第617話 第九章「時間移動ではない」前編

奇跡は、記録を短くする。

『王が祈ると雨が降った』

『英雄が剣を抜くと城が落ちた』

『船が過去から現れた』

 短い話は強い。

 原因と結果のあいだにある失敗、準備、偶然、他人の仕事を消し、一人の意志へまとめられるからである。

 歴史家が奇跡を嫌うのは、神を信じないからではない。

 奇跡という一語で、誰が何をし、誰が置いていかれ、どの道具が壊れたかを数えなくてよくなるからだ。

 星律官も同じだった。

 時間移動。

 その言葉は魅力的である。

 魅力的すぎる。

 だからセレナは、使わない。

 使う必要がなくなるまで、証拠を並べる。

【現実/オルロイ号・中央鐘楼崩落区画/覚醒/自動修理停止から十二秒】

「記録板を捨てろ!」

 ハルが叫ぶ。

「命令権がありません」

「じゃ頼む、捨てて!」

「拒否します」

「何で!」

「右手が空いています」

 セレナは記録板を左脇へ挟み、右手で落下索をつかんだ。

 古傷のある右手首へ、全体重。

 痛い。

 痛いが、まだ保持できる。

 保持できることと、保持し続けるべきことは別だ。

「八秒」と申告する。

「何が!」

「右手」

「先に言え!」

「今言いました」

 床だった鐘壁が割れる。

 青い海が、亀裂の向こうに見えた。

 頭上にあるはずの海は、今は右側だった。

 水圧が船内へ吹き込む。

 セレナの外套が烏翼のように広がる。

「六秒」

 ハルが安全索を蹴って振り子になる。

 左肩は使わない。

 右腕でセレナの腰帯。

「四!」

 カイルが盾型籠手を開く。

「炎は使うな!」セレナ。

「壁が来る!」

「水蒸気爆発!」

「では物理盾!」

 王盾炎を展開せず、籠手そのものを鐘片へ当てる。

 金属が曲がる。

 カイルの肋部へ衝撃が返る。

「三」

「数え方が不吉だ!」

「二」

「止めろ!」

「一」

 ハルがセレナを引く。

 右手が索から離れる。

 鐘壁が水へ飲まれた。

 記録板は左脇にある。

「持ってきた」とセレナ。

「人の方を報告して!」

「全員確認」エリア。

「ロロ!」

「いる!」

「ニア!」

「六腕、本人、エメ、バズ」

「ノクス!」

「ナァ!」

 ノクスはセレナの記録板の上にいた。

「証拠へ乗らないで」

「ノゥ」

「肯定しながら降りない!」

 鐘楼の中央が崩れる。

 エリアの赤線が閉じる前に、全員が保守路へ滑り込んだ。

 背後で四つの鐘が落ちる。

 一つは海へ。

 一つは船尾へ。

 一つは壁へ。

 一つは、どこにも落ちず亀裂へ挟まった。

 同じ鐘が別々の結末を持つ。

 それでも時刻は一つしか表示しなかった。

【現実/オルロイ号・救命艇庫/覚醒/残り安全高度・推定二時間十二分】

「証明済みの事項を読みます」

 セレナは右手首を冷却帯で固定した。

 筆記は左手。

「第一。オルロイ号は十五年前に出航した船体と同一」

「船籍、骨材番号、改造痕」とカイル。

「第二。船体は外界十五年分の塩層と金属疲労を持つ」

「過去から飛んだなら、その間の塩はつかない」とハル。

「飛び方による、という反論は可能です」

「可能なの?」

「未知の現象へ何でも許せば」

「ずるい」

「だから未知を理由に既知の証拠を捨てない」

「第三」とエリア。「船内の三日表示は、時刻そのものではなく自動運用の周期」

「第四。逆潮境界では外界と船内の時間速度に差がある」

「第五。保存器と修理装置は物を過去へ戻さず、材料を使って同じ状態へ近づける」ロロ。

「以上から」とセレナ。

 全員を見る。

「時間移動説を棄却します」

「断定できる?」ハル。

「この船の現在状態を説明するために、時間移動を仮定する必要がありません」

「ないことの証明じゃない」

「はい。世界のどこにも時間移動が存在しないとは証明していない。この船について、時間移動を採用しない」

「言葉、長いけど大事」

「長い言葉が必要な時もあります」

「短くすると?」

「船は十五年、生き延びた」

 無人で。

 その一語は言わない。

 まだ調べる。

 救命艇庫には、十二基分の架台があった。

 残っている艇は三基。

「九基不足」とバズ。

「盗難?」

「失踪当時の港記録では、搭載十二」セレナ。

「落下中に外れた可能性」とニア。

「架台を見る」とロロ。

 ロロは一番架台へゴーグルを下ろす。

 固定爪。

 解除索。

 外板の擦り傷。

「発進」

「何で分かる」とハル。

「外から引きちぎられたなら爪が開かねえ。これは内側の解除レバーで順番に開いてる」

 二番。

「発進」

 三番。

「これも」

 四番。

 固定爪へ赤錆。

「時期が違う」とロロ。

「どれくらい」とセレナ。

「一、二番は塩層の初期。三から五は中期。六から九はもっと後」

「一度に脱出していない」エリア。

「複数回」

 セレナは各架台の解除索を採取する。

 繊維の酸化。

 油の種類。

 結び目。

「一、二番は同じ当直班」

「結び目が同じ?」

「右利きの標準航海結び。三番は左利き。四番は自動解除」

「人が順に減った」カイル。

「可能性」

「また可能性か」

「証明に必要です」

 救命艇庫の壁に、搭乗名札がある。

 十二枠。

 一番から六番まで、名前が消されている。

 削ったのではない。

 札ごと抜かれた。

 七番から九番は、札が裏返っている。

 十から十二は空欄。

「空欄は未搭載艇?」ハル。

「艇は搭載記録あり」とセレナ。

「じゃ名簿なし」

「または、乗る者を決めずに発進」

「救難時の自由席」とカイル。

「十五年前の規則では、艇ごとに責任者を固定する」

「その規則を破った」

「破った痕跡がある」

「同じだろ」

「違います」

 セレナは十番架台の解除索を示す。

 途中で切れている。

「発進したとは限らない。艇が船体から失われた可能性もある」

「九基全部を一つに数えない」とエリア。

「そうです」

 人は「九人が消えた」と言われると、九人を一つの出来事へまとめる。

 だが、同じ船からいなくなった者が、同じ時に、同じ理由で、同じ場所へ行ったとは限らない。

 救命艇も同じだった。

「食料庫」とセレナ。