第604話 第二章「天井を流れる水」後編
エリアは第二船室の水を三つの瓶へ分けた。
「飲む?」ハル。
「飲みません」
「見た」
「顔が予告」
「共有財産!」
瓶へ色粉を一滴ずつ落とす。
青。
赤。
白。
「何の色」とカイル。
「青は現在の流れ。赤は一時間後。白は潮刻後」
「未来の水、まだない」
「同じ水路へ順に流す」
「実験」とロロ。
「壁を汚すなよ」
「水溶性」
「証拠へ色つけるなよ」
「既存塩筋の複写後」
「先に言え!」
セレナが壁面を六角単眼鏡で記録する。
古い塩筋。
新しい湿り。
微細な苔。
苔は三箇所にだけ生えていた。
「光の当たる場所?」ハル。
「窓なし」とエリア。
「温度?」
「ほぼ同じ」
「水が止まる場所」とロロ。
三本の塩筋が交わるくぼみ。
第一型では右壁。
第二型では天井。
第三型では床。
どの型でも、一瞬だけ水が溜まる。
「苔の層」とセレナ。
拡大鏡。
緑。
白。
緑。
白。
薄い層が反復している。
「一回乾いて、一回濡れる」とロロ。
「三日ごと?」ハル。
「まだ」セレナ。
「仮説」
「仮説と証拠を同じ口調で言わない」
「口調にもラベル要る?」
「あなたには」
青い水を流す。
壁へ。
曲がる。
くぼみへ。
止まる。
エリアが時刻を記す。
一分後、重力が微かに揺れた。
水はくぼみを出て、天井へ進む。
「予定より早い」とエリア。
「船が落ちてるせい」とロロ。
「外界重力が船内切替へ混ざっている」
赤い水。
同じ道。
ただし途中で一度、古い溝へ吸われる。
「溝が案内してる」とハル。
「何百回も水が通り、物理的な道になった」
「水が記憶」
「記憶ではなく摩耗」
「地図では?」
エリアが少し止まる。
「地図です」
「褒めた?」
「水を」
「俺じゃない」
「はい」
「否定が速い!」
白い水は潮刻後の模擬傾斜で流す。
グリムリリーの路図を船室へ薄く展開し、局所的に足場方向だけを変える。
エリアの両踵へ負担がかかる。
右。
左。
呼吸が少し浅くなる。
「何回」とハル。
「一回」
「能力じゃなく痛み」
「三」
「一般式」
「同じ」
「交代条件」
「四。呼吸が二語で切れたら停止」
「今、何語」
「文章」
「分かった」
白い水が流れる。
青、赤と同じ三型目。
くぼみへ集まり、古い塩筋をなぞる。
偶然ではない。
船の重力切替は、無秩序に変わっていない。
三つの型。
三つの順番。
三つの生活。
「同じ」とハル。
「少なくとも、この区画は同じ三相を反復」
「日誌の三日」
「対応は未確認」セレナ。
「でも調べる順番はできた」とカイル。
「一日目の水、二日目の水、三日目の水」
「水へ日付を書くな」とロロ。
「色で書いた」とハル。
「お前じゃねえ!」
エリアは地図へ、三本の流路を重ねる。
一枚にすると読めない。
だから三枚へ分ける。
しかし透明板を重ねた瞬間、三本の道は一つの輪になった。
始点へ戻る輪。
「閉じてる」とハル。
「この区画の水は、三相後に最初の溝へ戻る」
「船も?」
「まだ」
「質問」
「その質問は必要」
「許可された!」
「喜ばないで」
輪の中央に、空白。
エリアは何も描かない。
何がその輪を十五年間回したか。
誰が途中で降りたか。
船内の三日と外界の十五年がどう重なるか。
空白は答えを隠すためではない。
まだ答えを持っていないことを、地図の上で嘘にしないためにある。
船外から鐘が二度鳴った。
オルロイ号の鐘ではない。
逆潮環の航路鐘〈レーン・ベル〉。
低い音。
次に高い音。
アビサの外縁へ入った合図だった。
夢灯環の常夜色が船尾へ遠ざかり、空の青が濃くなる。
頭上の海が、はっきりと見えた。
水面が天井のように広がっている。
その向こうを、逆さの帆船が航行する。
鯨の腹が白い雲のように流れる。
珊瑚色の浮島は、海面から下へ垂れ下がっている。
初めて来た者は、それらを逆さと呼ぶ。
現地の者にとって、逆さなのは空から来た旅人の方である。
『未登録船二隻、応答せよ』
遠い通信。
エリアがゼロスター号の伝声管へ戻す。
「救難中。星帆測量船オルロイ号へ接舷。生体反応未確認。下降速度四十九」
『オルロイ号?』
通信相手の声が止まる。
間が長い。
「船籍照会を」セレナ。
『照会には時間が要る。先に潮刻警告。第一反転まで四時間十二分。外縁落水柱が三本発生予測』
「予測位置」
『送る。だが船をそこへ置くな。十五年前の船なら、現行誘導札へ反応しない』
「十五年前と知っている?」ハル。
『建造名を聞いた。オルロイ号は失踪船籍だ』
「乗員」
セレナがハルを見る。
聞くなとは言わない。
順序を示す。
「船籍資料を送ってください」とセレナ。「氏名は封印添付。現場で生存者確認を優先します」
『了解。救難局の曳航船は最短二時間半』
「間に合う?」カイル。
『落下が増えなければ』
増えない保証はない。
『無理に機関を止めるな。逆潮船は停止が破壊になる』
「どういう意味」とハル。
『設計を見なければ分からない』
「分からないことを警告にするなよ!」ロロ。
『分からないまま触るなという警告だ、若い機関士』
「触らなきゃ落ちる!」
『だから救難は嫌いだ』
通信が切れる。
「名を聞かなかった」とハル。
「救難局の当直名は、通信記録から後で確認できる」とカイル。
「今聞かなくていい?」
「今は船内の生存確認が先だ。もっとも、セレナには後で『聞ける時に聞け』と叱られるだろうが」
「もう聞こえてます」とセレナ。
「ほらな」
第三船室。
床へ植木鉢が固定されている。
土は湿っている。
芽はない。
棚に種袋。
古い袋。
新しい封蝋。
「自動保存器」とロロ。
壁へ埋め込まれた円筒。
三つの窓。
一日目。
二日目。
三日目。
三日目の窓だけが光っている。
「何を保存」とハル。
「食料、種、薬。逆潮航海は重力切替で瓶が割れる。中身を誓晶化して必要時に戻す」
「魔法?」
「基幹誓術。だから今も動く」
「十五年」
「動き続けるのと、正しく動くのは別」
円筒が鳴る。
種袋を一つ吸い込む。
古い封蝋がほどける。
中の種を数える。
新しい袋へ移す。
封蝋を押す。
日付を刻む。
『三日目』
「日付、年なし」とセレナ。
「船内暦」とエリア。
「暦って三日しかない?」ハル。
「三日で一周する航路なら」
「一周ごとに戻る?」
「時刻表示だけ」
「人の記憶は」
「機械は人を戻さない」
その言葉へ、ハルは少し安心する。
安心した自分を、すぐ疑う。
父が十五年前から三日を繰り返している、という想像は甘い。
甘い想像は、苦い証拠より早く心へ溶ける。
「日誌」とセレナ。
船の中心へ向かう扉に、航海記録室の印がある。
鍵は開いている。
扉を押す。
部屋の床は天井だった。
机と椅子が、頭上に並ぶ。
紙束は革帯で固定。
エリアが銀線を階段のように描く。
一段。
二段。
三段。
上へ落ちる。
ハルは机へ着く。
中央に、航海日誌。
厚い。
背表紙は十五年分ありそうに見える。
セレナが封印を確認する。
開く。
一頁目。
『一日目』
二頁目。
『二日目』
三頁目。
『三日目』
次の頁。
『一日目』
その次。
『二日目』
何度めくっても、日付は三つしかない。
紙の色は違う。
インクの黒も違う。
筆圧も少しずつ違う。
しかし暦だけが、同じ三日へ戻る。
「十五年前の日誌」とハル。
「十五年分ではない」とセレナ。
「三日分?」
「三日を、何度も書いた記録です」
船の外で、水が天井を走る音がした。
長い。
何百回も同じ溝を通った水が、また同じ三日目の道を選んでいる。