第606話 第三章「十五年前の日誌」後編

 名簿のソウジ欄には、もう一つ小さな印があった。

 丸の中に、折れた針。

「何」とハル。

「臨時測量員の私物検査印」とセレナ。

「私物」

「持込機材一。異界金属。返却義務なし」

「零星針?」

「名称なし」

「形は」

「印だけでは分からない」

「折れた針」

「検査官の識別章かもしれません」

「また」

「可能性」

「便利な言葉」

「不便を隠さない言葉です」

 ハルは指で印をなぞらない。

 赤いマフラーの端を握る。

 父の持ち物だった布。

 父の名がある紙。

 胸にある零星針。

 三つを一本の物語へ結びたくなる。

 結べば、父はこの船で零星針を使い、何かを見つけ、頭上の海へ向かったことになる。

 綺麗だ。

 綺麗すぎる。

「複写」とハル。

「用途」

「母へ」

「今送る?」

「送らない」

「なぜ」

「一行だけ送ったら、十五年前の待つ時間を増やす」

「隠す?」

「帰ったら全部見せる。今は、船が落ちてる」

「期限」

「この事件が終わって、記録の意味を分けたら」

「長い」

「更新する。遅れるなら、遅れるって送る」

 夢灯都市でソムナへ言った約束が、別の相手へ使われる。

 言葉は再利用できる。

 使う相手が変われば、責任も変わる。

 セレナは複写を二つ作る。

 一つはハルの封印袋。

 一つはナツミ宛ての未送信袋。

「未送信も記録?」

「送らなかった事実も」

「父みたいに手紙だけ増えたら」

「送信期限を袋へ」

 ハルは書く。

『オルロイ号の安全確保後、最初の停泊地から』

「破ったら」セレナ。

「母が怒る」

「罰として十分?」カイル。

「王国の刑罰より怖い」

「外交問題だな」

「家族問題」

「家族問題を小さく言うな」

 カイルの声が少し低い。

 家族は国家より小さい。

 小さいため、国家が後回しにしてよいわけではない。

 十五年前の捜索中止印も、誰かの家庭では現在形で残っている。

 日誌の調査を始める。

 紙は三種類。

 最初の一冊は薄い灰。

 二冊目は黄。

 三冊目以降は、継ぎ足した端紙。

「三冊目以降?」ハル。

「厚い一冊に見えたが、背を何度も縫い直している」とセレナ。

「修理した日誌」とロロ。

「紙も直せる?」

「綴じは。書いた内容は直すな」

「お前なら」

「誤字は直す」

「証拠!」

「誤字は機械事故を呼ぶ!」

「訂正記号を残せ」とセレナ。

「だから綴り試験嫌いなんだよ!」

 第一頁。

『一日目。外縁港を出る。潮位正常。第一測点へ』

 同じ頁の下へ、別のインク。

『一日目。外縁港を出る。潮位、基準より二線高い。第一測点へ』

 さらに横へ、薄い青。

『一日目。港を出る。潮位、基準より四線高い。第一測点を省略』

「同じ日を訂正」とカイル。

「筆跡は」とエリア。

 セレナが拡大する。

 文字の傾き。

 末尾の跳ね。

 数字の四だけ、上を閉じない。

「同一人物の可能性が高い」

「十五年、同じ人が書いた?」ハル。

「インクの年代は違う」

 セレナは紙の端へ光を当てる。

 黒。

 青。

 茶。

 含まれる鉱粉が違う。

「この黒は四〇八年頃、王都で流通。青は四一四年以降。茶は夢灯環の紙灯火災後に規制された顔料の代替で、四一九年以降」

「十五年分」とカイル。

「少なくとも十年以上の幅」

「同じ手が?」

「筆圧は少しずつ軽くなっている。線の震えは増える。人が年を取ったようにも見える」

「いたんだ」とハル。

「人が書いた可能性」

「機械が筆跡を真似た?」ロロ。

「可能」

「どっちも可能ばっか」とハル。

「捜査の前半は、可能性を捨てる材料を集めます」

「集めるほど増えてない?」

「正しい増加です」

「嫌な正しさ」

 日誌の二日目。

『第二測点。逆潮遅延、三分』

 後筆。

『第二測点。逆潮遅延、二時間』

 さらに後。

『第二測点。外界応答なし。船内鐘を継続』

 三日目。

『第三測点。帰港』

 後筆。

『第三測点。帰港路を再計算』

 さらに後。

『第三測点。帰港とは、どちら側か』

「どちら側」とハル。

「頭上の海か、空か」とエリア。

「地球か、アステリアか」

 言ったのはハルだ。

 誰も肯定しない。

 否定もしない。

 父の名が一行あるだけで、全ての曖昧な言葉が父の謎へ見える。

 それをセレナは知っている。

「この文の主語は船」と彼女は言う。「二世界とは書いていない」

「分かってる」

「今は早くない」

「何が」

「返答」

 ハルは少し笑う。

 笑えたから、傷が浅いわけではない。

 痛みの中でも言葉を返せるだけだ。

「筆記装置を止める?」ハル。

「止めません」とセレナ。

「証拠を増やしてる」

「同時に、現在の記録を改変している可能性もある」

「じゃ止める」

「止めれば、どこまでが自動追記だったか観察できない」

「止めない」

「ただし日誌原本を装置から分離」

「どっち!」

「動作は残し、対象を複写紙へ替える」

「三つ目」とエリア。

「二択にしない」

「父親みたい」とハル。

 言った瞬間、自分で嫌になる。

 第三案を探す父。

 その第三案のため、家族へ説明しないまま十五年を払わせた父。

 セレナは似ていない。

「訂正」とハル。

「何を」

「今の比較」

「記録しません」

「記録するっていつも」

「感情の反射を証拠へしません」

 日誌を透明な保全箱へ移す。

 同じ位置へ、白紙の束。

 筆記装置は壁の中で待っている。

 ロロが床蓋を開く。

「触る」とセレナ。

「宣言した」

「許可ではない」

「外観だけ。接続切らねえ」

 細い歯車。

 可動腕。

 インク管。

 文字型はない。

「どうやって筆跡」とハル。

「最初の書き手の手順を覚えた」ロロ。

「手順?」

「腕の速度、止める位置、筆圧。字の形を型で持つんじゃなく、手の動きを持ってる」

「人の手を真似る」

「工具の残響に近い。もっと古くて、もっと限定」

 バズの能力はまだ知らない。

 その比較は後で生まれる。

 今、ロロが見ているのは装置の構造だけだ。

「同じ人が書いたように見える理由」とエリア。

「最初に登録した筆跡を使い続けてる」

「内容はどこから」

「船内計器。扉の開閉、潮位、乗員札、機関値」

「考えてない」とハル。

「記録文を組んでるだけ」

「『帰港とはどちら側か』も?」

 ロロが止まる。

「それは計器だけじゃ出ねえ」

「人が書いた」

「可能性。あるいは、質問文まで登録された」

「区別」とセレナ。

 筆圧記録を重ねる。

「装置は同じ字形でも、船の揺れへ補正する。人は揺れた時、線がずれる」

「ずれを探す」とエリア。

 日誌の頁を一枚ずつ見る。

 まっすぐすぎる行。

 揺れた行。

 装置の線は、船が傾いても水平。

 人の線は、重力切替の瞬間にわずかに跳ねる。

「この行」とハル。

『帰港とは、どちら側か』

 末尾の「か」が上へ流れている。

「人」とセレナ。

「誰」

「筆跡登録者」

「名前」

「日誌責任者欄」

 最初の頁。

 署名は、船長の名。

 ソウジではない。

 ハルの胸に、落胆と安心がまた同時に来る。

「父じゃない」と彼は言う。

「現時点では」とセレナ。

「そこ、増やさなくていい」

「減らしもしません」

 機械が白紙へ書き始める。

『三日目。日誌原本、外部乗員により移動』

 筆圧は一定。

 船が揺れても線はまっすぐ。

「機械」とハル。

「はい」

 次の一行。

『記録継続』

「誰もいなくても」とカイル。

「記録するための記録になってる」とロロ。

「終わりの条件がない」

「第三級自動保全は、三日後に人が点検する前提だ。人がいなきゃ止める、って条件を設計してねえ」

「人が戻ると信じた?」ハル。

「信じたんじゃなく、戻る運用しか想定しなかった」

 想定外という言葉は、事故の後によく使われる。

 実際には、誰も考えなかったこと。

 考えたが費用で削ったこと。

 考える権限がない者だけが心配したこと。

 起きないと決めたこと。

 それらを一つの外側へ追い出し、想定の外と呼ぶ。

「三日で人が戻る」とエリア。

「それがこの船の基準線」

「戻らなかった」

「だから十五年、三日目が終わってない」

 まだ仮説。

 しかし日誌の厚さは、終わらない三日目を物理的に示している。

 書くことがなくても、装置は行を足す。

 同じ潮位。

 同じ点検。

 同じ不在。

 空白を残す機能がなかったため、空白そのものを何千行も書き続けた。

 筆跡を調べる。

 最初の行と最後の行。

 同じ癖。

 しかし最後の方には、書き直しが多い。

『潮位』を『外界潮位』へ。

『時刻』を『船内時刻』へ。

『日』を『周期』へ。

「用語が変わってる」とエリア。

「何かに気づいた」とカイル。

「いつ」とハル。

「年代順が分かれば」

「インクで並べる」

 セレナは頁を切らない。

 透明板を差し込み、行ごとに色を付ける。

 四〇八年頃。

 四一〇年代前半。

 後半。

 最近。

「最近」とハル。

「顔料は現在も流通。正確な年は未確定」

「数日前かも」

「可能」

「人がいるかも」

「生体反応なし」

「機械が書いたかも」

「可能」

「また増えた」

「一つ減らせます」とセレナ。

「何」

「時間移動で十五年前の同じ三日だけが現在へ来た、という単純仮説」

「どうして」

「紙とインクが、複数年代を経て追加されている。船は少なくとも異なる年代に存在した」

「過去から一気に来たんじゃない」

「少なくとも日誌全体は」

「じゃ十五年間、どこかにいた」

「そこまでは」

 セレナが言葉を止める。

 記録室の壁から、かすかな音。

 カッ。

 カッ。

 カッ。

 同じ間隔。

 ロロが顔を上げる。

「修理音」

「近い」とハル。

 壁の中。

 三回。

 止まる。

 紙棚の横で、小さな機械腕が出る。

 ペンを取る。

 日誌の最後の頁を開く。

 全員の前で、一行書く。

『三日目。外部乗員、六。夜獣、一。記録室へ』

 筆跡は、最初の航海日誌と同じだった。

「今、書いた」とハル。

「機械が」とセレナ。

「同じ手」

「筆記装置が、船内出来事を既存筆跡で追記している」

「じゃ全部、機械?」

「最初の原本は人。後の追記の一部または全部は装置」

「一部と全部で広い!」

「区別する証拠を探す」

 機械腕がペンを戻す。

 次に、古い一行へ近づく。

『第三測点。帰港』

 その下へ書き足す。

『帰港路、未成立』

 インクは新しい。

 日付は三日目。

 現在の出来事を、十五年前から続く同じ三日へ書き込む。

 日誌は過去を保存していなかった。

 船が今も終わらせられない作業へ、現在を追加していた。

 そして乗員名簿の一行には、凪野ソウジの名だけが、降船印を持たないまま残っている。