第602話 第一章「海から落ちる船」後編
甲板に人はいない。
救難灯だけが点滅している。
三短。
一長。
三短。
ハルは船鐘の下へ走った。
船名板が半分、珊瑚に埋まっている。
ロロが短い鑿を入れる。
「証拠」とセレナ。
「表面付着だけ取る。板は傷つけねえ」
「記録」
「取ってから言うなよ!」
証羽〈テスタ・フェザー〉が飛び、鑿の角度、剥がれた珊瑚、板の傷を記録する。
白い文字が現れた。
『星帆測量船 オルロイ』
「オルロイ」とカイル。
「聞いたことある?」ハル。
「古い時計の名でもある。王都籍ではない」
「建造板」とロロ。
船鐘の裏。
丸い銅板。
『建造 星環暦四〇八年』
現在は四二三年。
「十五年前」とハル。
言葉が口から出る。
父が消えた年と同じ。
同じであることは、つながっている証拠ではない。
世界には同じ年に起きた無関係な出来事が無数にある。
それでも胸は、証拠より先に反応する。
零星針が服の内側で冷たい。
針は船を指さない。
ハルの足元を指している。
現在地。
「父の船とは限らない」とセレナ。
「分かってる」
「今の返答は早い」
「遅く言えば信じる?」
「速度は証拠にならない」
「じゃ聞くなよ」
「自分へ言ったか確認した」
セレナの声は硬い。
硬いから冷たいとは限らない。
折れないよう支える声も、柔らかくはない。
救難信号が出ている船へ乗り込んだ者には、三つの義務がある。
最初に生存者を探す。
次に二次災害を止める。
最後に、自分たちが次の遭難者にならないよう帰路を残す。
この順序は、どの空域でも同じである。
同じなのだが、逆潮環では「帰路」という言葉へ注釈が七行付く。
潮刻前の帰路か。
潮刻後の帰路か。
船の重力へ従うか。
空域の重力へ従うか。
頭上の海へ戻るのか。
下方雲海へ避難するのか。
帰る本人が、どちらを帰還と呼ぶのか。
制度は複雑な土地ほど長くなる。
生活は制度より先に、もっと短い言葉を作る。
『結べ』
逆潮の船乗りは、それだけ言う。
「結んだ!」ロロ。
接舷索は三本。
ゼロスター号側二本、オルロイ号側一本。
「三本目は?」セレナ。
「ない!」
「規定は四本」
「俺の背中の腕も規定なら四本だ! 二本、修理中!」
「代替を」
「今作ってる!」
ロロが甲板の古い揚錨鎖を見た。
錆びている。
錆びているが、全体が赤茶ではない。鎖の内側だけが銀色に擦れている。
「最近動いた」とハル。
「見りゃ分かる」
「言ってみたかった」
「見たものを言うのは捜査だ。俺の台詞を盗むな」
「台詞に所有権ある?」
「使用料一ルク」
「高い」
「値切るな!」
ロロは鎖の一端を切らず、古い固定環から抜いた。
抜けない。
本人の左手が工具を回し、補助腕の一本が反対からナットを押さえ、もう一本が張力を読み上げる。
『二百九十。三百十二。三百四十』
「機械が喋った」とハル。
「俺が喋らせてんだ!」
「声、ロロじゃない」
「自分の声で数値言われると腹立つから変えた!」
「道具にも人間関係があるんだな」とカイル。
「王家の盾より健全だろ」
「反論しづらい比較をするな」
ナットが外れる。
鎖が一気に滑った。
「下がる!」
どの下かを言う暇がない。
鎖は甲板へ落ちず、船尾の空へ向かって走った。
その先で急に曲がり、帆柱の側面を滝のように上る。
エリアがグリムリリーを突き出す。
「線を切らないで!」
「切るなって誰に!」
「全員!」
銀の路図が鎖の軌道を包む。
鎖は重い。
路図は重さを消さない。
ただ、どこへ落ちるかを一時的に見える形へする。
「固定先、船首右の測量輪!」
「右って!」
「今の甲板基準!」
「基準、更新早い!」
ハルが走る。
鎖の下をくぐる。
くぐったつもりで、次の瞬間には鎖が横から来る。
一歩。
二歩。
三歩。
足裏へ段差。
古い甲板板の一枚が、新しい。
気づいたが、今は止まらない。
測量輪へ飛びつき、鎖を二重に巻く。
左肩へ持たない。
腰を落とし、右脚と背中で支える。
「カイル!」
「名で呼ぶとは、重いな!」
「実際重い!」
王盾炎が鎖の下へ出る。
炎なのに燃やさない。
盾なのに受け止めた痛みだけを持ち主へ返す。
星の力は比喩に従う。
比喩は、便利な時ほど代償を隠す。
鎖が止まる。
カイルの右籠手が赤くなる。
「四?」セレナ。
「四」
「本当」
「四・八」
「五」エリア。
「救難四捨五入!」
「交代」
カイルが盾を消す。
ハルは鎖を輪へ固定し、ロロが古い留め具へ新しい楔を打つ。
四本目の接舷線。
規定どおりではない。
現場で作った代替。
「帰路」とセレナ。
「残った」とロロ。
「記録」
「請求先も!」
「船主不明」
「じゃ王家」
「なぜだ!」カイル。
「王子がいた」
「同席課税か!」
「救難基金から出す」とセレナ。
「星律官、好き」
「記録した」
「今の撤回!」
オルロイ号の船首には、古い星図が描かれていた。
星の位置は十五年前のものだ。
これは不思議ではない。船首絵は、毎年描き直さない。
不思議なのは、その上へ新しい指跡があったことだった。
濡れた塩を、誰かが二本の指で払った跡。
指幅は狭い。
子供か、小柄な大人。
右から左へ。
「人」とハル。
「痕跡」とセレナ。
「新しい」
「乾燥前。三時間以内の可能性」
「誰かいる」
「自動機械の把持具でも同様の幅は作れる」
「可能性を減らす言い方、できない?」
「減らすのが捜査です」
ノクスが指跡を嗅ぐ。
鼻先へ塩が付き、くしゃみをする。
「ナッ!」
二本の尾が同時に船室を指した。
「今度は同じ」とハル。
「匂いが一つとは限らない」とエリア。
「希望も一つじゃない」カイル。
「詩に逃げない」とセレナ。
「王族教育の成果だぞ」
「返却してください」
船首の下で、何かが鳴る。
金属の擦過音。
一回。
間。
二回。
間。
三回。
工具の手順に聞こえる。
「救難信号と同じ?」ハル。
「違う」とロロ。
補助腕が全部、船室へ向く。
二本しかないので、全部向いても二本だ。
足りない数は、感情の大きさを減らさない。
「修理音」
「誰か作業してる?」
「同じ場所を、同じ順で叩いてる」
「人なら」
「人なら、十五年ずっと同じミスしてる馬鹿だ」
「機械なら」
「十五年ずっと同じ修理をしてる馬鹿だ」
「どっちも馬鹿」
「作業に終わりがない設計は、設計した奴が馬鹿なんだよ」
ロロは言い切った後、船腹の新しい一枚を見た。
十五年前の船。
数日前まで使われたらしい甲板。
いまも続く修理音。
壊れているから直しているのか。
直しているから壊れ続けられるのか。
その区別は、機械だけの問題ではない。
エリアが甲板へ手を置く。
「濡れ方が新しい」
「海から出た直後」とカイル。
「この溝」
甲板板の間。
水が流れている。
船尾ではなく船首へ。
途中で右へ曲がり、柱を一周し、上へ登る。
「登った」とハル。
「水は登らない」とロロ。
「登ってる」
「だから水にとってそこが下だ!」
柱の側面へ、水滴が張り付いて流れる。
さらに帆柱の裏では、別の水が甲板へ落ちる。
一隻の船に、二つの下。
「船内はもっと多い」とエリア。
「どうして」
「水筋が扉の数だけ折れている」
甲板中央の船室扉。
その隙間から、水が横へ流れ出ている。
ノクスが鼻を近づける。
「生き物?」ハル。
ノクスは一度嗅ぐ。
二度。
二本の尾が、別々の方向へ止まる。
「ナ」
「いる?」
「ナァ」
「いない?」
ノクスはハルの脛を叩いた。
「現在の匂いはある」とエリアが言う。「生体の匂いとは限らない」
「油。パン。濡れた布」とハル。
「パン?」カイル。
「焼いた匂い」
「十五年前の?」
「十五年焼き続けたら炭だろ」ロロ。
「数日前」とハル。
食べ物の匂いは、新しい。
帆布は古い。
船腹の珊瑚は年を重ねている。
甲板の水は温い。
時間が、船の部品ごとに違う顔をしている。
「入る」とハル。
「順序」とセレナ。
「救難灯停止、船体固定、生存者確認、機関停止」
「四つ同時にはできない」エリア。
「だから役割」
カイルが船鐘の支柱へ王盾炎の小さな楔を入れる。
ロロが接舷爪の張力を調整する。
セレナが船籍板を封印記録。
エリアが最初の部屋の下を描く。
ハルは扉へ手を掛ける。
扉は内側から開いた。
誰もいない。
廊下だけが、壁の方向へ続いている。
床は右。
天井は左。
水は正面の奥へ流れている。
「歓迎が立体的」とカイル。
「歓迎じゃない」とエリア。
「嫌がらせ?」
「生活」
セレナが扉の縁へ白い封印糸を貼る。
「退出方向」
「扉、閉まったら?」ハル。
「糸が残る」
「重力が変わったら」
「糸は出口を示し、足場は示さない」
「半分安心」
「安全は半分ずつ作るものです」
船内の空気は、古い木と温い金属の匂いがした。
腐敗臭はない。
人の汗もない。
代わりに、焼いた穀物。
湯気。
薄い油。
生活の匂いだけが、人を置き去りにして残っている。
廊下の壁へ、三つの手摺が付いていた。
床用。
壁用。
天井用。
「親切」とカイル。
「三方向へ転ぶ前提の建築」とエリア。
「それを親切と言う」
ハルは最初の手摺を握る。
冷たい。
二つ目は温い。
三つ目には、油が新しく塗られている。
「使う順番がある」とロロ。
「どれ」
「油の減り。上、右、下」
「今の順?」
「分からねえ。使った順」
壁に小さな絵札。
人が立つ。
鐘が鳴る。
床が壁になる。
人が手摺を持ち替える。
文字を読めない者にも分かる避難図だった。
「古いのに良い」とロロ。
「褒めた」とハル。
「良い設計は古くても良い。古いから悪いんじゃねえ。悪いまま古くなった奴が偉そうに伝統を名乗るのが悪い」
「長い」
「機械説明だから比喩なしだ!」
廊下の先に、濡れた足跡があった。
右足。
左足。
右。
左。
人の形。
ハルがしゃがむ。
「新しい」
「触らない」とセレナ。
「触ってない」
「触りたい顔」
「顔は――」
「予告」と全員。
「台詞が共有財産になった!」
足跡は四歩で消えている。
消えた場所に、丸い床蓋。
その上へ、二本指の把持具が付いた小さな清掃機が止まっていた。
把持具の先には、濡れた布。
「人じゃない」とハル。
「足跡も」とエリア。
清掃機の底。
左右に、人の靴底を模した二枚の刷毛。
「なんで靴」とカイル。
「床板の目へ沿って拭くため」とロロ。「人の歩幅で動けば、船員の邪魔をしない」
「船員いないのに」
「機械は名簿を読まねえ」
清掃機が動き出す。
右。
左。
右。
左。
四歩。
床蓋の上へ戻り、止まる。
同じ仕事。
同じ距離。
同じ終わり。
「再演」とセレナ。
「掃除が?」
「生活動作の一部」
「人がいたふり」
「ふりをしている意図は未確認」
意図がなくても、空席は人の形に見える。
ハルは清掃機から目を離す。
次の扉の向こうで、皿の触れ合う音がした。
一枚。
二枚。
椅子を引く音。
誰かが食卓へ着くような順序。
しかしノクスは吠えない。
生き物の匂いがない。
船は空席のために、朝食を始めようとしていた。
遠くで、鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
古い機械音声が続く。
『船内暦――三日目。第一潮刻まで、六時間』
全員が止まる。
建造から十五年。
日誌の匂いはまだ見ていない。
食卓にはパンの気配。
そして船は、現在を三日目と呼んだ。
「何日目から数えて」とハル。
誰も答えない。
答えの代わりに、扉が自動で閉まる。
オルロイ号は、人のいない船内へ五人と一匹を迎え入れ、十五年前から続いているらしい三日目を、何事もなかったように始めた。