第621話 第十一章「誰もいない航海」前編
船は、人がいなくても進む。
風が帆を押す。
潮が船体を運ぶ。
下り坂では荷車も勝手に走る。
人がいないから止まる、というのは、人間が自分を機械の中心だと思いたい時の物語である。
無人の船は、むしろ止める者がいない。
命令を訂正する者。
天候を見て予定を変える者。
食卓の空席を数え、今日は作らなくてよいと言う者。
誰もいない航海に欠けるのは、推進力ではない。
やめる判断だった。
【現実/オルロイ号・船外主帆区画/覚醒/主帆展開から三秒】
「ニア!」
ロロが名を呼んだ。
姉ちゃんではない。
主任機関士でもない。
切断派でもない。
本気で助けてほしい時、ロロは工具名を言わず、相手の本名を呼ぶ。
ニア・ピクスは船外へ投げ出されていた。
六本の補助腕が開く。
つかむものがない。
フォール・シーの水壁が、彼女の濃青緑の外套を横へ引く。
切断反動で指先の触覚は消え、背部接続へ過荷重。
保全艇への退路は、自分で切った。
ゼロスター号への接舷索は、船体反対側。
「距離!」ハル。
「二十八、増加!」エリア。
「相対速度!」
「海側へ十二!」
「海側って今!」
「青線!」
グリムリリーから一本の光線が伸びる。
ニアへ届かない。
「ハル、待て!」カイル。
待てと言われる前に、ハルは赤いマフラーを腰索へ結んでいた。
「補助索!」
「一本!」
「二本要る!」
「ない!」
「では飛ぶな!」
「代わり!」
ハルが叫ぶ。
「俺の左肩を持つ代わり!」
カイルが意味を理解する。
右の盾籠手で接舷環。
左手でハルの腰帯。
「八秒だ」
「片腕は!」
「私が持つ!」エリア。
路図を一本閉じ、左手でハルの補助索。
両踵が痛む。
左肺が水霧で狭い。
「私の保持、十二秒」
「カイル八、エリア十二。合計二十?」
「足すな!」二人。
「同時なら短い方!」
「分かった!」
ハルは羅針盤の蓋へ触れない。
零星針を使えば、失われたものを指すかもしれない。
だが、今のニアは失われていない。
見えている。
距離もある。
手も届く。
必要なのは問いではなく、跳躍だった。
「一」
主帆が水を受ける。
「二」
船体が回る。
「三!」
跳ぶ。
ハルの身体が、青線へ沿って船外へ出る。
上も下もない。
水壁が横。
雲海が足元。
頭上の海が背中。
ニアの補助腕が見える。
二十メートル。
十五。
「ハル、潮刻まで五!」エリア。
「先に!」
「今が五!」
「また!?」
重力が反転する。
ハルの軌道が折れる。
ニアが下へ落ちる。
下は、さっきまでの船首。
「届かない!」カイル。
「線を曲げる!」
エリアが地図槍を振る。
路図は人を運ぶ力ではない。
進める経路を示すだけ。
ハルは光線を見る。
外板から突き出た壊れた測量翼。
そこへ足を着く。
一瞬。
蹴る。
左肩へ索の衝撃。
「痛み!」
「六!」
「継続!」
言えた。
ニアまで三メートル。
彼女の補助腕一本が伸びる。
ハルの右手を通り過ぎる。
「見えてる!?」
「距離計は。指の感覚なし」
「腕でつかめ!」
「あなたの肩を損傷する」
「誰が今、計算頼んだ!」
「救助後の行動損失」
「お前一人で決めるな!」
「船を残すため」
「船に聞いたか!」
「船は」
「人にも聞いてねえ!」
ハルが赤いマフラーを投げる。
布がニアの補助腕へ絡む。
「つかめ!」
「触覚が」
「補助腕の距離計で!」
「引けば、あなたの左肩へ」
「カイルとエリアが持ってる!」
「二人の負荷が」
「二人が決める!」
船側からカイルの声。
「決めた! 引け!」
エリア。
「残り六秒。戻る線は描いた!」
ニアの補助腕がマフラーを巻く。
ハルの右手が、ニアの作業外套をつかむ。
重い。
六本の工具架込みで八十四キロ。
左肩の安全索が引かれる。
「一、二――」
三が出ない。
助けを求める時。
「引いて!」
初めて、具体的に頼む。
カイルが腰を落とす。
エリアが索を巻く。
セレナが補助滑車を固定。
バズがクランク・ハートの余剰索をつなぐ。
エメが圧力を読む。
「カイル、肋部七!」
「まだ!」
「エリア、踵!」
「九。あと四秒!」
「ハル、肩!」
「七!」
「誰か止めろ!」ロロ。
「今止めたら二人落ちる!」
「分かってる!」
ロロは二本の補助腕で滑車を回す。
足りない二本分を、バズの左右の手が埋める。
「手順!」バズ。
「俺を見ろ!」
「残響は」
「使うな!」
「了解!」
ニアの身体が外板へ届く。
補助腕一本が縁をつかむ。
感覚はない。
距離計だけで保持する。
「離すな!」ロロ。
「保持」
「言わなくていい!」
「指示」
「そうだよ!」
全員で引く。
ニアが船内へ転がる。
ハルも外板へ叩きつけられる。
左肩が鳴る。
抜けてはいない。
痛い。
「ハル!」
「八。動く」
「固定!」エリア。
「飛ばす作業が」
「左腕を使わず走る」
「頼み方」
「固定して。それから走らせて」
「分かりました」
エリアが補助帯を締める。
ニアは床へ伏せたまま、ハルを見る。
「救助による損失」
「最初の台詞がそれ?」
「左肩の作業能力、三割低下」
「殴るぞ」
「右手で」
「そういう返しできるなら生きてる」
ロロが来る。
補助腕は二本とも上がっている。
拳は上げない。
「何で切った」
「帆を残すため」
「何で自分を切った」
「最小損失」
「誰にとって」
「全体」
「全体の中にお前入ってねえのか!」
ニアは答えない。
「俺が入れろって言ってんじゃねえ。自分で勝手に抜けるな!」
「私を入れれば、他の誰かが」
「それを一人で決めんな!」
ロロの声が裏返る。
喘息ではない。
怒り。
恐怖。
「十五年前も、そうやって出たのかよ」
ニアの六本の補助腕が、一本ずつ床へ降りる。
「助けを呼ぶと決めた」
「俺に聞かず」
「六歳だった」
「だから何だ!」
「選ばせれば、一緒に残ると言った」
「言ったかもしれねえ!」
「死ぬ」
「それでも説明しろよ!」
船が大きく傾く。
主帆が裂け始める。
話の続きは、また切られる。
だが今回は、誰かが消えることで終わらせない。
「あとで」とハル。
「あとがある?」ニア。
「作る」
「根拠」
「今、全員でお前を戻した」
「一例」
「一例で十分。次も相談する」
「非効率」
「生きるの、だいたいそう」
エメがニアの前へ膝をつく。
「両手」
「感覚なし」
「補助腕」
「距離計二本。四本は停止」
「背部」
「痛み七」
「作業継続不可」
「圧力図は読める」
「口で読め。刃は持たない」
エメは次にハルを見る。
「左肩」
「八。固定すれば走れる」
「跳ぶな」
「必要なら」
「必要を一人で決めるな」
同じ言葉を、ニアとハルへ向ける。
自己犠牲は性格が違っても、周囲から決定権を奪う点で似ている。
「記録」とセレナ。
『断機単独発動。監査鍵なし。本人退路の切断。救助者二名、補助者六名へ追加負荷。船体保全へ効果あり』
「最後を書くのか」とロロ。
「効果を消せば、責任追及のため事実を曲げます」
「英雄扱いされる」ニア。
「効果だけ切り取れば」
「では失敗と」
「それも違う」
セレナは続ける。
『同一効果を得る代替案の検討時間を、本人が省略。本人の生存を損失へ含めず。共同条件へ違反』
ニアは記録を見る。
「処分」
「今は作業停止。後で審査」
「船を救えば免除」
「しません」とカイル。
王太子の声は小さい。
冗談がない。
「功績と違反を相殺しない。どちらも残す」
「私を必要とする間、処分できない」
「必要だから監査する」とエメ。
「必要でなくなってから罰するのは、使い終えた道具を捨てるのと同じだ」とロロ。
ニアは弟を見る。
「庇う?」
「違う。逃がさねえ」
「どちらから」
「英雄にも悪魔にも」
ニアは一度、目を閉じる。
「了解」
「受理じゃない」
「……従う」
刃を持たないこと。
数字を口で伝えること。
救助された身体を、作戦から勝手に消さないこと。
それが、彼女へ与えられた次の仕事だった。
ハルは立つ。
左腕を胸へ固定。
「帆は開いた。次は舵」
「船底も一回」ロロ。
「クランク・ハート、残り二分!」バズ。
「全員、配置!」セレナ。
誰もいない航海へ、初めて複数の判断が戻る。