第618話 第九章「時間移動ではない」後編
食料庫は三日ごとに同じ食卓を作っていた。
だから消費量も同じに見える。
だが材料庫は無限ではない。
「穀物槽、一番が空」とロロ。
「二番、残り六割」とバズ。
「乾燥野菜、封印三つが未開封」
「塩は?」ハル。
「船骨に山ほど」
「食うな」
「分かってる!」
自動保存器は、食べられなかった食事を回収して再材料化している。
完全ではない。
毎回、少しずつ失う。
それでも十五年持ったのは、途中から作る人数が減ったからだった。
ロロが計量歯車を外す。
「最初、十二食」
「名簿と同じ」とセレナ。
「途中で九。次に七。五。最後は一」
「いつ」
歯車の摩耗位置を塩年輪へ合わせる。
エリアが周期を換算する。
「外界換算で、出航から約四か月後に九食」
「船内暦は?」
「反復回数四十前後」
「四か月を三日だと思ってた?」ハル。
「人がいたなら、思わない」とセレナ。
「じゃ、その時には」
「少なくとも一部は船内暦の異常を理解していた」
「だから降りた」
「理由はまだ」
九食から七食まで、外界約一年。
七から五まで、約三年。
五から一まで、約六年。
最後の一食も、やがて作られなくなった。
しかし食卓機構は人数設定を十二へ戻している。
「矛盾」とハル。
「人数設定と材料配給が別系統」とロロ。
「見た目は十二人の食卓。実際の材料は最後の登録人数」
「誰もいないのに一食?」
「最終乗員が離れたあとも、登録解除されなかった」
「誰」
「食料系統だけでは分からない」
「食料だけでは人数の理由が分からない」とセレナ。
「寝床」とエリア。
寝台区画は、食卓より静かだった。
十二床。
どの毛布も三日ごとに畳まれる。
どの枕も同じ位置へ戻る。
それでも、人が使った期間は同じではない。
「一番、沈み深い」とロロ。
「体重?」ハル。
「長期使用。二番は右側だけ。三番は足元に修理跡」
「誰の寝床か、名札は」
枕元の札は、自動清掃で白く磨かれている。
名前は残らない。
だが生活の癖は残る。
一番寝台の壁に、指で数えた縦線。
三本ごとに横線。
「日?」
「反復回数」とセレナ。
「船内鐘を信用せず、自分で数えた」
「何本」
「四十一組」
「食事が十二から九へ減った頃」とエリア。
二番寝台には、右側へだけ靴底の泥。
重力反転のたび、同じ側から降りた人。
泥は四種類。
「船外へ出た」とハル。
「異なる潮刻の外板土」とエリア。
「測量員の可能性」
三番寝台には、枕の下へ薄い金属板。
熱を逃がす医療板。
裏へ刻まれた文字。
『眠れない時、三日目を朝と呼ばない』
「誰が」とハル。
「署名なし」
「言葉は人」
「はい。筆記装置の刻印ではない」
四番と五番は、毛布が早い時期から畳まれたまま。
繊維の皮脂が少ない。
「最初の二艇と一致するかもしれない」とセレナ。
「かもしれない」
「寝台と艇を結ぶ個人印がない」
六番は、長く使われた。
枕元へ木片。
地球の杉に似た匂い。
ハルの手が止まる。
「日本の?」
ノクスが嗅ぐ。
二本の尾が別方向へ向く。
古い木。
最近、機械に磨かれた油。
「材種は」とロロ。
「アステリアの水杉。地球由来とは断定できない」
「父さんの寝床?」
セレナは名簿を開く。
ソウジは一航程のみの臨時測量員。
固定寝台番号なし。
「臨時乗員用の寝台は十から十二」と言う。
「六じゃない」
「名簿上は」
「誰かと替わった可能性」
「ある。証拠はない」
ハルは木片を戻す。
木の匂いだけで、父の枕にしない。
十番寝台。
毛布の下へ折畳み板。
簡素な臨時寝床。
表面に、文字のような浅い傷。
日本語に見える。
読めない。
「記録室で見つけた紙片と同じ?」エリア。
「字形は近い」とセレナ。
「父さん」
「可能性」
「読める部分」
ハルは顔を近づける。
細かな古文書で目が疲れる。
線は削れ、一文字も完全ではない。
「『か』か『力』。次は……分からない」
「無理に読まない」とセレナ。
「写真」
「複写します」
「母さんへ送る?」カイル。
ハルは考える。
「今は送らない」
「理由」
「読めない傷を、父さんの言葉かもって送ったら、母さんが十五年分読む」
「期限を決める?」セレナ。
「船の救難が終わって、複写の鑑定結果が出たら。遅くても三日以内に、分からないまま送るか決める」
「記録」
「今度はして」
十一番寝台には、薬包が残る。
同じ薬が三種類の年代で補充されている。
「途中で外部補給を受けた?」
「自動調薬器が材料を替えた」とロロ。
「処方人数の記録は」
「最初三。後に二。一」
十二番寝台は、ほとんど使われていない。
代わりに工具傷。
「寝台を作業台にした」とバズ。
「最後の一人?」
「人数一の時期と傷の油が一致」
作業台の下に、折れた食器。
一人分。
皿ではない。
小さな金属杯。
縁へ歯形。
「誰かが最後までここで飲んだ」とハル。
「最後、というのは船内登録上」とセレナ。
「その人が最後に降りたかは」
「別の区画にいた者、食事登録を外した者がいた可能性」
「一人を最後の船長にしない」
「はい」
寝床の使用痕。
医療薬。
食事数。
救命艇架台。
四種類の記録は、完全には重ならない。
だからこそ、人々が一斉に消えたのではなく、異なる時期、異なる役割、異なる理由で船を離れたことが見えてくる。
「少なくとも三回」とセレナ。
「救命艇一・二。三から五。後期の六から九」
「十は事故か発進か不明。十一は残存。十二は分解」
「食事人数の減少は四段階」
「完全一致しない」とハル。
「人は帳簿どおりに降りない」とエリア。
「だから記録のずれが、人がいた証拠にもなる」
自動機械だけなら、人数と艇と寝床を同じ時刻へ揃える。
人が自分で選び、迷い、予定を変えたから、記録はずれた。
そのずれが、十五年前の生活の輪郭だった。
セレナは日誌の空白頁を開く。
三日目の途中。
一行分だけ、筆記装置が書かない箇所がある。
同じ位置。
反復するたび。
「空白が増えている」とエリア。
「最初は一行。後には半頁」
「書く人が減った?」
「筆記装置が参照する行動記録を失った」
空白の直前には、同じ文。
『第三測点。上方都市の灯を確認』
空白。
『帰投路、未成立』
最初の数回だけ、空白へ人の筆跡がある。
『救命艇一、二を上方へ』
次の反復。
『第三艇、測量員二名』
次。
『第五艇、医療班』
その後、文字が途切れる。
「上方」とハル。
「アビサでは時刻ごとに変わる」とエリア。
「当時の上方を復元します」セレナ。
星位。
潮刻。
船首角。
三つを重ねる。
エリアの地図槍が、頭上の海の一点を指した。
「現在は海面の向こう」
「何が」
「旧都市座標」
ニアの補助腕が、わずかに動く。
セレナは見逃さない。
「知っていますね」
「地図上は」
「名称」
「沈没都。旧名は記録が複数」
「終端議会との関係」
「当船の回収命令範囲を越える」
「命令範囲ではなく、あなたの知識を聞いています」
「回答拒否」
「理由」
「言えば、現在の救難判断へ不要な目的を混ぜる」
「誰の判断で不要と」ハル。
「私」
「それが駄目だって話を何回する!」ロロ。
ニアの補助腕が下がる。
「訂正。私が保有する情報は、旧都市が逆潮境界の観測拠点だったことまで。現状は未確認」
「父さんをそこで見た?」ハル。
「見ていない」
「会ったのは」
「この船の失踪後。別の場所」
「いつ」
「外界暦で十三年前」
「二年後」
「はい」
「父さんは船を降りた?」
「当時、そう言った」
「証拠」
「私の記憶のみ」
「記録は」
「ない」
「今の居場所」
「知らない」
「生きてるか」
「知らない」
知らない。
三回。
ニアは数字を使わない。
ハルの羅針盤の蓋が、一度。
二度。
三度。
四度目へ行きかけて止まる。
「分かった」
「信じる?」
「信じる話じゃない。証言として置く」
セレナが頷く。
「証言者ニア・ピクス。十三年前、凪野ソウジ本人を名乗る人物と接触。場所と状況は別途聴取。現在地、生死、オルロイ号離船時期を証明しない」
「冷たい書き方」とカイル。
「熱を入れると、違う意味になります」
「だから助かる」とハル。
「証言の条件を確認します」とセレナ。
ニアが顔を上げる。
「接触時、あなたは負傷していましたか」
「軽度。左腿裂傷。発熱なし」
「睡眠」
「不明。少なくとも当直一回分は起きていた」
「相手が凪野ソウジ本人だと判断した根拠」
「本人が名乗った。地球文字の工具札。黒髪の左側に銀筋。逆針式の方位具」
ハルの右前髪にも銀筋がある。
似ている。
似ていることは、親子の証明にも、本人の証明にもならない。
「顔を知っていた?」
「事前資料で」
「資料を見た後なら、特徴へ誘導された可能性」
「ある」
「声の比較資料」
「ない」
「指紋、血液、誓紋」
「取っていない」
「会話内容に、資料から知れない個人情報」
ニアは一拍置く。
「地球の配送店。凪浜。息子が七歳。待たせた、と言った」
ハルの喉が動く。
「それも」とセレナ。「本人しか知らないとは限りません」
「はい」
「否定しないんだ」とハル。
「確率を上げる。確定ではない」
「会った時、父さんは帰るって言った?」
「言わなかった」
痛い答えだった。
希望をくれないからではない。
父が、帰ると言わないことを覚えた可能性があるから。
あるいは、帰る気がなかったから。
二つは同じではない。
「何て」
「『帰る道を作るまで、帰ると言わない』」
ハルは目を閉じる。
父らしいと思う。
そう思った自分を、証拠へ入れない。
「その台詞も証言」と言う。
「はい」セレナ。
「父さんの約束にはしない」
セレナは記録板を三列に分ける。
『確認済み』
『証言』
『不明』
確認済み。
十五年前の乗員名簿へ、凪野ソウジの名が一度。
証言。
十三年前、ニアが同名を名乗る人物へ接触。
不明。
オルロイ号を降りた時刻。
降りた場所。
現在地。
生死。
失踪目的。
「不明、多い」とカイル。
「多いまま持つ」とハル。
「重いぞ」
「勝手に答えを入れるより軽い」
ニアが三列を見る。
「私の記憶を、不明側へ移す可能性」
「新しい証拠が出たら」とセレナ。
「受け入れる」
「お前の記憶が否定されても?」ハル。
「事実なら」
「事実でも痛いだろ」
「痛みは判定を変えない」
「変えないのと、ないのは違う」
ニアは答えない。
数字も言わない。
ハルは追わなかった。
人の証言は、機械より弱いのではない。
弱い場所を明記できるという、別の強さがある。
会いたい。
殴りたい。
説明を聞きたい。
その三つは、父が生きている証拠ではない。
最後の救命艇架台は、十二番だった。
外板側に、発進痕がない。
しかし艇はない。
「内側へ移動した?」エリア。
「艇庫の裏に保守昇降路」とロロ。
「艇を船内へ?」
「分解搬送」
床へ細い車輪痕。
十五年前の油。
その上に、何百回もの清掃傷。
車輪痕は航海記録室を通り、船首の測量室へ続く。
測量室の壁に、救命艇十二番の船首板が埋め込まれていた。
「再利用」とバズ。
「部品として」ロロ。
「艇を飛ばさず、測量器へ替えた」
船首板の内側に、手書き。
『艇を一つ、帰路のために残すより、道を測るために使う』
署名はない。
筆跡は、ソウジの日本語ではない。
乗員日誌の誰とも一致しない。
「誰が」とハル。
「不明」とセレナ。
「父さんじゃない」
「現時点では一致しない」
「それでいい」
板の裏に、旧式の方位輪。
四方位ではない。
上。
下。
海側。
空側。
そして中央に、沈没都の刻印。
「最後の航路記録」とエリア。
方位輪を回す。
古い光が出る。
一筋。
頭上の海へ。
『最終離船案内――上方都市、第四水門』
機械音声。
次に、別の声。
十五年前の人間の録音。
『残る者は、次の潮刻で測量器を止めろ。船は戻らない。船を戻すな』
声は途中で切れる。
「誰」とハル。
「名乗っていない」セレナ。
「父さん?」
「音質劣化。比較試料不足」
「違うとも言えない」
「はい」
「じゃ置く」
ハルは音声へ近づかない。
声へ父を入れない。
声から父を追い出しもしない。
分からない場所へ、分からないまま置く。
それは待つこととは違った。
「作戦を決めます」とセレナ。
測量室の床へ、エリアの層図を広げる。
残り安全高度、一時間三十六分。
自動航路が次の三日目終端へ達するまで、一時間四十二分。
船体損傷が限界を越える予測、一時間二十八分から二時間。
「幅が広い」とハル。
「壊れ方は予定を守りません」ロロ。
「だから最短で考える」とニア。
「最短だけで決めない」とエメ。
「役割」とセレナ。
一本目。
「エリア。船内暦と外界星位を監視。重力反転の予告。能力限界を自分で申告」
「踵の連続展開、残り二十分。分割すれば四十五。左肺は高湿度区画で十分ごとに休止」
「ハル。船内経路と救助。零星針は使わない」
「使わない理由」
「問いが広すぎる。『父がどこにいる』は、証拠を一つへ寄せる危険がある」
「了解」
「左肩」
「片腕保持八秒。両手なら二十。全体重跳躍は補助索ありだけ」
「カイル。物理防護と撤退指揮。王盾炎は水路、燃料区画で禁止」
「痛み返し、盾三回。四回目は申告前に止めてくれ」
「申告しろ」と全員。
「善処する」
「却下」セレナ。
「三回で停止」エリア。
「はい」
「ロロ。帆、舵、船底の一動作修理」
「完全修理はしねえ。二本の補助腕で同時二系統まで。喘息出たら工具置く」
「置ける?」ハル。
「お前が奪え」
「頼んだ?」
「今のは契約」
「請求」
「あとで!」
「ニア。荷重線解析。断機は三鍵のみ」
「構造、監査、現場」
「現場鍵はロロ一人へ固定しない」とエメ。
「理由」
「姉弟の感情を制度にしない。各作業区の担当者」
「受理」
「エメ。圧力監査と停止鍵」
「必要なら全員を止める。記録を守るため人を残す案は拒否」
「バズ。手動弁、伝達、工具。残響は直前手順だけ。条件が変わったら再演しない」
「了解、つまり自分で見る。ただし、停止条件は各区で確認」
「ノクス」とハル。
ノクスが耳を向ける。
「匂い探索。無理なら戻る。俺が代わりに決めない」
「ノゥ」
二本の尾が一度だけ同じ向きへそろう。
「セレナは」とカイル。
「証拠回収、記録複製、退避順の監査」
「手首」
「精密筆記は左。重量物を持たない」
「言えたな」
「あなたに褒められる事項ではありません」
「褒めさせろ」
「拒否」
「ソムナの診療所みたいだ」
「拒否を失敗扱いしないでください」
セレナは最後に書く。
『撤退条件』
一、残り高度三千。
二、主骨三本以上の連続破断。
三、退路二系統のうち一系統喪失。
四、エメまたは現場担当が停止を宣言。
五、誰か一人が「もう無理」と言った場合、その人物を理由確認なしで退避させる。
「最後、広い」とニア。
「必要です」
「偽申告の可能性」
「退避後に確認する」
「作戦損失」
「拒否権の費用」
ニアは答えない。
ソムナの最初の患者が、遠い診療所で治療を拒んだ。
その拒否を成立させるため、食事と仕事と退出路が必要だった。
船でも同じである。
無理と言える規則だけでは足りない。
言った人を運ぶ手と、残った人が作業を引き継ぐ手が要る。
「作戦名」とバズ。
「要る?」ハル。
「要ります! 明確な名前は復唱しやすい!」
「十五年前の船を落とさない作戦」
「長い!」
「一回飛ばす」とロロ。
「作戦名?」
「目的」
「では作戦名は『一回飛ばす』」バズ。
「格好悪い」とカイル。
「分かりやすい」とエメ。
「採用」セレナ。
測量室の方位輪が回る。
沈没都の刻印が頭上の海へ向く。
最後の離船記録。
父がそこへ行った証拠ではない。
今も誰かがいる証拠でもない。
ただ、オルロイ号から最後に示された行き先だった。
船は時間を越えて来たのではない。
十五年かけて、終わらなかった三日を運んできた。
そして、その三日の出口だけが、頭上の沈没都を指している。