第607話 第四章「数日前の食卓」前編

食卓は、人がいる場所ではない。

 人が戻る予定の場所である。

 椅子を並べ、皿を置き、湯を沸かす。それらは腹を満たすためだけの手順ではない。誰かが座るという未来を、木と陶器と火で先に作っておく行為だ。

 だから無人の食卓は、空の椅子より不気味である。

 待っている形だけが残るからだ。

【現実/オルロイ号・食堂区画/覚醒/船内暦三日目・第二食刻】

 椅子が引かれた。

 誰も触れていない。

 一脚。

 二脚。

 三脚。

 十二脚。

 同じ幅。

 同じ音。

 最後の一脚だけ、脚が少し擦れる。

「左後ろ、欠けてる」とロロ。

「直す?」ハル。

「証拠見てから」

「成長」

「褒めるなら金で!」

「言うと思った」

 食堂の床は現在、船首側の壁だった。

 十二脚の椅子は壁へ立ち、革帯で固定されている。自動機構が一脚ずつ帯を緩め、食卓へ向ける。

 食卓は円形。

 中心に、蒸気を上げる鍋。

「湯気」とハル。

「見れば分かる」とロロ。

「使用料」

「一ルク!」

「高い」

「値切るな!」

 匂いは穀物。

 塩。

 乾燥野菜。

 人が食べられる匂いだった。

 人がいないこと以外は。

「毒性検査」とセレナ。

「食べないの?」カイル。

「王子が最初に食べるな」と全員。

「毒見役の歴史を否定しているのか肯定しているのか分からんな!」

「本人が毒見する制度は、効率だけはいい」とロロ。

「国が困る」

「国より本人が困る」とハル。

 ノクスが鍋へ鼻を近づける。

 右の尾が上。

 左の尾が鍋。

「食べたい」とハル。

「グル」

「毒?」

「ガウ」

「俺の翻訳」

「やめて」とエリア。

 セレナが細い検査紙を浸す。

「既知毒なし。腐敗反応なし。星力残留、保存器由来」

「食べられる」とカイル。

「証拠採取後」

「食卓で証拠採取を待つ王子。絵になるか?」

「腹が減った顔は王家広報に向かない」とエリア。

「君は見たことがあるのか」

「いつも」

「そこまで頻繁ではないだろう」

「頻度を王家広報へ申告しますか」

「やめてくれ」

 鍋が傾いた。

 正確には、鍋以外の世界が傾いた。

 船内鐘が半拍鳴り、水滴の方向が変わる。

 円卓は壁のまま。

 重力だけが食堂の天井へ移った。

 十二枚の皿が革帯から外れる。

「証拠!」セレナ。

「人!」ハル。

「人は落ちてる!」カイル。

 全員が同時に別の優先順位を叫んだ。

 ハルの身体が天井へ引かれる。

 右手で席の背をつかむ。

 左肩は使わない。

 足を円卓の縁へ掛ける。

 無印の皿が顔の横を飛ぶ。

 つかまない。

 証拠だからではない。

 左手を伸ばせば肩が外れる角度だった。

「一枚、任せる!」

 言う。

 エリアの銀線が皿を包む。

「受けた!」

 別の皿が鍋へ当たる。

 カイルが小盾を出す。

 盾は鍋を受け、熱い汁を左右へ分ける。

「熱!」

「火傷」とセレナ。

「なし! 痛み返し二!」

「一般式」

「熱いは数値じゃない!」

「四」とエリア。

「勝手に!」

「顔」

「予告を痛みに使うな!」

 ロロの補助腕が二本とも皿へ向かう。

 本人の両手は床蓋と吸入器。

「足りねえ!」

「何枚!」ハル。

「三!」

「一枚俺!」

「肩!」

「足で!」

 ハルは飛んできた皿を靴底で受ける。

 蹴らない。

 速度を殺し、膝を曲げ、円卓へ滑らせる。

「配達技術」とカイル。

「皿は配達物?」

「割れ物」

「料金」ロロ。

「お前は作業中も請求するな!」

「作業中だから請求すんだよ!」

 ノクスは鍋の蓋へ飛びついた。

 蓋と一緒に天井へ落ちる。

 二本の尾が回転し、姿勢を変える。

 天井板へ着地。

 蓋を前脚で押さえる。

「ノクス、偉い!」ハル。

「ナァ」

「報酬は」

「肉」

「翻訳した!」エリア。

 十二枚。

 一枚も割れない。

 しかし皿の傷がまた増えた。

 自動機構が重力切替へ追いつかなかった。

「本来は?」ハル。

「鐘の前に帯が締まる」とロロ。

「締まらなかった」

「制御の遅れ。昔は一秒以内、今は三・六秒」

「劣化」とセレナ。

「修理装置があるのに」

「直してるのは登録故障だけ。遅れが許容範囲を越えたって判断する人間がいねえ」

 少しずつ悪くなるものは、壊れたと呼ばれにくい。

 一秒が二秒に。

 二秒が三秒に。

 今日も動いたから、明日も動くと扱われる。

 事故は、ある日突然起きるのではない。突然と呼びたくなるほど長く見逃された結果として起きる。

「今の遅れ、記録」とロロ。

「あなたが言う前に」とセレナ。

「好き」

「記録しない」

「差別!」

 皿が配られる。

 機械腕が壁から出て、一枚ずつ。

 十二枚。

 皿の縁には、船員の印。

 船長。

 航路士。

 機関士。

 測量士。

 最後の一枚だけ無印。

「臨時乗員」とハル。

「可能性」とセレナ。

「父の皿?」

「名はない」

「言ってみただけ」

「自分へ?」

「うん」

 無印の皿へ、鍋から同じ量が注がれる。

 誰も座らない席。

 ハルはその席を見ないようにして、見ている。

 空席は、視線を吸う。

「傷」とロロ。

 皿の表面。

 細い擦り傷が何百本もある。

「新しい料理に古い皿」とエリア。

「皿は十五年使われた?」ハル。

「使用回数を数える」

 ロロが拡大レンズを下ろす。

 傷の向きは三種類。

 一日目は重力が右。匙が皿の右へ滑る。

 二日目は左。

 三日目は中央。

 三方向の傷が、繰り返し重なる。

「水筋と同じ」とエリア。

「三日」

「皿は何百回も食卓へ出された」

「誰が食べた」カイル。

 機械腕が匙を持つ。

 無人の椅子の前で、皿を一度すくう。

 口の高さまで運ぶ。

 何もない空間で止まる。

 匙を戻す。

 もう一度。

 十二席。

「食べる動作」とハル。

「給仕訓練機構」とロロ。「船員が片腕を怪我した時、食事補助にも使う」

「今は空気に食べさせてる」

「乗員札が残ってる」

「名簿に十一人と臨時一人」とセレナ。

「十二席」

「機械は、降船を知らない」

 匙が皿へ戻る。

 傷が一本増える。

 十五年分の皿の傷。

 数日前の料理。

 現在の空席。

 同じ食卓に、三つの時間が座っている。

「保存器を見たい」とロロ。

「食べてから?」カイル。

「証拠採取後なら」とセレナ。

「採取した」

「一人一口」

「なぜ制限」

「保存食の残量と生成回数を検証する」

「王子の腹は証拠に負けた」

「国家の歴史だ」

 ハルは無印の皿を避け、端の皿から一口取る。

 温い。

 塩が強い。

 野菜は形を戻しているが、味は戻りきっていない。

「数日前」とハル。

「舌で年代を断定するな」とセレナ。

「作りたて」

「保存復元直後」ロロ。

「料理としては」

「怒る」

「誰が」

「料理人」

 カイルも食べる。

「王城の非常食より良い」

「基準がまた悲しい」とハル。

「王城は毒殺対策で味が死ぬ」

「味の死因が政治」

「王族の食卓はだいたいそうだ」

 エリアは一口だけ。

「塩分が高い」

「逆潮は汗をかく」とロロ。

「水が頭上にあるのに」ハル。

「湿度と水分補給は別だ!」

「言い方が健康指導」

「機関士は人間機関も見る!」

「見すぎるな」とセレナ。

 食堂の奥へ保存室。

 扉を開く。

 冷気が横へ流れる。

 棚へ、穀物、乾燥野菜、種菌、塩、油。

 しかし量が少ない。

「十二人が十五年食べた量じゃない」とハル。

「十二人が三日食べる量」とロロ。

 保存器は三つ。

 一日目。

 二日目。

 三日目。

 三日目の器が、空の食材箱を吸い込む。

 内部で光。

 次の瞬間、箱へ同じ量の穀物が戻る。

「増えた」とハル。

「戻した」とロロ。

「無限?」

「違う。誓晶へ保存した状態を復元。元の食材は少しずつ劣化する」

「何回」

「見る」

 器の底。

 復元回数を示す刻み。

 四桁を越えている。

「千八百二十四」とエリア。

「三日ごとなら」とカイル。

「約十五年に近い」とセレナ。

「近い?」

「外界暦と同一周期なら五年。逆潮の時間差がある」

「まだ計算足りない」

「証拠は増えた」

 ロロが保存器の蓋を開ける。

 内部の誓晶は、薄く濁っている。

「限界」

「いつ」

「次か、十回後か、百回後。分解しないと」

「分解」セレナ。

「必要最小限」

「言えるようになった」ハル。

「うるせえ!」