第605話 第三章「十五年前の日誌」前編

記録は、過去そのものではない。

 過去が去ったあとに残る、手の形である。

 王の命令は大きな字で残り、台所の水漏れは小さな染みで残る。勝者は石碑へ刻まれ、負けた者は帳簿の余白へ書かれる。歴史家はその差を知っている。それでも石碑を読み、帳簿を読み、染みを読む。

 過去は答えない。

 だから記録を読む者には、答えを作りすぎない責任がある。

 星律官セレナ・クロウは、その責任を職業にしていた。

【現実/オルロイ号・航海記録室/覚醒/下降開始から四十七分】

「開きます」

「もう開いてる」とハル。

「調査を」

「日誌は」

「物理的に開いています。証拠としての調査を開始します」

「言葉、多い」

「手順を省くと、あとで誰かの都合が入ります」

「今は誰の都合」

「全員」

「広い」

「だから手順が要る」

 セレナは右手首へ硬い補助帯を巻いた。

 長時間の筆記で古傷が痺れる。

 隠さない。

 六角単眼鏡を左眼へ当てる。

 左眼は光へ弱い。

 記録室の照明を二段落とす。

「見える?」カイル。

「見えすぎない程度に」

「証拠も?」

「人は、見たいものほど見えすぎます」

 ハルが黙る。

 父の名を探したい。

 探したい気持ちは、見たいものを増やす。

「名簿から」とセレナ。

「日誌じゃない?」

「日誌は内容が多い。先に船籍と書式の基準を取る」

「文章を読む前に、文章の癖を見る」とエリア。

「地図も同じ?」

「凡例から」

「人は?」

「初対面で凡例を求めないで」

「エリアの凡例」

「無断で線を引かない。質問は一度に一つ。褒めたか聞かない」

「三つ」

「既知の注意事項」

「褒めた?」

「四つ目を追加」

 会話の間にも、セレナは手を止めない。

 船籍箱。

 封印は三重。

 外側は逆潮航路局。

 中央は王都機関院。

 内側は民間測量組合。

「国際船」とカイル。

「三者共同」とセレナ。「責任も三分割」

「事故の時は?」ハル。

「三者とも、自分の所管外と言いやすい」

「分割の悪い方」

「制度は、責任を分けるためにも逃がすためにも使えます」

 カイルが王家封印へ指を伸ばす。

 止める。

「私が開けると、王家の閲覧になる」

「今は?」

「救難現場の星律官調査」

「王子、邪魔?」

「制度上は」

「正直だな!」

「では離れる」とカイル。

「離れなくていい。触れず、命令せず、見た内容を王家判断と発言しない」

「王子でない目だけ貸せと」

「可能ですか」

「難しい」

「だから記録します」

 カイルは半マントの王家章を裏返した。

「今は一乗員」

「肩書は消えません」

「努力の表示だ」

「受理」

 封印を開く。

 船籍証。

『星帆測量船オルロイ』

『建造 星環暦四〇八年』

『主用途 逆潮環外縁の重力・潮位測量、郵便、緊急輸送』

『定員 二十四』

『自動保全機構 第三級』

「第三級」とロロ。

「高い?」ハル。

「人が三日寝込んでも船を回せる。三日を越えたら人の点検が要る」

「十五年」

「必要な人、十五年いねえ」

 証書の裏に、年次検査印。

 四〇八。

 四〇九。

 そこで止まっている。

「一年後に失踪」とエリア。

「建造から十五年。失踪から十四年?」ハル。

「現在暦の端数を含めると十五年前の航海期」とセレナ。「正確な月日は照会待ち」

「父が消えた年」

「同年」

「同じ船」

「未確認」

 ハルは頷く。

 一回。

 頷きすぎると、自分へ言い聞かせているようになる。

 伝羽が窓の外から来た。

 来た、という表現は穏やかすぎる。

 逆潮環の通信羽は、頭上の海から空へ突き抜け、重力が変わるたび翼を畳み、最後は矢のように窓へ刺さる。

 硝子へ当たる直前、セレナの証羽が受け止めた。

「通信同士が決闘した」とハル。

「受信です」

「勝った方は」

「内容を統合」

「怖い受信」

 伝羽の軸へ、逆潮救難局の封蝋。

 セレナは開封前に、差出印、時刻、風路を記録する。

「急いで」とロロ。

「急いでいるから記録します」

「急ぐと遅いの違い!」

「後で最初から確認する時間を減らす」

「正論の圧力が高い!」

 封蝋がほどける。

 音声ではなく、文字。

『オルロイ号 星環暦四〇九年・第六潮期、外縁港ミレアを出港。三日後の帰港予定。四日目、救難信号一度。以後消失。乗員十一、臨時測量員一。船体・遺体・救命艇、未発見』

「臨時一」とハル。

「氏名欄は封印」とセレナ。

「分かってる」

「確認」

 続き。

『当時、外縁落水柱の異常増加あり。捜索船二隻損傷。七日目に捜索縮小、二十一日目に中止。船籍は「行方不明」。死亡認定は各乗員家族の申立てにより個別処理』

「個別」とカイル。

「全員を一つの事故へまとめなかった」とセレナ。

「良い制度?」ハル。

「申立てられる家族、費用を払える家族、書類を持つ家族だけが選べた可能性」

「良いと言い切れない」

「制度は書面だけでは評価できません」

 末尾。

『オルロイ号は四一五年、船籍予算整理により現役表から削除。ただし発見時は証拠船・共同所有物として扱う。勝手な解体、売却、旗章変更を禁ずる』

「削除されたのに所有物」とロロ。

「存在しない駅と同じ匂い」とハル。

「違います」とセレナ。「十三番駅は生活者を行政分類から外した。こちらは運用表から外した船籍を権利表には残している」

「名前だけ消えて、責任は残る」

「所有権だけ残り、保守責任が薄れたとも言える」とカイル。

「王都機関院の共同封印」とエリア。

 カイルは裏返した半マントを見る。

「当時の王家は、捜索中止へ同意した」

「あなたの決定ではない」とハル。

「国の継続性は、都合の良い時だけ親の判断を切れない」

「じゃ責任」

「調査と補償の責任は現在の王家にある。十五年前の現場判断を、今の私が英雄か犯罪か一語で決める権利はない」

「逃げてる?」

「逃げないために分けている」

「セレナみたい」

「記録した」とセレナ。

「嬉しくない」

 カイルは王家封印を見つめる。

「開けたのは星律官。私は触れていない。だが帰還後、王都の捜索中止記録を公開審査へ出す」

「船が落ちてる最中に政治」ロロ。

「船が落ちた時だけ政治を忘れると、落ちた理由が繰り返す」

「終わってからやれ」

「だから今は触らない」

 言葉を分ける。

 今すること。

 後ですること。

 今しないこと。

 救難は、全部を同時に正しくしようとする者から順に壊れる。

 乗員名簿は薄かった。

 二十四人分の欄。

 船長。

 航路士。

 機関士。

 測量士。

 医療係。

 料理係。

 郵便係。

 臨時乗員。

 名前の多くは、赤い横線で降船処理されている。

 失踪前の港で降りた者。

 任期を終えた者。

 転属。

 最後の航海の固定乗員は十一人。

「十一」とカイル。

「救命艇は?」ハル。

「まだ別記録」セレナ。

「人名」

「読み上げません」

「どうして」

「生死不明者の名を、本人確認前に公の通信へ乗せない」

「ここ公?」

「船内記録はゼロスター号へ同期中」

「切れる?」

「証拠保全のため切らない。氏名部分だけ封印」

「俺は見ていい?」

「家族情報がある可能性を理解したうえで」

「見る」

 セレナは名簿を回す。

 ハルは上から読む。

 知らない名前。

 知らない名前。

 知らない名前。

 知りたい名前を探す時、知らない名前は背景になりやすい。

 十一人。

 その全員に、待っていた家族や、待たなかった家族や、待てなかった生活があるかもしれない。

 ハルは一人ずつ読む。

 声には出さない。

 最後の固定乗員まで、父の名はない。

 胸が落ちる。

 落ちた先に、安堵が少しある。

 父の船ではなかった。

 安堵した直後、臨時乗員欄の一行が目へ入る。

『凪野ソウジ』

 日本語の漢字。

 その横に、共通空語の転写。

『NAGINO SOUJI』

 職務。

『異界座標測量/一航程のみ』

 乗船印。

 降船印。

 降船印はない。

「父さん」

 言った。

 言ってから、ハルは唇を噛む。

 この紙の一行は父親ではない。

 抱きしめない。

 謝らない。

 帰ってこない。

 記録だ。

「ハル」とエリア。

「いる」

「現在地?」

「記録室」

「時刻」

「下降から……」

「四十九分」とセレナ。

「俺の身体」

「立ってる」カイル。

「手」

「名簿へ触れていない」

「呼吸」

 吸う。

 吐く。

「できる」

 エリアはそれ以上言わない。

 慰めで記録を包まない。

「降船印なし」とハル。

「船へ残った証明ではありません」とセレナ。

「書き忘れ」

「可能性」

「途中で降りた」

「可能性」

「まだ乗ってる」

「生体反応なし」

「十五年前に」

「現在の生死は不明」

「全部、分からない」

「一つ分かりました」

「何」

「ソウジ氏は、この船へ一航程だけ登録された」

「それだけ」

「それを減らさない」

 セレナは名簿へ証拠番号を付ける。

『OL-CREW-17』

「番号、冷たい」とハル。

「名前を守るためです」

「番号にすると、人じゃなくなる」

「番号だけにすれば。名前だけにすると、同姓同名や誤記が人を奪います」

「両方」

「両方」