第603話 第二章「天井を流れる水」前編

地図には上がある。

 紙の上辺を上、下辺を下と決める。北を上へ置く文化もあれば、王城を上へ置く文化も、海を下へ置く文化もある。どの配置も自然に見えるが、自然とは長く見慣れた作法の別名である。

 逆潮環アビサでは、古い地図の四隅に矢印がある。

 朝の下。

 昼の下。

 夕の下。

 潮刻後の下。

 旅行者はたいてい笑う。

 現地人はたいてい笑わない。

 笑った旅行者ほど、最初の重力反転で天井へ落ちるからである。

【現実/星帆測量船オルロイ号・第一生活層/覚醒/船内暦三日目】

「上を向いて」

 エリアが言った。

 全員が別の方向を見た。

「統一して!」ハル。

「統一できないから言い直します。現在、各自の頭が向いている方向を申告」

「船尾」とハル。

「甲板」とカイル。

「俺の右」とロロ。

「廊下奥」とセレナ。

 ノクスは二本の尾を左右へ立てる。

「回答拒否」とエリア。

「ナァ」

「異議?」

「翻訳するなって言ったのエリアだろ」とハル。

「必要な分類です」

「異議と拒否は違う?」

「違います」

「どっち」

 ノクスはエリアの地図帳へ前脚を置いた。

「地図へ参加」

「都合よく解釈した!」

 エリアは透明板を重ねる地図卓〈レイヤー・デスク〉の携帯板を廊下へ固定した。

 一枚目。

 船体の形。

 二枚目。

 現在の重力方向。

 三枚目。

 水の流れ。

 四枚目。

 空気の温度。

 五枚目。

 退出路。

「一枚にできない?」ハル。

「できます」

「じゃ」

「読めなくなります」

「できると使えるは別」

「ようやく」

「褒めた?」

「教育成果を確認」

「先生みたい」

「学費」ロロ。

「お前が取るな!」

 船が傾く。

 傾いたのではない。

 外界の重力が一度、頭上の海へ引かれただけだ。

 廊下の水が、壁から天井へ移る。

「切替!」エリア。

 全員が手摺を持ち替える。

 床用。

 壁用。

 天井用。

 ハルだけが一瞬遅れた。

 足裏の段差で道を覚える少年にとって、床が道でなくなる土地は相性が悪い。

 だから悪いまま使わない。

 ハルは目を閉じた。

「何してる!」カイル。

「音」

 水が流れる。

 右から左。

 次に頭の後ろ。

 最後に足元。

「三段」

「何が」

「水の曲がり」

 目を開く。

「今の下、廊下奥。次、甲板。次、右壁」

 エリアは地図へ三本の矢印を足す。

「正しい」

「足裏じゃなくても覚えられる」

「感心してる場合か!」ロロ。

 接舷索の張力計が鳴る。

 オルロイ号は落ち続けている。

 ゼロスター号は並走している。

 並走とは、二隻が同じ危険へ同じ速度で向かっている状態を、協力らしく言い換えた語である。

『外界高度、二万一千。下降速度、毎秒四十七』

 ロロの機械声。

「地面まで」とハル。

「地面ねえよ」

「何に当たる」

「風路、浮島、逆潮の落水柱、運が悪けりゃ全部」

「運が良ければ」

「空で分解」

「良いの定義!」

「衝突被害が減る!」

「人が乗ってる!」

「俺らだよ!」

「それを忘れるな」とセレナ。

 第一生活層には、船室が十二あった。

 扉ごとに違う矢印。

 下向き。

 左向き。

 丸。

 三角。

「丸と三角は方向じゃない」とハル。

「時刻」とエリア。

 扉の隅へ、小さな潮位目盛りがある。

 丸は第一潮刻前。

 三角は第一潮刻後。

「部屋の下が時刻で変わる」とカイル。

「住みづらい」とハル。

「住めば慣れる」とロロ。

「お前、住める?」

「工具が落ちる先を箱にすりゃいい」

「人は」

「ベルト」

「人間を工具と同じ収納法にするな」

「王族は椅子に縛る?」

「幼少教育では」

「あるの!?」

「儀礼飛行だけだ!」

 最初の船室には、寝台が六面へ付いていた。

 床に二つ。

 壁に二つ。

 天井に二つ。

 どれが床かは、その時刻で変わる。

 寝具は古い。

 縫い目が擦り切れている。

 しかし一つだけ、枕の中央が新しく沈んでいた。

 ハルが近づく。

「触らない」とセレナ。

「見てる」

「顔が」

「もう予告は共有財産だろ」

 ノクスが枕を嗅ぐ。

 くしゃみをしない。

 二本の尾が下がる。

「人の匂いなし」とハル。

「綿の圧縮だけ」とエリア。

 寝台の下から、小さな機械腕が出た。

 枕を三度叩く。

 中央を押す。

 毛布の端を揃える。

 引っ込む。

「寝た形を作ってる」とカイル。

「船員の睡眠準備を自動化」とロロ。

「船員がいなくても」

「命令が止まってねえ」

 ハルは枕へ触れない。

 人の痕跡に見えるものが、人の不在を作っている。

 それは夢灯都市で何度も見た構図だった。

 共同人格ルメの手順だけが町を歩いた夜。

 父の映像が、現在の父より先に抱きしめようとした保管室。

 似ている。

 同じではない。

 夢ではない。

 機械だ。

 違いを言葉にしておかなければ、心は都合のよい同一人物を作る。

「機械」とハル。

「何が」とカイル。

「今のは人じゃない」

「分かっている」

「言った」

「自分へ?」

「うん」

 廊下の中央に、円い区画があった。

 床、壁、天井の区別がない。

 六面へ同じ扉。

 中央へ、大きな砂時計。

 ただし砂は入っていない。

 透明筒の中を水滴が一つ、ゆっくり移動している。

「時計」とカイル。

「水平器」とロロ。

「どっち」とハル。

「両方」とエリア。

 水滴が上へ進む。

 上と言った瞬間、その方向が床になった。

 全員の身体が引かれる。

 手摺を握っていた者は回る。

 握っていなかったハルは、エリアに蹴られた。

「痛い!」

「手摺!」

「蹴る前に言って!」

「言う時間がなかった!」

「蹴る時間はあった!」

「脚の方が速い!」

 ハルは横壁へ着地する。

 左肩を打たない。

 右膝から滑り、腰で止める。

 カイルは一瞬だけ盾を出し、セレナの背を受けた。

「痛み」とセレナ。

「三」

「一般式」

「三・五」

「四」とエリア。

「また切り上げ!」

「安全側」

「俺の名誉は危険側か!」

「王族の名誉は救難用具ではありません」

 ロロは補助腕二本で円室の中心へぶら下がっている。

「床が変わる前に水滴が進む」と彼は言う。「これ見りゃ現地人は分かる」

「鐘だけじゃない」とハル。

「耳が聞こえない人、騒音の中にいる人、寝てる人。生活は一つの合図だけに預けねえ」

「良い設計」とエリア。

「褒めるなら金で」

「設計者は十五年前」

「遺族へ」

「死んだと断定するな」とセレナ。

「じゃ権利者へ!」

 円室の壁へ、子供用の小さな輪が並んでいる。

 赤。

 青。

 黄。

 輪の横に絵。

 赤は手を入れる。

 青は足。

 黄は鞄。

「通学船にも使った」とカイル。

「測量船じゃないの?」ハル。

「逆潮の船は、物資、郵便、子供、葬列、全部運ぶ」とエリア。「専用船を何隻も持てる地域ではない」

「王都と違う」

「王都も、本当は同じ船を分けて名前を増やしているだけです」

「政治の話?」

「予算の話」

「同じでは」

「だいたい同じだ」とカイル。

 歴史上、交通は最初に王や軍のため作られたと記録されやすい。

 記録するのが王や軍だからである。

 だが道を毎日使い、壊れた板を替え、子供の足へ合わせて輪の高さを変えたのは、名の残らない生活者だった。

 オルロイ号の六面輪も、建造碑には記載されていない。

 それでも十五年後の遭難者を一人、天井への衝突から救った。

「これ、持って帰る?」ハル。

「船ごとなら」とロロ。

「輪だけ」

「証拠物を盗むな」セレナ。

「見本」

「複写」エリア。

 地図槍が輪の寸法を光へ写す。

「持ち帰った」

「盗んでない」

「地図は合法な盗みだな」とカイル。

「訂正。寸法の複写には現場保全目的があります」

「冗談に法務を持ち込むな」

 円室の窓から、逆潮環が見えた。

 頭上の海〈オーバー・オーシャン〉

 近づくほど海面は天井ではなく、巨大な床に見える。

 青い水の上――空から見れば向こう側――へ、町が築かれている。

 珊瑚の柱。

 上下へ二つの屋根を持つ家。

 潮刻のたび反転する橋。

 漁船は海を下へ押し、星帆船は空を上へ引く。

 子供が橋から飛び、水面へ落ちる。

「落ちた!」ハル。

「泳いでる」とエリア。

 子供は頭上の海へ入り、足だけが一瞬見えた。

 次に水面の向こうから顔を出し、こちらを逆さに見下ろす。

 手を振る。

 ハルも振る。

「救難中」とセレナ。

「手は振れる」

「注意散漫」

「手を振る注意と船を見る注意、別」

「目は二つ」

「ノクスは尾も二つ」

 ノクスが両方の尾を子供へ振る。

 子供は喜び、さらに大きく手を振る。

「外交成立」とカイル。

「王子の仕事取った?」ハル。

「夜獣へ譲位する気はない」

 その時、海面の町で一斉に戸が閉まった。

 橋の中央が折れ、左右の家へ引き込まれる。

 洗濯物が巻き取られる。

 水面の子供が岸へ上がり、腰へ二本の安全索を付ける。

「何」とハル。

 遠くで鐘。

 低。

 低。

 高。

「落水柱」とエリア。

 頭上の海が、一箇所だけ盛り上がる。

 海なのに盛り上がるという表現が正しいかは、見る側の下による。

 青い面から白い泡が膨らみ、細い首になる。

 次に水の柱が空へ伸びた。

 逆潮の巨大落水柱〈フォール・シー〉

 水は最初、海から空へ落ちる。

 途中で重力が変わり、横へ折れる。

 最後は下方雲海へ吸われる。

 一つの滝が、三方向へ流れる。

「きれい」とハル。

「進路へ入れば船体が三つに裂ける」とエリア。

「きれい、撤回」

「美しさは危険性で撤回されない」

「じゃ、きれいで怖い」

「正確」

 エリアは落水柱の予測線を地図へ加える。

 オルロイ号の落下線と、二時間後に交差する。

「曳航船は二時間半」とカイル。

「待てない」

「内部で落下を止める」

「止めると壊れるかもしれない」とセレナ。

「止めずに曲げる」とエリア。

「できる?」ハル。

「機関を見てから」

「見ないと分からない」

「それでいい」

 分からないことは、遅れではない。

 分かったふりをして間違った方向へ速く進むより、現在地に立ち止まる方が救難では前進になる。

 第二船室の扉を開く。

 水が出た。

 横から。

「閉め――」

 閉める前に、エリアが槍を入れる。

 水は槍の銀線に沿い、廊下の天井へ流れた。

「水量、百二十リットル」とロロ。

「なぜ部屋に」セレナ。

「貯水槽じゃねえ。寝室」

「ベッド、浮いてる」とハル。

 寝台が水の中で壁へ固定されている。

 魚はいない。

 藻もない。

 ただ透明な水。

「漏水なら古い」とカイル。

「漏水痕が新旧で違う」とエリア。

 壁の水筋。

 細い白線が何十本もある。

 塩が乾いた跡。

 右から左へ。

 左から上へ。

 上から奥へ。

 それぞれ同じ場所を通るが、太さが違う。

「何回」とハル。

「数えないと」

「百?」

「もっと」

 エリアは指先を使わず、槍の先へ微光を置く。

 古い塩筋は暗く。

 新しい塩筋は明るく。

 重ねる。

 三つの型。

 第一型。

 右壁から天井。

 第二型。

 天井から船尾。

 第三型。

 船尾から床。

 その三型が、太さを変えながら何百回も上書きされている。

「水が同じ三日を通った」とエリア。

「三日?」

「一型、一日と仮定」

「仮定」とセレナ。

「まだ」

「何百回」カイル。

「少なくとも千」

「千日なら三年」ハル。

「一型が一日なら」

「十五年には足りない」とセレナ。

「船内の日と外界の日が同じなら」

 エリアは最後の言葉を強く言わない。

 地図は、分からない部分を太線で埋める道具ではない。

「外界時間差」とカイル。

「可能性」

「時間移動?」ハル。

「まだ言わない」

「言った」

「あなたが」

「質問」

「質問も仮説を作ります」

「質問するなって?」

「質問の形で答えを置かないで」

 ハルは口を閉じる。

 三秒。

「難しい」

「三秒もった」

「褒めた?」

「測定」