第601話 第一章「海から落ちる船」前編

落ちる、という言葉には、下が要る。

 上から下へ移るから落下であり、横へ行けば移動、前へ行けば前進、後ろへ行けば撤退と呼ばれる。人は動いたものより先に方向へ名前を付け、その名前によって出来事を理解した気になる。

 だから頭上に海がある土地では、落下という言葉はしばしば訴訟になる。

 海へ帰ったのか。

 空へ落ちたのか。

 船が上下を間違えたのか。

 それとも、見ている側が間違ったのか。

 天井海と逆重力の空域〈アビサ〉の古い航海法には、こうある。

『事故報告に「落ちた」とだけ書いた者は、まず自分の靴底を示せ』

 靴底の向いている方角さえ、次の潮刻には変わるからである。

 その日、ハルたちの頭上から落ちてきた船については、靴底を示す暇もなかった。

【現実/ゼロスター号・夢灯環外縁航路/覚醒/救難信号受信から十九秒】

「右へ八度!」

「右ってどっち!」

「船首から見て右!」

「船首、今どっち!」

「私が立っている方の反対!」

「それを船首って言え!」

「言いました!」

 ゼロスター号が傾く。

 片帆しかない小型星帆船は、傾くことに慣れていた。慣れているから安全なのではない。慣れとは、危険のたびに驚いている余裕がなくなった状態をいう。

 右舷の補修板が軋む。

 夢灯都市でもらった紙灯籠の航路札が、客員席で一斉に鳴る。

 船首の無星台でノクスが四本の脚を広げ、二本の尾を別々の空へ立てた。

 上には海。

 前には落ちる船。

 下には光を通さない雲海。

 その三つが、同じ青の中へ重なっている。

「距離、四百二十!」エリア。

「相対速度!」カイル。

「船体同士なら百八十、死人と俺たちなら測る意味なし!」ロロ。

「死人と断定するな」とセレナ。

「生体反応ゼロ!」

「検出不能と死亡は別!」

「じゃ誰が救難信号出してんだよ!」

 三短。

 一長。

 三短。

 黒い船影の船首で、古式の救難灯が瞬く。

 十五年前に使われていた信号形式。

 現在点滅している光。

 過去形の道具は、現在形で助けを求められる。

 道具は文法を気にしない。

「ハル!」

 エリアが名を呼ぶ。

 ハルはもう走っていた。

「先に飛ぶな!」カイル。

「まだ飛んでない!」

「飛ぶ顔だ!」

「顔は証拠じゃない!」

「お前の場合、予告だ!」

 少し前にロロが言われた台詞が、別の口から返ってきた。

 言葉もまた、修理されずに再利用される。

 ハルは甲板中央の牽引索を腰へ回した。

 左肩を使わない。

 右手で環を締める。

 左は添えるだけ。

「補助索、二本」とハル。

 言えた。

 無茶を止めるのではなく、無茶へ必要な助けを具体的に言う。

 成長とは、危険をしなくなることではない。危険を一人分へ見せかけなくなることだ。

「一本は船尾」エリア。

「もう一本、俺」とカイル。

「王子を錨にするな」とセレナ。

「王子だから重いという意味なら、政治的に訂正を求める」

「体重の話」

「六十八」

「聞いてない」

 カイルが右籠手から盾形の星力板を出し、牽引索の根元へ噛ませた。

 盾は短い。

 痛み返しを長引かせないためだ。

 メイがいない船では、本人が自分の痛みを申告しなければならない。

「肋部」とセレナ。

「今は三」

「一般式」

「四」

「五を越えたら交代」とエリア。

「四・九は」

「五」

「航路士は四捨五入が冷酷だな」

「救難では切り上げ」

 黒い船が回転する。

 船腹が見えた。

 濃紺の塗装。

 白く褪せた星図。

 舷側へ何度も貼り直された補修板。

 船尾の一部は苔ではなく、薄い珊瑚で覆われている。

 海の中へ長くいた船だ。

 しかし甲板は濡れている。

 濡れているだけなら、頭上の海から出た直後だから説明できる。

 問題は、その水がまだ筋になって流れていることだった。

「向きがおかしい」とエリア。

「船が回ってるから?」ハル。

「違う。水が船の回転より先に曲がっている」

「水が道を知ってる?」

「重力履歴」

「短く」

「この船の中に、いま複数の下がある」

「短くしたら怖さが増えた!」

 星帆船の船尾がゼロスター号へ迫る。

「接触まで七秒!」ロロ。

「接舷爪!」

「右二本、左一本! 夢夜市で二番腕と四番腕は焼けたまま!」

「足りる?」

「足りなくても足らすのが現場だよ!」

 ロロの背から、残る二本の補助腕が伸びる。

 一方は接舷爪。

 もう一方は張力計。

 本人の左手が巻揚げ機、右手が吸入器。

 息を一度吸う。

「ロロ」とハル。

「何」

「交代条件」

「喉が鳴ったら。視界白くなったら。俺が平気って言ったら!」

「最後は交代」

「分かってきたじゃねえか!」

 接舷爪が飛ぶ。

 一つ。

 船腹の手摺へ。

 二つ。

 古い測量塔の根元へ。

 三つ目はない。

 代わりにエリアの地図槍グリムリリーが日傘から長槍へ変わり、銀の線を空中へ描いた。

「路図〈ルート・レイ〉、接続は七秒」

「七秒しか?」

「船の下が変われば線も変わる」

「七秒あれば渡れる」

「あなたは」

「全員じゃない」

「だから先に固定点を作る」

 ハルは跳ぶ。

 ゼロスター号の甲板から、十五年前の船へ。

 間の空は二十七メートル。

 下方雲海までの距離は測らない。

 測っても足場にならないものは、恐怖の数字を増やすだけだ。

 一歩目は空。

 二歩目も空。

 三歩目で銀線。

 足裏に硬さが生まれる。

「一、二、三!」

 声にする。

 四歩目で船が回る。

 ハルの身体だけが、さっきまでの下へ落ちようとする。

 船の甲板は壁になる。

「ハル!」

 牽引索が張る。

 左肩へ負荷が来る前に、ハルは右肘を船腹の継ぎ板へ打ちつけた。

 痛い。

 痛いことと、壊れたことは違う。

 右手で手摺をつかむ。

 手摺は濡れていた。

 冷たくない。

「温い!」

「温度!」セレナ。

「体温より下、雨より上!」

「数値を!」エリア。

「手が温度計じゃない!」

「感覚でいい!」

「風呂なら入れる、スープなら怒る!」

「三十度前後」とロロ。

「翻訳が雑!」

「お前の比喩が料理しかねえんだよ!」

 ノクスが銀線を走ってくる。

 重力が変わっても、夜獣は四本の脚を別々に使う。右前脚が甲板、左前脚が船腹、後脚二本が空中の路図。二本の尾は上と横へ伸び、本人だけが立体的に怒っている。

「ナァア!」

「俺に怒るな!」

 ノクスはハルの赤いマフラーを噛み、船腹から甲板へ引き上げた。

「助かった」

「グル」

「礼は短く?」

「ガウ」

「長い?」

「翻訳をやめて」とエリア。

 彼女も渡ってくる。

 最後の一歩で両踵を同時に着かない。

 右、左。

 負荷を分ける。

 カイルは盾を足場にして着地し、着いた瞬間に消す。

 セレナは牽引滑車を使い、右手首へ捻りを入れない。

 ロロは渡る前に三度深呼吸し、二本の補助腕を先へ送ってから身体を引く。

「全員」とセレナ。

「ゼロスター号は自動追尾」とエリア。

「自動って信用できる?」ハル。

「ロロが作った」

「信用できなくなった!」

「修理代二倍!」