第609話 第五章「終端議会の機関士」前編
切ることは、壊すことではない。
外科医は腐った肉を切る。
船乗りは嵐で帆綱を切る。
都市は火災を止めるため橋を落とす。
切断は、ときに残すための技術になる。
ただし、切る側がいつも全体を名乗り、切られる側がいつも一部と呼ばれるなら、その技術は政治になる。
誰が全体か。
誰が一部か。
誰が戻らないと決めるのか。
刃物は答えない。
刃物を持つ者が答えなければならない。
【現実/オルロイ号・船骨保守路/覚醒/外界高度一万八千】
保守路の奥で、隔壁が落ちた。
下へではない。
ハルたちの正面へ。
厚さ六センチの鉄板が、狭い管路を押し潰すように迫る。
「戻れ!」ロロ。
戻る方向も、重力が変わっている。
ハルは右手で輪をつかみ、ロロの腰索を引く。
ロロの補助腕一本が後ろの蓋へ。
もう一本が工具箱へ。
人をつかむ腕が足りない。
「箱、捨てろ!」ハル。
「工具!」
「お前!」
「両方!」
「三つ目はない!」
工具箱の蓋が開く。
ネジ、鑿、探針、油瓶。
全部が別々の下へ落ちる。
ロロの目が追う。
「見るな!」
「金!」
「命!」
「命も金かかる!」
「生きて請求しろ!」
隔壁まで三メートル。
二。
一。
白い線が、隔壁の中央へ走った。
六つの火花。
刃が閉じる。
鉄板の荷重だけが横へ逃げ、隔壁はハルの鼻先一センチで止まる。
切れたのは鉄ではない。
鉄を押していた力の道だった。
「残せる数、二」
女の声。
「人間二。工具箱、切る」
「切るな!」ロロ。
「もう切った」
工具箱を引いていた張力線が消える。
箱は重力の別方向へ流れ、壁の穴から外へ落ちる。
「俺の工具!」
「位置、記録した」
「戻せ!」
「戻らない」
「お前はいつもそれだ!」
その言葉で、女の六本腕が止まった。
【ニア/計算層/残り時間十一秒】
弟の身長は、記録より七センチ高い。
補助腕は四本設計のうち二本停止。
右眼レンズは度入り。
呼吸間隔、平常より一・四倍。
右手甲の火傷、以前の写真より広い。
生存。
数値は確認できる。
声は記録より高い。
怒りは予測範囲を超える。
予測できなかったのではない。
予測へ入れなかった。
入れれば、戻る判断が必要になるからだ。
ニアは髪のボルトを一つ回す。
触覚、右二割。
断機連続使用、限界まで一回。
弟へ言うべき言葉。
謝罪。
説明。
権限の返還。
残り十秒。
どれも十秒では足りない。
だから彼女は、もっとも慣れた言葉を選ぶ。
「退いて」
間違いだと分かったまま。
暗闇の奥で、六つの火花が開いた。
左右に三つずつ。
目ではない。
工具だった。
切断鋏。
圧力爪。
測距針。
細い鋸。
固定鉤。
白熱線。
六本の機械補助腕が、狭い保守路の壁と天井へ蜘蛛の脚のように広がる。
中央に女がいた。
長い黒髪を右へ流し、銅線とボルトで編んでいる。左側は刈り上げ。濃青緑の外套には、修理跡ではなく白い切断線が走る。
褐色の肌。
青緑の目。
ロロと同じ目ではない。
同じだと気づくには、似ていないところを長く知っている必要がある。
女はハルを見ない。
ロロを見る。
「残せる数を言って」
低い声。
平ら。
ロロの補助腕が、全部止まる。
二本しかない。
それでも感情は四本分、止まった。
「誰」とハル。
「退いて」
「先に名」
「十五秒で船骨三本が破断。残せる区画は、今なら八。十秒後は六」
「質問に答えて」
「答える時間を残したいなら退いて」
女の六本腕が一斉に壁へ触れる。
白い線が、船骨の中へ浮かんだ。
一本。
二本。
十数本。
荷重が通る道。
見えない重さが、光の血管のように船内へ走る。
「荷重線を一本だけ切る術〈カットオフ〉」とロロ。
声が掠れる。
女の右手が髪のボルトを一つ回す。
「切る線は一本。残すのは、救難灯、主機関、船首記録室、接舷部」
「食堂は」とハル。
「切る」
「人がいるかも」
「生体反応ゼロ」
「俺たちがいる」
「退避済みにする」
「してない」
「する」
言葉が命令になる。
ロロがハルの前へ出た。
「切るな」
「ロロ坊」
その呼び名で、時間が止まったように見えた。
時間は止まらない。
オルロイ号は落ちる。
船骨は軋む。
接舷索の張力は上がる。
「その名前で呼ぶな」
「残り九秒」
「切るな!」
「代案」
「支える」
「二本の補助腕で?」
「俺の腕を数えるな!」
「荷重は数える」
女の刃が白線へ入る。
「ロロ!」ハル。
「止めろ!」
「どっちを!」
「姉ちゃんを!」
言った。
はっきり。
女の目が一瞬だけ動く。
数字が消える。
感情が出たのではない。
本当に動揺したニアは、数字を言わなくなる。
その一瞬で、船骨が折れた。
轟音。
保守路の重力が横へ飛ぶ。
ハルが壁へ投げられる。
右手で輪をつかむ。
左肩に衝撃。
「四!」
自分から言う。
「一般式!」ロロ。
「四!」
「嘘つくな!」
「五!」
「交代できる場所じゃねえ!」
「だから支えろ!」
ニアの六本腕が広がる。
一本がハルの腰索。
一本がロロの工具箱。
一本が船骨。
一本が白線。
残り二本で、刃を押す。
「切る!」
「待て!」ロロ。
「待てば全部失う」
「全部って誰だ!」
「現在乗員六、夜獣一、船体記録、接舷船」
「食堂も船だ!」
「戻らない」
「決めるな!」
刃が閉じる。
白線が切れた。
音は小さい。
巨大な船の荷重線が切れる音は、糸を爪で弾くほどだった。
次の瞬間、食堂区画が船体から外れる。
落ちない。
オルロイ号本体とは別の下へ引かれ、頭上の海へ向かって流れる。
十二脚の椅子。
十二枚の皿。
十五年分の傷。
船から離れていく。
「証拠!」セレナの通信。
「人はなし!」ニア。
「事前記録は完了」とセレナ。「切断理由を後で聴取します」
「後があるなら」
切断したことで、船体の回転が遅くなる。
下降速度。
毎秒五十二。
四十八。
四十四。
「遅くなった」とハル。
「重心を変えた」とニア。
「止まってない」
「止められない」
「何者」
ニアは六本腕を壁へ固定する。
「終端議会、保全機関士。主任機関士ピクス」
「ピクス」とハル。
「ロロの」
「聞くな」ロロ。
「姉」とニア。
「お前が言うな!」
保守路の奥から、さらに二人が出てくる。
バズが腰から銀色の締付け器を抜く。
「通路を開けます! 了解、つまり直前作業の再演で隔壁解除!」
「待て」とエメ。
しかしバズは工具を握った。
柄の細い誓紋が光る。
工具へ直前の作業手順を残す残響〈リプレイ・ツール〉。
締付け器が、持ち主の手を引く。
一回転。
半回転。
押す。
引く。
床蓋が開く。
「成功です!」
次の瞬間、蒸気が噴いた。
「伏せろ!」
エメがバズの襟を引く。
ニアの補助腕が弁を閉じる。
ハルがロロを床へ押す。
白い蒸気が頭上を走る。
「成功?」ハル。
「直前の作業を再演しました!」
「直前は何の作業」セレナの声。
「開放点検」
「今は圧力がある」エメ。
「手順は同じで」
「条件が違う」
「でもニアさんなら」
「私は使わない」とニア。
バズが止まる。
「なぜ」
「手順は判断を残さない」
「正しい手順です」
「前回の条件で」
「じゃ条件を合わせれば」
「船が落下中。合わせる時間がない」
「なら主任の命令を」
「命令は出さない」
バズの顔に、空欄ができる。
「何をすれば」
「圧力を読め」とエメ。
「俺が?」
「お前の耳で」
「監査術なし」
「管へ耳を当てろ」
「間違えたら」
「停止する」
「誰が」
「私」
「ニアさんは」
「監査対象」
エメは冷たい言葉を使う。
冷たいから距離があるのではない。
距離を保つために、熱を制度へ変えている。
バズは配管へ耳を当てる前に、小さく謝る。
「すみません」
管は返事をしない。
低い振動。
高い震え。
間に、空洞音。
「右弁、閉。左、半開。中央は……脈が二つ」
「自分で判断」とエメ。
「中央を先に逃がす。左を閉める。右は維持」
「理由」
「中央が逆流してる。左を先に閉じると中央圧が上がる」
「実行」
バズが手動で回す。
今度は工具の残響を使わない。
蒸気が止まる。
「成功」とハル。
「はい!」
「自分の?」
バズはニアを見る。
ニアは頷かない。
否定もしない。
エメが言う。
「お前の判断。記録しろ」
「俺の」
「空欄を埋めろ。ただし誰かの名で」
「自分の名前で」
バズは工具札へ書く。
『バズ・ノット。中央逃圧を先行。停止条件、異音二回』
字が大きすぎる。
しかし空欄ではない。
エメの案内で、保守路から機関前室へ抜ける。
彼女は通路を地図でなく圧力差で覚えている。
「右」とハル。
「今の下では上」とエリアの通信。
「エメにとって」
「圧力の低い方」とエメ。
「方向じゃない」
「生きて出る方が方向」
右腿の金属片が湿度で痛む。
歩幅は一定。
痛みを隠しているのではない。痛みを作業値へ入れている。
「交代」とハル。
「案内はできる」
「荷物」
「古い区画鍵だけ」
「持つ」
「必要ない」
「必要と許可は別?」
エメが見る。
「学習が早い」
「褒めた?」
「その質問は遅い」
鍵は渡さない。
拒否も、共同作業の一部である。
一人は女。
黒髪に銅色の太い筋。焦茶の監査外套。左手の中指と薬指がない。胸から首へ蒸気火傷。右脚をわずかに庇う。
「圧力、値を読め」
短い声。
ニアが答える。
「主骨四十七。切断面二十一。接舷部三十九」
「断機後の触覚」
「右指、二割。左、三」
「使用停止」
「まだ必要」
「必要と許可は別」
「ドック監査員」
「名を近く呼ぶな。監査対象」
「エメ」とハル。
女が見る。
「誰に聞いた」
「まだ」
「名乗ってない」
「じゃ分からない」
「正しい」
彼女は腰の古い区画鍵を見せる。
「エメ・ドック。圧力監査。ニアを必要とする。赦してはいない」
「最初に言うんだ」
「後で誤解される時間を減らす」
二人目は若い男。
藁色の髪。
鼻と肩にそばかす。
灰黄色の配管服。
工具が多すぎて、歩くたび金属音がする。
「了解、つまり、救難班と合流、船体八区画を維持、主任の判断は成功、成功です!」
「二回言った」とハル。
「復唱です!」
「最後が増えてる」
「強調です!」
男は敬礼する。
工具が三本落ちる。
ノクスが一本をくわえる。
「あっ、それ返してください! 返却までが工具貸借の、貸してない!」
「名前」とセレナの通信。
「バズ・ノット、配管士番号N-204! 終端議会整備層、現在は――」
ニアが見る。
バズの声が止まる。
「所属は保留」とエメ。
「保留です!」
「自分で言え」
「俺は、今、ニア主任の回収任務へ参加中で」
「それは任務。所属ではない」
「所属は……」
空欄。
バズは空欄が嫌いだ。
だから誰かの名前を入れたくなる。
「ニアさんの班です」
「私の班ではない」とニア。
「じゃ、終端議会」
「離反手続き中」とエメ。
「まだ正式じゃ」
「正式を待ってたら、命令が来る」
「命令は必要です」
「停止条件も」とエメ。
バズは黙る。
黙って工具を拾おうとし、ノクスと引っ張り合いになる。
「返却!」
「グルル」
「貸してません!」
「ノクス」とハル。
ノクスは工具を離す。
バズの手へではなく、床へ。
「床へ置くなあ!」
この男の恐怖は、工具の扱いから先に分かる。