第611話 第六章「診療所、最初の拒否」前編

診療所は、治療する場所だと思われている。

 正確には、治療を選べる場所である。

 治す。

 待つ。

 別の方法を探す。

 途中でやめる。

 何もしない。

 最後の選択肢を置かない治療は、善意の形をした命令になる。

 ただし、何もしないことを選べるようにするには、食事、住居、仕事、介護、費用を、誰かが実際に支えなければならない。

 拒否権は紙へ書くだけなら安い。

 生活の中へ置くと、高い。

【夢灯環・夜明け診療所〈デイブレイク〉/覚醒/正式開院初日】

 夜明け診療所は、診療所らしくなかった。

 白い壁がない。

 同じ椅子がない。

 入口の反対へ診察台を置かない。

 夢灯巨人に焼かれた小劇場を、住民が直した場所だった。

 舞台は受付。

 客席は待合。

 左右の退場口は、どちらも本当に退出へ使える。

 天井には消し切れない煤。

 床には列車の補強輪。

 共同人格ルメの小組が縫った赤い糸は、一つの窓へ集まらず、四つの出口へ分かれている。

 災害の翌日から八日間、夜明け診療所は仮設棟で動いていた。

 寝台を並べ、拒否灯を守り、夢から戻った身体へ食事と薬を渡す。開いてはいた。だがそれは、町が倒れないための緊急運用であって、治療を断った人が翌日も来られる常設の場所にはなっていなかった。

 焼けた小劇場へ移り、患者組合が会計権を持ち、退出口と費用と停止条件を掲示したこの日を、彼らは「正式開院」と呼んだ。

 開院は最初から始め直すことではない。

 仮設の日々をなかったことにせず、続け方へ名前を付けることである。

 正式開院後の最初の新患は、四十代の紙屋根職人だった。

 赤い毛糸帽。

 左眉の火傷。

 両手へ乾いた糊。

 名前はボウ・レン。

 夢灯巨人の夜、屋根の上で眠って落ちかけた男ではない。別の屋根で、火を消し続けた職人だった。

「病院に見えない」とボウ。

「病院に見えると帰る人がいる」とアサ。

「見えないと不安な人もいる」とメイ。

「だから看板はあります」とソムナ。

 ボウは看板を最後まで読み、劇場だった室内を七歩進み、七歩戻った。

「帰る」

 ソムナは一拍置いた。

「はい」

「止めないのか」

「出口は、そこです」

「診ろよ」

「診てほしい?」

「治してほしくない」

「違います」

「何が」

「診ることと、治すことと、あなたの夢を見ることは、別です」

「夢葬師のくせに」

「だから分けます」

 ボウはまた七歩進む。

 戻る。

「鐘が聞こえない」

「今、鳴っていない」とメイ。

「だから聞こえないのか、俺の耳が聞こえないのか分からない」

 メイが小さな金属片を鳴らした。

 右。

 左。

 後ろ。

 ボウは全部答える。

「聴力は保たれている」

「じゃ頭だ」

「頭も身体です」

「夢を触る?」

「触らない検査もある」

「何をする」

「鐘が鳴らない時間を町の記録で確かめる」とメイ。「眠る場所へ手動鐘を置く。起きた時、自分で鳴らせる」

「偽物の鐘」

「確認用です」とソムナ。

「本物じゃない」

 ソムナは口を開いた。

 夢の中へ入れば、鐘が聞こえない恐怖の形を見られる。夢綴りで出口を縫える。正式開院の最初の新患を、夢葬師らしく救える。

 善意は、本人が頼むより先に仕事の形を決めたがる。

「夢を見せてもらえば――」

 ボウの身体が固くなる。

 アサの杖が床を一度鳴らす。

 退出の合図。

 ソムナは自分の文を途中で止めた。

「違いました」

「何が」

「僕の順番です」

「見れば分かると思った?」

「はい」

「夢葬師だもんな」

「だから、見ない練習が要ります」

「俺が練習台?」

「いいえ。あなたは患者です。練習台なら僕が目的を決める。患者なら、あなたが目的を決める」

「俺の目的」

「今、聞きます」

 ボウは出口を見た。

「今夜、屋根点検へ行かず座る。鐘が鳴っていないと、自分で確かめられる場所で」

「夢は」

「触るな」

「触りません」

 ソムナの袖の紙札は鳴ったが、端は折れなかった。

「正式開院の最初の新患です」と、ソムナは一拍遅く言った。

「縁起が悪いか」

「いいえ。最初に断ってくれる人で、助かりました」

「俺はお前を助けに来てない」

「はい。だから記録を間違えません」

 三日眠っていない。

 眠ると、燃える町を夢に見る。

 夢の中で、消したはずの火が戻る。

 起きると、中央塔の鐘が聞こえない気がする。

「夢綴りはしない」とボウ。

「はい」

「夢を薄くするな」

「しません」

「忘れさせるな」

「しません」

「眠らせるな」

「それは、相談したいです」

 ボウが睨む。

「三日寝てない」と身体医メイ・カフ。

 黒い顎線ボブ。

 中央の白い前髪。

 四角い透明眼鏡。

 腰に帳簿と小鍋。

「夢を触らず、身体だけ眠らせる方法がある」

「寝たら夢を見る」

「短い休息、明かり、同伴者、退出札」

「夢へ入るだろ」

「ソムナは入らない」

 ソムナが頷く。

「僕は、入りません」

「夢葬師が何する」

「今は、椅子を置きます」

「椅子」

「出口が見える向きに」

 ソムナは椅子を回す。

 入口が正面。

 壁へ、アサ・ノーンの札。

『退出可』

 理由は不要。

 途中でも可。

 返金は残り時間分。

「金取るのか」とボウ。

 ソムナの指が袖札へ行く。

 嘘をつく時、紙札の端を折る。

 折りかける。

「取ります」と言った。

 折らない。

「高い」

「いくらなら」

「払えない」

「収入」メイ。

「屋根工房、焼けた。再建仕事はある。道具がない」

「住居」

「工房の梁下」

「食事」

「二日、紙粥」

「紙は食べ物じゃない」とソムナ。

「夢葬師に言われたくない」

「僕も、そう思います」

 ボウは笑いかける。

 笑わない。

「夢を診る前に」とメイ。「鍋」

 腰の小鍋を机へ置く。

「スープ?」

「会計」

「鍋で?」

「硬貨を入れる。音で残額が分かる」

 振る。

 音が軽い。

「診療所の金、これだけ」

「見せるのか」

「払えない人へ無料と言うと、誰かが黙って払う。誰が払うか見せる」

「今は」

「患者組合の開院基金。あと十二日」

「十三日目は」

「決める」

「治療を断る患者へ使う?」

「夢治療を断った。生活相談は断っていない」

 アサが入口の横へ立つ。

 左右で丈の違う上着。

 細い杖。

「相談も断っていい」と言う。

「どっちなんだ」ボウ。

「あなたが決める」

「医者は決めないのか」

「火傷が感染したら、治療の必要性は説明する。押さえつけるかは緊急性と意思確認を分ける」メイ。

「難しい」

「簡単にすると、誰かの選択が消える」

 ボウは椅子へ座る。

 出口を見たまま。

「夢は触るな」

「はい」とソムナ。

「眠らせるな」

「今は」

「今は」

「食事は」

「食う」

「道具」

「貸しじゃ嫌だ」

「低額工房へ紹介」

「無料じゃない?」

「一ルクでも払う」とソムナ。

「誰の考え」

「友達の修理工」

 遠い空で、ロロがくしゃみをしたかもしれない。

 もちろん、その音は届かない。

 今、ロロは船の中にいる。

 ソムナは彼の現在地を知らない。

「診療記録」とソムナ。

 紙札へ書く。

『夢治療――本人拒否』

 手が止まる。

『治療失敗』

 その欄がある。

「書かないの?」アサ。

「夢治療は、しなかった」

「失敗?」

「僕の予定は」

「患者の目的は」

 ボウが言う。

「今夜、屋根点検へ行かずに座っていたい」

「眠らず?」

「眠るかは、あとで」

 ソムナは欄を書き換える。

『本人目標――今夜、点検へ行かず、出口の見える場所で休む』

『夢治療――拒否。拒否を維持』

『生活支援――食事、道具、仮住居』

 生活相談は、夢より遅い。

 夢の中なら、燃える家を一夜で作り直せる。

 現実の屋根を直すには、材木、職人、足場、許可、賃金、休憩、雨の予報が要る。

 ボウの問題を紙へ分ける。

 一、寝場所。

 二、食事。

 三、道具。

 四、工房再建の仕事。

 五、鐘を確認する方法。

 六、夢治療を受けないこと。

「六は問題か」とボウ。

「守る条件」とアサ。

「問題欄へ書くと、拒否が症状になる」とソムナ。

 欄の見出しを消す。

『生活条件』

「文字、変えるだけ?」

「文字で、次の人の見方が変わる」

「見方だけ」

「見方が変わらないと、手も変わらない」

 メイは鍋から硬貨を三枚出す。

「仮住居、三夜」

「金、なくなる」とソムナ。

「使うため」

「十二日が十一日」

「患者が来なければ十二日でも診療所ではない」

「でも十一日後」

「会計会議」

「夢市場の寄付は」

「条件を見る」

「条件が汚い」

「汚れている金で、清潔な寝床を作れる場合がある」

「受けたら、夢を売る」

「売らない条項を作る」

「破られたら」

「患者組合に停止鍵」

「僕が決めない?」

「決めない」

 ソムナの顔に、安心と不安が同時に出る。

 自分一人で決めなくてよい。

 自分一人で正しくできないと認める。

 それは救いであり、権限を失う恐怖でもある。

「正式開院後の最初の新患へ、会計問題まで見せるのか」とボウ。

「隠すと、無料の理由をあなたの感謝で払わせる」とメイ。

「感謝しない」

「それでいい」

「一ルクは」

 ボウはポケットを探る。

 穴の空いた硬貨。

「半分しかない」

「半ルク札」とアサ。

「そんなのある?」

「今作る」

 紙を半分に切る。

『半ルク。残りは屋根工房の安全点検一回。ただし診療所の治療方針へ従う労働ではない』

「長い札だな」

「短いと無償奉仕になる」

 ボウは署名しない。

「名前、要る?」

「会計番号だけでも」とメイ。

「夢網へ接続しない?」

「しない」

「じゃ番号」

 最初の支払い。

 半ルク。

 安全点検一回。

 感謝は不要。

 ソムナは記録へ、自分の失敗も書く。

『治療者、夢閲覧を提案しかけた。本人の身体反応と退出合図で中止。提案前に目的確認を行う手順へ改訂』

「自分の失敗、患者の記録へ書く?」ボウ。

「僕の欄へ」

「別?」

「あなたの症状にしない」

 ボウは赤い帽子を脱ぐ。

 椅子の背へ掛ける。

「今夜、ここで座る」

「寝ても」とソムナ。

「決めるのは俺」

「はい」

「灯り、消すな」

「一つ残します」

 別れ際でなくても、ソムナは灯りを一つ残す。

 患者が眠るかもしれない場所で、自分が夢を見られないことを、治療の欠陥にも資格にも使わない。

 その夜、ボウが眠ったかどうかを、ソムナは見張らなかった。

 眠った時刻を成果へ数えれば、眠らない選択が失敗になる。

 正式開院の初日は、治療記録より先に生活表を作ることになった。

「食事」とメイ。

「いらない」ボウ。

「朝から何を」

「苦い茶」

「食事ではない」

「豆を三つ」

「食事に数えない」

「誰が」

「身体」

 メイは夢の話をしない。

 血圧。

 体温。

 空腹。

 手の震え。

 夢を治さなくても、身体は腹を空かせる。

「温かいスープ」とメイ。

「湯気が嫌い」

 ソムナの指が止まる。

 自分は湯気のない温かいスープを好む。

 同じだと言いかける。

 同じ好みを見つけたからといって、同じ人間になれるわけではない。

「冷まして出す」とメイ。

「金」

「基本一ルクに含む」

「払えない」

 受付の患者組合員が帳簿を開く。

「現金以外の案を一緒に決める」

「何を取る」

「夢は取らない」ソムナ。

「記憶も」アサ。

「恩も」と組合員。

「じゃ何」

「今は未決。未決のまま食べられる緊急枠が二食」

「二食後は」

「また話す」

「追い出す?」

「追い出す条件も先に書く。暴力、火、他人の退出妨害。金がないことは条件にしない」

 ボウは看板を読む。

「長い」

「短くすると、誰かの都合が後から入る」とソムナ。

「お前、長い言葉を覚えたな」

「会計係に」

「私です」と組合員。

 寝床も決める。

 診察室ではない。

 夢綴りの術具から最も遠い旧衣装庫。

 鍵は内側からだけ掛かる。

 外側には、緊急時に壊せる薄い封板。

 封板を壊した場合、理由と時刻を本人へ渡す。

「見張り」とボウ。

「置かない」とアサ。

「逃げるかも」

「出口は逃げるためにもある」

「戻らないかも」

「戻る義務はない」

 ソムナの胸へ、古い恐怖が触れる。

 出口を示した相手が戻らず、自分だけが尊重したと納得すること。

「ただし」と言う。

 ボウが眉を上げる。

「戻らない時、探してよい範囲を決めてほしい」

「何で」

「見捨てたくない。でも追いかけて捕まえたくもない」

「面倒」

「はい」

「夢の話より面倒」

「生活の方が、よく面倒です」

 ボウは赤い帽子の縁を折る。

「朝まで戻らなかったら、灯籠通りの橋まで。一人で来るな。保安員を連れてくるな。アサならいい」

「記録していい?」

「その部分だけ」

 ソムナは本人の言葉を言い換えず、札へ書く。

『朝まで戻らなければ、灯籠通りの橋まで。単独捜索不可。保安員不可。アサ同行可』

「期限は明日の朝だけ」とボウ。

「毎日更新」

「忘れるな」

 ソムナは左腕へ小さな橋の絵を描く。

 患者の秘密を書かない。

 自分が明朝、確認すべき場所だけを残す。

 常設棟の最初の夜にできたのは、治療成功の記録ではなかった。

 冷ましたスープ。

 内側から掛ける鍵。

 壊した理由を返す封板。

 夢を見せなくても消えない一席。

 追う範囲を本人が決めた小さな橋。

 治療者の成功ではない。

 患者の選択が、記録の主語になる。

「正式開院の最初の新患」とソムナ。

「縁起悪いか」とボウ。

「いいえ」

「治してない」

「来たあとも、ここにいる」

 ソムナは苦い種を噛まない。

 本音だった。