八日後】

 夢灯都市が遠ざかる。

 紙の塔。

 列車の輪。

 小さな灯。

 エリアは船尾で地図を描く。

「頭上の海」とハル。

「描かない」

「映像にあった」

「場所が分からない」

「空域くらい」

「同じ景観、七か所」

「七」

「鏡砂環の反射海を含めれば十二」

「多い」

「不正確な線を一本引くより、候補を十二残す」

「じゃ、点」

「点は場所を断定する」

「空白」

「描いた」

 地図の上に、白い余白。

 周囲へ十二の注記。

『頭上の海に見える景観』

『機械音、正常周期へ補完』

『父の背中に類似』

『場所・目的・生死、不明』

「厳しい」

「消す?」

「消さない」

「美しくない」

「正確」

「褒めると」

「地図の話へ戻る」

「戻ってる」

「今はいい」

 ハルは空白へ指を置かない。

 エリアの手の横へ、自分の手を置く。

 触れない。

 一指ぶん。

「何」とエリア。

「現在地」

「船尾」

「俺」

「私の右」

「一指」

「近い」

「離れる?」

「保留」

「言葉、便利」

「乱用しないで」

 二人の手は、触れないまま。

 船が揺れる。

 一瞬、指先が当たる。

 どちらも謝らない。

 ノクスが、空へ吠える。

 二本の尾。

 一本は上。

 一本は前。

「何」

 頭上の海が、波打つ。

 海面は空の上にある。

 その青の中へ、黒い線。

 船影。

 古い。

 帆の形。

 船腹の補修痕。

 十五年前の航海記録に使われていた型。

「映像?」ハル。

 夢灯籠は町にある。

 ここにはない。

「現実」とエリア。

「距離」

「測る」

 船影が、頭上の海から落ちる。

 水を突き破らない。

 海面から、空へ。

 上下を間違えたように。

 船体が回る。

 一枚の帆が破れる。

 光。

 三短。

 一長。

 三短。

「救難信号」とカイル。

「古い形式」とロロ。

「誰の船」

「見えない」

「十五年前?」

「船型が」

「今落ちてる」

「現在の信号」セレナ。

 過去の船型。

 現在の救難。

 それ以上は分からない。

「進路」とエリア。

 地図へ、船影の落下線を描く。

 目的地ではない。

 墜落予測。

「間に合う?」ハル。

「今の速度なら」

「なら、行く」

「父親の船?」

 カイルが問う。

 ハルは、黒い影を見る。

 似ているかもしれない。

 違うかもしれない。

「分からない」

「それでも?」

「救難信号」

 父でなくても行く。

 父かもしれなくても、決めつけない。

 ゼロスター号が旋回する。

 片帆が朝の風を受ける。

 零星針は、落ちる船を指さない。

 ハルの胸で、今いる場所を示す。

 現在地から、次の道へ。

 星のない羅針盤は、答えをくれない。

 だから少年たちは、自分で向きを選ぶ。

 頭上の海から、十五年前の船影が落ちてくる。

 その船が何を運び、誰が乗り、なぜ今ここへ落ちるのか。

 まだ、誰も知らない。

 ただ一つ、三短、一長、三短の光だけが、現在の空で助けを求めていた。