第608話 第四章「数日前の食卓」後編

 保存器の横に、小さな製パン槽があった。

 蓋を開けると、半分だけ膨らんだ生地。

「触らない」とセレナ。

「匂い」とハル。

「顔」

「共有財産、使いすぎ!」

 生地の表面へ、三本の切れ目。

 右。

 左。

 中央。

「三日分の膨らみを一つへ保存」とロロ。

「説明」とエリア。

「一日目に種菌を起こす。二日目に生地。三日目に焼く。復元すると、一日目の種菌へ戻す」

「毎周、新しいパン」とカイル。

「元の菌は古くなる」

「見える?」

 ロロが透明蓋を光へかざす。

 内側に薄い膜。

 茶。

 白。

 茶。

「死んだ菌の層」

「何層」とハル。

「数えるには切片。今は取らねえ」

「取らない決断」

「保存器全体の動作へ影響する」

「成長」

「うるせえ!」

 セレナが表面から綿棒で最小量を採る。

「機能を止めない範囲」

「星律官が取るのはいいのか!」

「目的、量、復元不能性を記録」

「俺も書けば」

「読める綴りで」

「喧嘩売ってんのか!」

 ロロの補助腕が二本とも上を向く。

 片方が製パン槽の照明へ当たり、古い留め金が外れた。

 薄い金属板が落ちる。

 その裏に、刻み。

『復元一八二四』

「同じ」とエリア。

 穀物保存器も一八二四。

 種菌も一八二四。

 水浄化器も。

「一周ごと」とハル。

「三日を一周とすれば」とセレナ。

「船内時間、五千四百七十二日」カイル。

「約十五年」とエリア。

「でも外界の十五年と近すぎない?」ハル。

「船内の日が普通なら」

「普通じゃない」

「まだ比率不明」

 ロロが製パン槽の底を指す。

 復元回数の横に、手書きの線がある。

 一。

 二。

 三。

 次に長い一本。

「五回ごとの数え方?」ハル。

「違う。三周ごとに点検しろって印」

「点検した?」

「最初だけ」

 最初の六本には、確認印。

 その後はない。

 装置は点検を要求した。

 人はいない。

 要求は解除されず、警告だけが古くなる。

「警告音」とハル。

「聞こえない」とロロ。

「壊れた?」

「消音された」

 配線の一部が切られている。

「誰が」とセレナ。

「古い切断。工具痕は単刃」

「うるさかったから?」ハル。

「可能性」

「人がいた時に切った」

「機械が自分で警告線を切る設計ではない」

「誰かは、三日以上戻れないと分かってた?」

「あるいは、警告が作業を妨げた」セレナ。

 理由は分からない。

 しかし切った者は、少なくとも警告を聞いた。

 その人が船を捨てたのか。

 船から逃げたのか。

 戻るつもりだったのか。

 切断痕は答えない。

「パン、焼ける?」カイル。

「今その話?」ハル。

「証拠採取後の生地を廃棄するなら、食べる方が」

「王子の食欲は循環を破らないな」とロロ。

「継続性のある人物造形だ」

「何の話」とセレナ。

「食べるなら、生成回数へ一回加わる」とエリア。

「現在の周回へ介入する」

「やめる?」ハル。

「少量だけ焼く」とセレナ。「現在乗員が食べた記録を装置へ残し、空席だけの再演ではなくする」

「証拠を変える」

「救難者の介入も証拠です。隠さず記録する」

 小さなパンを一つ焼く。

 全員で分ける。

 硬い。

 塩が強い。

 少し酸っぱい。

「十五年の味」とハル。

「舌で年代を断定するな」とセレナ。

「でも今、俺たちが食べた」

「はい」

 空席のために作られた食卓へ、現在の歯形が残る。

 過去を調べる者も、過去へ痕跡を付ける。

 完全に触れずに知ることはできない。

 だから必要なのは無傷の観察者ではなく、どこへ触れたかを記録する観察者である。

 椅子が動く音。

 食堂へ戻ると、十二脚が元の位置へ戻っていた。

 皿も。

 匙も。

 無印の席も。

 食べ残したはずの鍋は、満杯に戻っている。

「戻った」とハル。

「復元」とロロ。

「食べた分も?」

「保存状態を上書きした」

「俺たちが食べた事実は」

「消えてねえ。鍋の状態だけ戻った」

「食べ放題」カイル。

「喜ぶな。保存器が死ぬ」

「国家の食糧問題が」

「解決しねえ! 元の誓晶が摩耗してる!」

「王子の夢、短い」ハル。

「王位より長かった」

 ハルは無印の皿を見る。

 傷が一本、増えている。

 状態は戻っても、傷は戻らない。

「どうして皿だけ」とエリア。

「保存対象じゃない」とロロ。「食材と配置は戻す。器具の摩耗は修理装置へ」

「修理装置が直す?」

「傷は機能障害じゃねえから残す」

「機械の基準で、直すものと残すものを分ける」

「人間もやるだろ」

 ロロの声が少し硬い。

 姉のことを言っていない。

 言っていないため、全員が分かる。

 食卓の十二席を、エリアが重力方向別に描く。

 一日目。

 二日目。

 三日目。

 同じ席でも、重力が変わると椅子の脚へ掛かる負担が違う。

「無印だけ傷が多い」とハル。

「位置が悪い」とロロ。

「どこが」

「三日目に重心が外へ逃げる。臨時席を後から足した」

「父が座ったから?」

「臨時乗員なら誰でも」

「分かってる」

「今は早くない」とセレナ。

「測られた」

 無印の椅子だけ、座面の革が二度張り替えられている。

 一枚目は古い茶。

 二枚目は濃紺。

 その上に、最近の油。

「誰か座った?」カイル。

「自動機構が席を押してる」とロロ。

 椅子の背へ、小さな機械腕。

 食刻ごとに引く。

 戻す。

 革は人の重さでなく、機械の反復で擦れていた。

「また人じゃない」とハル。

「その確認が必要」とエリア。

「何回も」

「何回でも」

 父の不在は、一度確認すれば終わる情報ではない。

 椅子が動くたび、足音がするたび、筆跡が現れるたび、心はまた人を置く。

 そのたびに、現在の証拠へ戻る。

 ノクスが無印の椅子の下へ潜る。

 前脚で床を掻く。

「何か」とハル。

 薄い紙片。

 油で黒くなっている。

 セレナが拾う。

 紙には、日本語のような線。

 ハルの心臓が一度、強く鳴る。

 水で滲み、読めない。

「父の字?」エリア。

「分からない」

「読める部分」セレナ。

「ない」

「形」

「日本語に見える。数字かもしれない。落書きかも」

「保存」

「意味は」

「未読」

 証拠袋へ入れる。

 読めない文字を、希望で読むことはできる。

 希望は文字より柔らかいため、どんな形にもなる。

 だから未読のまま残す。

「残せる」とハル。

「読めなくても」とエリア。

「うん」

 ロロが椅子の脚を持ち上げる。

 底へ、小さな三枚歯印。

「また」とハル。

「製造印かもしれねえ」

「工具架の音、奥」

「まだ人名へ飛ぶな」

 ロロは自分へ言っている。

 食堂の床下から、修理音。

 カッ。

 カッ。

 カッ。

「近い」とハル。

 床蓋を開く。

 細い保守路。

 人一人が這える幅。

 重力方向は、食堂と九十度違う。

「俺」とロロ。

「一人で行かない」とハル。

「狭い」

「俺も入る」

「左肩」

「這うだけ」

「戻る時に重力変わる」エリア。

「補助索」

「二本」

「言われる前に言った」

「教育成果」

「褒めた?」

「五つ目を追加します」

 ロロが先。

 ハルが後。

 ノクスはさらに前へ滑り込む。

 保守路は、まっすぐではなかった。

 船の骨に沿い、三歩ごとに九十度曲がる。

 曲がるたび重力が違う。

 最初は腹這い。

 次は壁歩き。

 その次は、頭から落ちる。

「設計者、性格悪い」とハル。

「船骨が曲がってんだ。人間へ合わせて真っすぐにしたら、外側が重くなる」

「機械優先」

「沈む船で人間の気分を優先すんな」

「今、落ちてる」

「だから急げ!」

 ロロの声が一息で長くなる。

 補助腕の一本が前方の輪をつかみ、もう一本が工具箱を運ぶ。

 本人の左手は探針。

 右手は呼吸の間隔を数えるため胸へ置く。

 吸入器は腰。

「喉」とハル。

「鳴ってねえ」

「息、短い」

「狭いから」

「交代」

「あと十メートル」

「交代条件に距離ない」

「俺の身体」

「俺の後ろで倒れると帰路塞ぐ」

「言い方!」

「理由は正しい」

 ロロは止まる。

 止まることが負けに見える者ほど、条件を外から言われると怒る。

 怒っても、止まれるなら前より強い。

 ハルが先へ出る。

「工具、どれ」

「探針。赤い柄」

「食べ物名じゃない」

「姉貴の工具だから」

 言ってしまう。

 暗闇が一瞬、広くなる。

「借りた?」

「残った」

「返す?」

「会ったら、代金請求する」

「借り物じゃないのに」

「九年分の保管料」

「高そう」

「値切ったら殴る」

「今から?」

「会ったら!」

 探針を壁へ当てる。

 振動。

 カッ。

 カッ。

 カッ。

 奥の修理音と重なる。

「同じ周期」とハル。

「壁の向こうに作業架」

「開ける」

「待て。圧力差」

 ロロが薄い紙を継ぎ目へ挟む。

 紙は吸われない。

 吹かれない。

「同圧」

 ハルが蓋を回す。

 固い。

 左肩へ力を入れない。

 右手だけでは足りない。

「ロロ」

「戻る」

「無理すんな」

「お前に言われると機械が錆びる!」

 二人で回す。

 ハルは大きな力。

 ロロは角度。

 力だけでも、角度だけでも開かない。

 蓋が外れる。

 向こうから、工具が飛んできた。

「下!」

 ハルが頭を伏せる。

 工具は保守路の重力へ入った瞬間、方向を変え、背後から戻ってくる。

 ロロの補助腕がつかむ。

「危な!」

「同じ道を回ってる」

 工具は古い締付け器。

 柄へ油。

 油は新しい。

「誰か触った」とハル。

「自動腕」

「指跡」

 柄に、五本の筋。

 人の手に見える。

 しかし幅が等しい。

 関節の跡がない。

「把持具」とロロ。

「また人じゃない」

「まだ」

 工具の裏へ、別の油。

 細い一本。

 人の親指に近い擦れ。

「こっち」とハル。

 ロロが見る。

「新しい」

「何日前」

「酸化してねえ。数時間から二日」

「機械か」

「分からねえ」

 ノクスが先へ進む。

 低く唸る。

 生き物へではない。

 知らない油と、知っている匂いが重なった時の唸り。

「知ってる?」ハル。

 ノクスの尾が、ロロを指す。

「俺の油?」

 次に奥。

 同じ系統の機械油。

「下面区の配合」とロロ。

「姉も使う?」

「使ってた」

 過去形。

 暗闇の奥で、金属が一度鳴る。

 返事のように。

 保守路の壁に、工具痕が続く。

 丸。

 四角。

 三本の歯。

「三枚歯」とロロ。

 声が止まる。

「共通規格?」ハル。

「昔は」

「姉の?」

「まだ言うな」

「聞いただけ」

「聞く形で名前置くな」

 ロロは痕へ触れない。

 拡大レンズを下ろす。

 三本の歯。

 右端だけ深い。

 間隔二ミリ。

 雷導監獄で見た、旧保守部品の痕と似ている。

「似てる」とハル。

「同じとは言ってねえ」

「言ってない」

「顔が」

「予告?」

「今は黙れ」

 本当に動揺すると、ロロは専門用語を減らす。

 保守路の奥で、機械腕が動いている。

 古い工具を持ち、同じボルトを三回締める。

 一回。

 二回。

 三回。

 緩める。

 また締める。

「修理してない」とハル。

「手順を再演してるだけ」

「何のため」

「最初は、点検したことを船へ覚えさせるため。今は命令だけ残った」

 工具の柄へ、欠けた三枚歯の印。

 ロロの補助腕が、本人より先に下がる。

「姉ちゃん」

 初めて、声に出した。

 保守路のさらに奥で、別の金属音がした。

 自動機械の一定間隔ではない。

 一度。

 長い間。

 二度。

 誰かが、こちらの音を聞いてから返したような間だった。

 ノクスの二本の尾が、暗闇の同じ一点を指す。