第620話 第十章「落下しながら修理」後編
【現実/オルロイ号・中央機関脊/覚醒/クランク・ハート限界まで七分】
鉄輪は、人間に公平だった。
王子の手でも、星律官の肩でも、異世界の少年の脚でも、同じだけ押さなければ同じだけしか回らない。
身分を区別しない機械は公平に見える。
ただし、古傷も体格も休息も区別しない。
区別しないことが公平とは限らない。
「交代!」エメ。
「まだ回せる!」カイル。
「肋部の呼吸が浅い」
「見えるのか」
「圧力で痛む」
「便利だな」
「便利と言うな」
カイルが把手を離れる。
代わりにニアの補助腕二本が入る。
「本人は休止中」とエメ。
「補助腕は」
「身体の一部」
「荷重は許容」
「お前が決めるな。三分」
「受理」
セレナも交代する。
右手首が赤い。
代わりにエリアが入ろうとする。
「踵」とハル。
「押すのは腕」
「床が変わる」
「腰帯で固定」
「肺」
「湿度区画を出た。四分可能」
「正確」
「あなたが求めた」
エリアが把手へ立つ。
ハルと並ぶ。
「地図は」
「一層を自動追随へ。三十秒ごとに私が確認」
「自動って信用していい?」
「信用ではなく監査します」
「好きだな、その言い方」
「何を」
「間違っても戻って見られる感じ」
エリアの右眉が上がる。
「作業中に曖昧な感想を増やさないで」
「褒めた」
「聞いていません」
把手が一周する。
二人の肩が近づく。
次の半周で離れる。
船が回っているのか、人が回っているのか分からない。
それでも同じ輪を押す。
同行とは、たいていこの程度の物理から始まる。
クランク・ハートの第三歯車が欠けた。
乾いた音。
ロロは帆柱の中から聞き分ける。
「止めろ!」
全員が押すのをやめる。
鉄輪だけが惰性で回る。
「歯一枚!」バズ。
「予備」とハル。
「十五年前に使い切ってる!」
「作れる?」
「時間!」
ニアが図面を走査する。
「修理装置の搬送歯車と同規格」
「外したら自動修理が一系統止まる」とエメ。
「どうせ止める」
「今止める場所を決める」
ロロが伝声管越しに言う。
「記録室の修理腕」
セレナが顔を上げる。
「理由」
「記録室は複製済み。船底修理腕を残す」
「日誌原本は」
「搬出箱に入れた」
「機械筆記装置」
「残す価値あるけど、人より下」
セレナは一秒考える。
「同意」
「惜しくない?」ハル。
「惜しいです」
「なら言っていい」
「惜しい。ですが外す」
証拠を守る者が証拠を切る。
矛盾ではない。
証拠は、誰かが生きて読めるから証拠になる。
バズが記録室へ走る。
「残響を使えば取り外しが速い!」
「前回と圧力条件が違う」とエメ。
「分かっています」
「では」
「使わない。俺が見る」
「停止条件」
「固定爪二本のうち一本変形。配線温度四十。自分の呼吸」
「行け」
バズは走る。
工具へ直前の動作を残せる。
だが、直前の正しさは現在の正しさを保証しない。
人が判断し、工具は手順を助ける。
順序を逆にしない。
【現実/オルロイ号・船底縦梁/覚醒/残り安全高度五千二百】
船底は、現在の上にあった。
エメは配管を歩く。
左手の欠けた二指が、存在しない金具の冷たさを訴える。
ロード・ペイン。
圧力差を自分の痛みとして感じる監査術。
右腿の古い金属片が重くなる。
「縦梁四、外側へ逃げてる」
「図では内側」とニア。
「図が古い」
「計器は」
「正常」
「矛盾」
「正常値へ戻す補正が、実荷重を隠してる」
十五年、船は正常を演じ続けた。
計器まで、正常という役を与えられている。
「切断候補二」とニア。
「言え」
「補正線を切る。実荷重が計器へ出る」
「船底支持が落ちる可能性」
「一・八秒」
「その間に何を」
「ロロの再機で縦梁を現状へ固定」
「ロロは帆柱」
「呼ぶ」
「誰が代わる」
ニアは黙る。
六本の補助腕。
ロロより多い。
だが、再機は使えない。
壊れたものへ「元の形」を押しつけず、今ある部材から次の一動作を作る技術は、腕の数では代われない。
「帆を終えてから」とエメ。
「高度が」
「待つ」
「全損確率が十三上がる」
「人の交代なしに数字を下げるな」
「……受理」
エメは冷めた茶の小瓶を飲む。
ニアが見る。
「肺」
「お前が聞くな」
「監査員の継続可否」
「咳二回。右腿痛六。判断はできる」
「記録」
「感謝するな」
「していない」
「する顔もするな」
「顔は」
「証拠じゃない。知ってる」
エメの笑い声が一瞬だけ高く漏れる。
本人はすぐ顔をしかめた。
「今の記録したら殴る」
「記録しない」
「それは証拠隠滅」とセレナの伝声管。
「聞いてたのか!」
歯車が届く。
バズの右前腕の火傷が赤い。
「自分で外した?」
「はい」
「残響なし?」
「なし」
「判断」
「固定爪一本が変形したので、予定と逆側から抜きました。配線温度三十七。呼吸は戻ってます」
「誰の判断」とロロ。
「俺の」
「採用」
バズの顔が明るくなる。
「ただし歯面に傷。磨け」
「はい!」
「褒められたと思うな!」
「思います!」
「勝手にしろ!」
交換。
鉄輪が再び回る。
帆柱へ力が届く。
ロロは最後の接合環を締める。
「帆、一回開く!」
「二回目は」とハル。
「聞くな!」
「確認!」
「ねえ! 開いたら折れる! 閉じても二度と開かねえ!」
「一回、何分」エリア。
「風圧次第で四十秒から三分」
「幅」
「十五年物へ保証書求めんな!」
主帆展開索を、クランク・ハートへ接続する。
まだ開かない。
一回を使う時刻は、最後に決める。
「帆完了。次、舵!」
ロロが帆柱から出る。
咳。
一回。
二回。
三回目を飲み込む。
ハルが工具を取る。
「返せ!」
「契約」
「俺が言ったのは喘息出たら!」
「出た」
「二回!」
「三回目、飲んだ」
「聞こえた?」
「胸で」
「気持ち悪い能力みたいに言うな!」
「休み三分」
「舵が」
「ニアが測る。バズが準備。お前は指示」
ロロの補助腕が二本とも上がる。
怒り。
それから片方が下がる。
「二分」
「三」
「二半!」
「採用」
「値切られた!」
「俺が値切った!」
ロロは床へ座る。
ハルが水筒を置く。
届く距離。
ロロは今度、すぐ飲んだ。
舵室の床は、船外へ開いていた。
舵輪は残っている。
舵索がない。
十五年の自動操舵で、同じ右転舵と左復帰を何千回も繰り返し、索が繊維の粉になっていた。
「一本でいい」とロロ。
「往復できない」とニア。
「一度切る。戻さねえ」
「どちらへ」
エリアの外界図が届く。
フォール・シーを抜け、安全高度へ入るための角度。
「海側へ二十七」
「現在の海側は八秒後に変わる」とエリア。
「じゃ八秒後の海側」
「言葉が危険」
「線でくれ!」
光線が舵輪へ結ばれる。
「この方向」
「分かる!」
ロロは古い救命艇の索を切り出す。
「証拠品」とセレナ。
「十二番艇の残索じゃねえ。十番の切断索」
「それも証拠」
「採取済みだろ」
「済み」
「なら使う」
過去の離船に使われた索が、現在の舵になる。
歴史資料は保存されるだけではない。
時に、次の事故を止めるため再び荷重を受ける。
「舵索、一回分」
「切れたら」バズ。
「舵は固定」
「角度が違ったら」
「船ごと違う方へ行く」
「明確で怖い!」
ロロが笑う。
「だから地図屋がいる」
エリアの声。
「だから修理工がいる」
一瞬。
ロロの補助腕が止まる。
褒められたか聞かない。
「寸法、あと三ミリ」
「一・二」
「細けえ!」
「正確です」
「好き!」
言ってから、全員が黙る。
「寸法が!」ロロ。
「誰も何も言ってません」エリア。
「言え!」
「作業を」セレナ。
舵索がつながる。
船底縦梁。
最後の一動作。
ロロは二分半の休止を終え、ニアと向かい合う。
「補正線を切る」とニア。
「一・八秒、実荷重が落ちる」
「その間に再機」
「俺一人じゃ間に合わねえ」
「補助腕を貸す」
「お前の腕はお前の判断で動く」
「命令を受ける」
「命令じゃ遅い」
「同期する」
「俺の動きを?」
「予測」
「勝手に」
「許可を求める」
ロロが姉を見る。
十五年前、助けを呼ぶと言って出た背中。
戻らなかった背中。
今は六本の機械腕を持ち、許可を聞いている。
許せない。
必要だ。
二つは同時に存在できる。
「俺の手を追うな。梁を見ろ」
「了解」
「触覚なくなったら言え」
「右二指は低下中」
「今言えたな」
「作業条件」
「それでいい」
エメが三鍵を置く。
「構造」
「ロロ」
「監査」
「私」
「現場」
バズが手を挙げる。
「俺」
「ニアじゃない?」ハル。
「切る人は鍵を持たない」とエメ。
「自分へ許可を出させない」
「そう」
バズが切断点を見る。
配管。
荷重線。
退路。
「条件。ロロが梁へ接触。エメの圧力値が五十以下。俺が白線と生命線の分離を確認」
「生命線へは切れない」とニア。
「術の条件でも、目で確認する」
ニアがバズを見る。
英雄を見る青年ではない。
鍵を持つ現場工。
「採用」
白線が浮く。
正常音、三拍。
「許可」
三人が言う。
刃が閉じる。
補正線が切れる。
船底が落ちた。
一・八秒。
長い。
ロロの再機〈リメイク〉が発動する。
壊れた梁へ、過去の完全な形を戻すのではない。
現在ある鉄片。
救命艇の骨。
食堂から回収した椅子脚。
記録室の棚。
ばらばらの部品へ、次の一度だけ荷重を渡す役割を与える。
「左!」
ニアの補助腕二本が梁を支える。
「上!」
二本が救命艇骨を押す。
「下、違う、今の下!」
残り二本が動く。
ロロの左右の手が接合点を作る。
補助腕二本が固定。
合計十本。
姉弟の腕が同じ梁へ触れる。
一・二秒。
「圧力四十九!」エメ。
一・五。
「固定!」バズ。
一・八。
船底が止まる。
再機の光が消える。
梁は美しくない。
椅子脚が斜め。
棚板が外へ出る。
救命艇骨には古い番号。
だが、一度だけ船を支えられる。
「三動作、完成」とロロ。
帆。
舵。
船底。
「退路」とエメ。
残っている。
二本。
ゼロスター号への接舷索。
ニアたちが来た保全艇への索。
「全員配置へ」とセレナ。
その時。
オルロイ号の自動航路が三日目の境界へ達した。
予定より早い。
「なぜ!」エリア。
「落下で測点を短絡した」とニア。
「始点復帰まで」
「九十秒」
クランク・ハートの鉄輪が悲鳴を上げる。
帆を開く時刻。
「まだフォール・シーの中!」エリア。
「待てば自動復帰」ロロ。
「今開けば水圧で帆が裂ける」
「どっち!」バズ。
ニアの六本の補助腕が、別々の線を指す。
自動航路。
帆。
舵。
船底。
退路二本。
「残せる数を言って」
「全部」とハル。
「根拠なし」
「人は全部」
「船は」
「飛ばす」ロロ。
「退路を一本使って帆への荷重を逃がす」とニア。
「どの一本」エメ。
ニアは答える。
「私の保全艇」
「切れば」
「艇はフォール・シーへ流される」
「ニアの退路がなくなる」とバズ。
「ゼロスター号側を残す」
「全員が通れる時間はない」とセレナ。
「私一人分を減らす」
「拒否」とエメ。
「監査鍵なし」
「時間」
「九十秒あっても三鍵を待て」
「八十一」
「待て」
ニアの指先は、触覚を失っている。
髪のボルトへ触れる。
回したか、自分で分からない。
彼女の中で、古い判断が立ち上がる。
全体を残すため、一部を切る。
自分を一部へ置けば、正しいように見える。
自己犠牲は、同意を省く最短路にもなる。
「構造鍵、私」ニア。
「持つな!」ロロ。
「現場鍵、私」
「持つな!」
「監査鍵――」
「ない!」エメ。
ニアの刃が開く。
白い線。
保全艇への荷重線。
「やめろ!」
ロロが飛びつく。
補助腕が二本足りない。
ニアの六本が彼を止める。
一瞬だけ。
それで十分だった。
正常音、三拍。
「許可なし」とエメ。
「記録」
「記録するな、止まれ!」
「船を残す」
「お前を残すって誰が決めた!」ロロ。
刃が閉じた。
保全艇への荷重線が切れる。
接舷索が白く燃え、フォール・シーへ吸い込まれる。
ニアの脱出路が消えた。
同時に、逃がされた荷重が主帆展開器へ流れた。
「帆、開く!」ロロ。
オルロイ号の古い主帆が、十五年ぶりに一度だけ空へ広がる。
水壁を受ける。
船体が激しく回る。
ニアは切断反動で両手の感覚を失い、船外へ投げ出された。
残った退路は、ゼロスター号への一本だけ。
そこから最も遠い場所へ。