第619話 第十章「落下しながら修理」前編
修理には、未来形がある。
直した扉は、また開く。
継いだ橋は、また人を渡す。
洗った鍋は、また食事を作る。
だから修理工は、物の現在だけを見ていない。
次に何をさせるかを考えている。
ただし、すべての修理が未来を長くするわけではない。
一度だけ開く帆。
一度だけ曲がる舵。
一度だけ船底を支える梁。
使えば終わる修理もある。
それは修理なのか、という問いに、職人はたいてい答えない。
動いた時の音を聞いてから、請求書を書く。
【現実/オルロイ号・中央機関脊/覚醒/作戦「一回飛ばす」開始】
「名前、やっぱ格好悪い!」
「今さら言うな!」
「復唱するたび士気が!」
「士気で船が飛ぶなら帆いらねえ!」
「了解、つまり帆が要る!」
「そういう意味じゃねえ!」
バズの声が、機関脊へ反響する。
オルロイ号の中央には、魔法なしで回す手動機関〈クランク・ハート〉があった。
心臓という名のわりに、優雅さはない。
直径三メートルの鉄輪。
左右へ四本ずつ伸びた把手。
踏み板。
歯車。
圧力弁。
人が押す。
人が踏む。
人が汗を流す。
誓星術も星脈炉も使えない時、船の最低限の舵と弁を動かすための、古い古い機関だった。
クランク・ハートには、古い階級表が刻まれていた。
『一番把手 機関長』
『二番 上級水夫』
『三番 下級水夫』
『四番 臨時労役』
同じ輪を押すのに、把手ごとに身分がある。
「一番が一番軽い」とロロ。
「本当か」とカイル。
「歯車比が違う。機関長は指示しながら回すから負荷八割。四番は一・三倍」
「公平ではない」とハル。
「当時は、責任が重い者は手の負担を軽くするのが合理的とされた」とセレナ。
「責任で筋肉が増えないから?」
「指揮を止めないため」
「でも下の人が先に疲れる」
「疲れた者は交代要員と考えられた」
「人を部品扱いした設計」とエメ。
カイルは一番把手へ置かれていた王家用の赤帯を外す。
「では、把手を交代で回す」
「歯車比は変わらない」とニア。
「人が変わる」
「効率低下」
「誰か一人が先に壊れるよりよい」
カイルは四番把手へ立つ。
「王子、そこ重い」とハル。
「だから試す」
「自己犠牲へ行くな」とセレナ。
「一周だけだ。重さを知らずに交代表を決めない」
四番を一周。
カイルの肋部が引きつる。
「重い」
「見れば」とロロ。
「見るのと押すのは違う」
エリアが歯車比と各人の身体制限を表へする。
軽い一番には、左肩を固定したハルと右手首を使えないセレナ。
二番にはエリア。
三番にはバズ。
重い四番には、短時間だけカイルとニアの補助腕。
「身分順を、現在の身体条件順へ書き換える」とエリア。
「毎回更新」とエメ。
「誰かが痛みを申告したら」
「把手を変える」
古い機関の鉄輪は同じまま。
押す人の順序だけを変える。
制度改訂は、大きな機械を一晩で作り直すことだけではない。
誰が重い把手へ固定されているかを見て、交代できるようにすることから始まる。
「十五年前でも旧式」とニア。
「今は最新」とロロ。
「意味が」
「動く機械が最新。動かねえ新品は置物」
「耐久、十二分」
「十二分あれば高級」
「必要時間、十八」
「六分は人間が埋める!」
「人間は部品ではない」とエメ。
「比喩!」
「比喩で扱いが変わる」
ロロは機関図を床へ広げた。
紙ではない。
古い帆布へ、油と煤で描いた。
中央にクランク・ハート。
上に主帆展開線。
前に舵索。
下に船底縦梁。
四本目として退路。
エメが自分の古い区画鍵を置く。
「停止鍵、ここ」
バズが一本の安全索を置く。
「伝達線」
エリアが地図針を置く。
「潮刻予告」
セレナが証拠札を置く。
「記録搬出」
カイルが盾籠手を置く。
「防護」
ハルが赤いマフラーの端を置く。
「人」
「何の記号」とニア。
「置いていかない印」
「記号として曖昧」
「だから誰かが見て決める」
「機械図へ感情を入れるな」
「人が動かす図から人を消すな」とロロ。
ニアの六本の補助腕が静止する。
エメが言う。
「三鍵を確認する」
構造鍵。
監査鍵。
現場鍵。
「切断候補一。自動修理主環から帆展開系へ戻る逆流線」とニア。
「構造」とロロ。「切れば帆の修理材を一回分だけ帆柱へ回せる。二回目はねえ」
「監査」とエメ。「切断後、食料保存と暖房が止まる。船内に残る時間、最大二十分」
「現場」とバズ。「帆柱区画、俺。切断点を確認。退路二本」
「許可」三人。
ニアは断機を構える。
荷重線を一本だけ切る術〈カットオフ〉。
白い線が空中へ浮かぶ。
対象は鉄ではない。
鉄を通っている力のつながり。
船の重さが、どこからどこへ渡されているか。
どの弁が、どの弁を引きずるか。
その一本を見つける。
ニアは切断前に、対象の正常音を一度鳴らす。
低い三拍。
「戻らない」と言う。
「分かってる」とロロ。
「確認」
「分かってる!」
刃が閉じる。
白線が切れた。
帆柱区画へ圧力が走る。
同時に、ニアの右手がわずかに震える。
「触覚」とエメ。
「右二指、低下。作業継続可能」
「温度確認」
エメが冷たい金具と温かい金具を渡す。
ニアは指でなく補助腕の振動計へ当てる。
「冷。温」
「指で」
「不明」
「記録。次の切断まで最低六分」
「残り時間」
「六分を払え」
「受理」
「六分が惜しい顔をするな」
「顔は証拠ではない」
「その台詞、流行ってんのか」とハル。
「顔で決められた人間が多いからです」とセレナ。
「急に重い」
「船も重い」とカイル。
「王子、把手へ!」ロロ。
クランク・ハートが回る。
カイル。
ハル。
バズ。
セレナ。
四人が一列に把手を押す。
「なぜ私まで」とセレナ。
「重量物を持たないだけで押せるって言った!」
「精密な区別ですね!」
「褒めんな、回せ!」
セレナの右手首は使わない。
左肩と腰で押す。
ハルは左肩へ補助帯。
右手と脚で回す。
カイルは痛み返しのある肋部を避け、左腕主体。
バズは勢いを出しすぎる。
「速い!」エメ。
「速い方が圧力――」
「規定回転を越えるな!」
「ニアさんなら」
「私なら止める」とニア。
バズの足が止まりかける。
「止まるな!」ロロ。
「どっち!」
「速度落とせ、回転は続けろ!」
「了解、つまり――」
「復唱より足!」
鉄輪が鳴る。
歯車が主帆展開器へ力を送る。
その先で、ロロが帆柱の修理を始めていた。
【現実/オルロイ号・主帆柱区画/覚醒/残り安全高度七千八百】
帆柱は、半分なかった。
十五年の反復で、同じ箇所へ修理材を足し続けた結果、外側だけ太く、芯は空洞になっている。
「病気の骨みてえ」とハルの伝声管。
「医者みたいに言うな」ロロ。
「褒めた?」
「言ってねえ!」
ロロは空洞へ腕を入れる。
二本の補助腕。
左手。
右手。
四本。
本来なら六本で行う仕事。
夢灯火災で失った二本分を、手順で埋める。
一本目、固定。
二本目、照明。
左手、接合材。
右手、工具。
工具へ直前の作業手順を残す残響〈リプレイ・ツール〉を使えば、一手を自動で繰り返せる。
バズが工具を差し出す。
「残響を入れます?」
「入れねえ」
「同じ締結が十六本」
「同じに見えるだけ。芯の厚さが一本ずつ違う」
「でも直前手順なら」
「判断まで残らねえ」
バズは工具を引く。
以前なら、ニアならどうするかを聞いた。
「俺が厚みを読みます」
「何で」
「自分の目で」
「遅いぞ」
「停止条件は、芯厚二ミリ未満。異音。俺の過換気」
「最後、言えるか」
「言います」
「じゃ来い」
バズは狭い帆柱へ入る。
三本の安全索を別々の梁へ結ぶ。
一本多い。
「三本も要る?」
「二本切れても一人で残らないためです」
「一人で残らねえなら、三本目は俺につなげ」
「ロロさんへ?」
「さん付けすんな。偶像にすんな。俺が落ちたらお前も引け」
「了解、つまり相互索。ただし、どちらが先に退避判断を」
「どっちでも」
バズが固まる。
「曖昧」
「だから言った方。先に言えた方が勝ち」
「退避が勝ち?」
「生きて次を直せる」
バズは相互索を結ぶ。
帆柱の内側に、古い指跡が残っている。
油まみれの手。
十五年前の作業者。
その上へ、機械腕の同じ三本傷。
ロロは指跡を避けて接合材を置く。
「残す?」
「邪魔じゃねえ」
「証拠だから?」
「人が触った場所だから」
「感情」
「修理判断」
「ニアさんみたいに言う」
「やめろ!」
声が裏返る。
嘘をつく時、専門用語が減る。
バズはそれ以上言わない。
船体外では、エリアが路図を展開していた。
オルロイ号の周囲を、逆潮の巨大落水柱〈フォール・シー〉が横切る。
海が柱になって落ちる。
落ちる方向は、船の現在の下とは直角。
青い水壁が迫る。
「接触まで五十二秒!」
「帆、まだ!」ロロ。
「回避路を描く」とエリア。
「踵」とハル。
「残り連続十二分」
「今何分」
「四」
「八で交代」
「誰と」
「俺が走って伝える」
「地図を描く交代にはならない」
「線を持つ」
ハルはグリムリリーから伸びた光線を安全索へ結ぶ。
地図は読めない。
だが、一度走った船外板の段差を覚えている。
「この線、帆柱から舵室まで」
「潮刻後に床が変わる」
「変わったら、壁の三つ目の鋲を足場にする」
「なぜ分かる」
「さっき蹴った」
エリアの淡緑の瞳が細くなる。
「頼みます。線を途切れさせないで」
「任せて」
命令ではない。
エリアは路図を一層閉じる。
踵への負担を減らす。
ハルが光線を持って走る。
オルロイ号の外板。
頭上に海。
横から落水柱。
下に雲海。
三つの落下が同時に迫る。
「一!」
小声で数える。
「二!」
左肩を回さない。
「三!」
跳ぶ。
右手で鋲。
左足で外板の継ぎ目。
左手は光線だけ。
全体重を預けない。
「ハル、次の重力反転まで九秒!」エリア。
「七で言って!」
「七秒前です!」
「今七!?」
「質問の時間が!」
「分かった!」
外板が天井になる。
ハルは落ちる。
自分が走ってきた線へ。
光線が安全索になって腰を受ける。
左肩へ衝撃。
「痛み!」
「四!」
「十段階?」
「そう!」
「継続可能?」
「走るだけなら!」
言葉が短い。
正確ではないが、隠してはいない。
エリアが地図を更新する。
フォール・シーの水壁が船腹へ触れた。
カイルが物理盾を外板へ打ち込む。
「王盾炎は使わない!」
「知っている!」
「肋骨!」セレナ。
「一回目!」
「何が」
「痛いと認めた回数!」
「数え方を変えるな!」
水圧が盾を押す。
カイルの背中の古い火傷が引きつる。
彼は深刻な時ほど冗談を言う。
「海に濡れるとは、船らしくてよい!」
「今までどこにいたと思ってる!」ハル。
「空!」
「そうだけど!」
落水柱が船を回す。
帆柱区画のロロが叫ぶ。
「接合材、流れる!」
「遮水板!」バズ。
「残響使うな!」
「使いません。俺が押さえる!」
バズは自分の身体を板へ当てる。
閉所。
水音。
呼吸が速くなる。
「バズ」とロロ。
「平気、平気、平気――」
「三回言った。止めるぞ」
「まだ」
「停止条件、自分で言ったろ」
「過換気。でも作業が」
「俺が引き継ぐ」
「二本足りない!」
「足りねえから助けろ。中じゃなく外から板を押せ」
バズは一瞬迷う。
退避する。
相互索がロロの腰を引く。
「引っ張るな!」
「一人で残らないためです!」
「俺は残る!」
「どっちでも言った方が勝ち!」
「俺の台詞で殴るな!」
二人とも半歩ずつ退く。
板を挟んで、内と外から押さえる。
接合材が固まる。
「帆柱、第一動作まで三分!」
クランク・ハートが軋む。
鉄輪の耐久は、残り七分。
必要時間は、まだ十二分。