第612話 第六章「診療所、最初の拒否」後編
【現実/オルロイ号・機関前医療棚/覚醒/外界高度一万六千】
「指を出せ」とエメ。
「作業中」とニア。
「監査中」
「船が落下中」
「だから」
エメはニアの右手を取らない。
「自分で出せ」
ニアが右手を出す。
指先へ、細い針。
「感じる?」
「圧」
「痛み」
「なし」
「左」
「二」
「温度」
冷たい板。
温い板。
ニアは間違える。
「冷、温」
「逆」
「工具の振動は読める」
「触覚ではない」
「作業可能」
「判断能力と作業能力を分けろ」
「残り時間」
「数を言う前に、停止条件」
ニアの背中へ六本の接続瘢痕。
工具架シザー・クラウンの根元が赤い。
皮膚と金属の境に、薄い血。
「熱」とハル。
「炎症」とセレナ。
「痛み」とエメ。
「三」とニア。
「一般式」
「同じ」
「嘘」とロロ。
「根拠」
「顔」
「顔は証拠ではない」
「姉ちゃんの場合、数字が証拠じゃねえ」
「では何」
「補助腕二番が、動くたび背中から〇・三秒遅れる。痛み避けてる」
ニアが黙る。
「五」とエメ。
「推定」
「監査値」
「術は必要」
「一人では使わせない」
「許可権は」
エメが古い区画鍵を出す。
「私」
「正式制度ではない」
「今の共同作業条件」ロロ。
「お前が出した」とハル。
「お前一人で切るな」
「二人なら?」ニア。
「屁理屈!」
「条件を明確に」
「現場技師、監査、記録。三人」
「時間がない場合」
「手作業」エメ。
「損失が増える」
「誰が損失を選ぶ」
「全体」
「全体は喋らない」
エメの左手。
欠けた二本の指。
「切られた側が、あとで喋る」
ニアは目を逸らさない。
「必要とする」とエメ。「赦してはいない。だから止める鍵を持つ」
「受理」
「今は」
ロロが工具箱の代わりに、落ちた部品を布へ並べる。
姉の背中を見ない。
「刺激薬」とエメ。
ニアの外套内側から、小瓶。
「規定量」
「今日、三本」
「二」
「空瓶が三」
「一本は昨日」
「船内暦?」ハル。
ニアが止まる。
「外界暦」
「寝てない」とロロ。
「四十一時間」
「数えるなって言いたいけど、これは言え!」
「睡眠は任務後」
「任務、外れたんだろ」
「船体保全へ変更」
「名前変えて続けるな!」
エメはニアの背中へ手を触れない。
代わりに、自分の左手を機関壁へ置く。
圧力差を自分の痛みとして感じる監査術〈ロード・ペイン〉。
船骨の負荷が、欠けた指へ集まる。
ないはずの中指が焼ける。
ない薬指が押し潰される。
エメの顔は変わらない。
右脚だけが半歩引く。
「主骨、六十二」とバズ。
「違う」とエメ。
「計器は」
「計器に出ない脈がある」
「どこ」
「ニアの切断面から、食堂側の復帰命令が逆流」
「切った線は戻らない」とハル。
「線は戻らない。命令が別の線を探す」ニア。
「切れば終わりじゃない」ロロ。
「知っている」
「切った後の生活、他人に任せるくせに」
「今は任せない」
「いつから」
「三時間前、任務を外れた時」
「九年前じゃない」
「はい」
「はいが――」
「腹立つ。記録済み」とハル。
「お前がまとめるな!」
エメの左腕が震える。
「術停止」とセレナ。
「あと一値」
「交代条件」
「幻肢痛、肩へ越えたら」
「今」
「肘」
「一値」
「船首床下、未記録荷重。人一人分ではない。機関架」
術を切る。
エメは左手を胸へ抱かない。
右手で冷めた茶を取る。
医療棚に、なぜ茶があるか。
「持参」とエメ。
「聞いてない」とハル。
「顔が質問」
「また!」
冷たい茶を一口。
幻肢痛が消えるわけではない。
本人が戻る手順を持っているだけだ。
「未記録荷重」とエリア。
地図へ船首床下を加える。
「主機関とは別」
「何」とカイル。
「自動航路核」とニア。
「見た?」
「回収命令の対象」
「終端議会は知ってた」とハル。
「存在だけ」
「機能」
「三日航路の始点復帰」
「止めれば」
「不明」
「知らないのに回収」
「知らないから」
「切る?」ロロ。
「今は切らない」
「条件、守った」
「測定が先」
「褒めた?」ハル。
「その質問を姉弟へ混ぜるな」とエメ。
バズが計器を読む。
「主骨六十五、接舷部四十一、自動航路核――表示なし」
「空欄」と彼は小さく言う。
空欄を埋めたくなる。
「推定値を入れますか」
「入れない」とニア。
「でも計算が」
「不明のまま計算する」
「誤差が増える」
「誤差を隠すよりいい」エリア。
バズは空欄へ線を引きかける。
止める。
『未測定』
初めて、空欄を誰かの名前で埋めず、空欄の理由を書く。
「記録」とエメ。
「俺の判断で」
「そうだ」
ニアの工具架二本を停止する。
残り四本。
六本の冠は、欠ける。
ニアの身体が小さく見える。
補助腕を外した自分を弱く感じる女は、視線を船の値へ逃がす。
「残せる区画」と言いかける。
「先に自分」とロロ。
「作業者一、残す」
「名前」
「ニア・ピクス」
「俺が決めたみたいに言うな」
「自分で言った」
「……記録しろ、セレナ」
「既に」
「好き」
「記録しない」
少しだけ、空気が緩む。
緩んだから安全になったわけではない。
伝羽が届く。
夢灯環から。
六枚目の航路札と同じ、小さな紙灯籠の印。
ソムナの字。
『常設棟、正式開院。最初の新患、夢治療を拒否。拒否を治療失敗にしない。食事、道具、休む場所へ切替。診療所は開いたまま』
「遠隔助言?」カイル。
「違う」とエリア。「近況」
「今のニアへ使える」とハル。
「使うな」とセレナ。
「どうして」
「別人の拒否を、ニアの選択へ当てはめない」
「でも」
「参考に聞くか、本人へ確認」
ハルはニアを見る。
「治療、拒否する?」
「作業停止を拒否」
「治療は」
「鎮痛薬は拒否。触覚低下を隠す」
「代わり」
「固定帯。工具架二本停止。刺激薬廃棄。断機は三者確認」
「自分で言えた」とロロ。
「評価は求めていない」
「褒めてねえ」
「では条件」
「腹立つ!」
エメが固定帯を置く。
「自分で巻け」
「背部は届かない」
「誰へ頼む」
ニアの六本腕が動く。
自分で巻ける。
しかし工具架を止める条件は、二本を外すことだ。
外した後、自分では背中へ届かない。
ニアはロロを見る。
ロロは見返す。
「頼む」とニア。
「誰に」
「ロロ」
「坊は」
「付けない」
「代金」
「請求して」
「九年分とは別」
「はい」
「はいが腹立つけど、契約」
ロロが二本の補助腕を外す。
ニアの六本ではない。
自分の二本を工具へ使い、本人の左手で姉の背部帯を締める。
触れ方は修理工。
家族の抱擁ではない。
「痛み」とロロ。
「五」
「最初から言え」
「作業が止まる」
「止まる権利も作業に入れろ」
「更新する」
その時、船内鐘が鳴った。
一日目の音。
さっきまで三日目だった。
「戻った」とハル。
保存器。
筆記装置。
水路。
船内の自動機構が一斉に始点へ戻る。
切断された食堂区画へ送るはずの荷重が、残った船骨へ再配分される。
圧力計が跳ねる。
エメの左手に幻肢痛。
「値!」
「主骨六十三!」バズ。
「下降速度」とエリア。
「五十八。六十一!」
オルロイ号が、再び速く落ち始める。
自動機構は三日目を終えた。
人の拒否も、切断された区画も、現在の損傷も知らないまま、一日目を最初から始めた。