第622話 第十一章「誰もいない航海」後編
【現実/オルロイ号・全船作業/覚醒/自動航路始点復帰まで四十三秒】
「舵は八秒後!」エリア。
「八秒後の何!」バズ。
「潮刻! 現在の海側が船尾へ移る!」
「分かりやすく!」
「舵輪の青線が金線へ重なった瞬間!」
「最初からそれで!」
「色を見られない人には使えない指示です!」
「俺は見える!」
「では復唱!」
「青が金へ重なったら舵!」
「角度!」ロロ。
「二十七度。戻さない!」
「了解!」
バズが舵輪へ立つ。
古い救命艇の索は、一本。
引けば舵は曲がる。
戻す索はない。
間違えれば、船は間違った方向を向いたまま落ちる。
工具へ直前の作業手順を残す残響が、バズの指先へ灯る。
彼は一度、光を見る。
「使う?」ロロ。
「使いません」
「理由」
「直前に舵を切った人がいない。残す手順がない」
「正解」
「でも、クランクへ使います」
「何で」
「回転条件が今、固定された。俺が一周、規定速度で回した。その一回を工具へ残せば、交代の空白を三秒埋められる」
「判断は」
「三秒後に切る。圧力が変わったら即解除」
「誰が解除」
「俺」
バズはニアを見ない。
自分の目で圧力計を見た。
「採用」とロロ。
「監査」とエメ。
「三秒のみ。再演中も本人が手を離さない」
「了解」
バズは舵輪へ残り、工具残響をクランク把手へ移す。
直前の一周だけが、鉄輪を押す。
魔法は判断を代わらない。
人が判断する三秒を買う。
「始点復帰、三十!」ニア。
床へ伏せたまま、彼女は数字を読む。
エメが背部接続を固定し、補助腕を二本だけ動作許可。
「断機は禁止」
「必要時」
「禁止」
「船が」
「お前が壊れて判断を独占する方が危険」
「監査根拠」
「さっき許可なく自分を切った」
「……受理」
「受理じゃなく、従え」
「従う」
ニアの声は低い。
補助腕二本で圧力図を更新する。
残る四本は床へ伏せたまま。
「船底支持、現在六十二。帆の水圧、九十七。舵角ゼロ」
「帆が先に死ぬ!」ロロ。
「あと二十秒」
「もたせる!」
ロロは主帆索へ走る。
ハルも続く。
「左腕は使うな」とエリア。
「右だけ!」
「右だけで何する」
「ロロを運ぶ!」
「本人へ聞いて!」
「ロロ!」
「運べ!」
「許可!」
「うるせえ!」
ハルはロロの腰帯を右手でつかむ。
小柄な修理工を、帆索の上段へ投げる。
左肩は固定。
ロロの二本の補助腕が帆索へ絡む。
「裂け目三!」
「直す?」
「直さねえ!」
「ロロが修理しない!」
「うるせえ! 裂け目を広げる!」
「逆!」
「水を抜く穴にする! 帆を残そうとしたら柱ごと折れる!」
修理しない決断。
ロロは裂け目へ刃を入れる。
帆布を切る。
ニアの断機ではない。
手工具。
一枚の帆に三本の逃がし口を作る。
水圧が抜ける。
「帆圧八十二!」ニア。
「下がった!」ハル。
「推力も下がる」とエリア。
「折れるより飛ぶ!」ロロ。
歴史上、帆を守るため船を沈めた船長はいる。
帆は高価で、船員は補充できると考えられた時代である。
ロロは逆を選ぶ。
帆を切り、船を残す。
物を直す者が、物を守るとは限らない。
次の一動作を守る。
「始点復帰、十五!」
「潮刻、十!」エリア。
数字が競走する。
どちらが先か。
三日目が一日目へ戻る前に、舵を切る。
潮刻が向きを変えたあとに。
「九!」
「始点十二!」
「八!」
「十一!」
「数字を一人にまとめろ!」カイル。
「潮刻、七。復帰、十!」セレナが統合する。
「六、九!」
「五、八!」
エリアの青線が動く。
金線へ近づく。
「四、七!」
バズの手が舵輪へ。
「三、六!」
「まだ!」
「二、五!」
青と金が重なる。
「今!」
バズが舵を引く。
救命艇索が張る。
舵輪が一度だけ回る。
二十度。
二十三。
索が裂ける。
「二十七まで!」ロロ。
「持たない!」
「身体を入れろ!」
バズは舵輪の把手へ肩を当てる。
右前腕の火傷が擦れる。
二十五。
索の繊維が切れる。
「停止条件!」エメ。
「まだ!」
「自分で決めた条件を言え!」
「索半数切断――今四割! 呼吸正常! 肩痛五!」
二十六。
「切断五割!」
「止めろ!」
「角度が!」
「止めて角度を残せ!」
バズは手を離す。
舵輪が戻ろうとする。
戻し索はない。
古い歯止めが一枚、噛む。
二十六・四度。
「不足〇・六!」
「許容!」エリア。
「本当に?」
「現在風圧なら!」
「現在が変わったら!」
「変わる前に飛ばす!」
舵は一度切られた。
二度目はない。
「始点復帰、三!」ニア。
クランク・ハートの鉄輪が止まりかける。
工具残響が三秒の再演を終える。
バズが舵から走る。
「俺が回す!」
「間に合わない!」
ハルが右手で把手。
エリアが反対側。
カイルが肋部を押さえながら戻る。
セレナが左肩を当てる。
「二!」
鉄輪が動く。
「一!」
自動航路が始点へ戻ろうとする。
オルロイ号の全装置が一日目を探す。
しかし舵は、十五年前の一日目にない角度へ固定されている。
帆は、三本の裂け目を持つ。
船底は、椅子と棚と救命艇骨で支えられている。
機械は、基準へ戻せない。
鐘が一日目を鳴らす。
何も戻らない。
制御装置が異常を宣言する。
『航路始点――不成立』
初めての言葉。
「四日目」とハル。
「暦表示はまだ一日目」とセレナ。
「でも初めての次」
「比喩としては許容」
「今だけ厳しくない!」
船が傾く。
舵角二十六・四度。
主帆の裂け目から水が抜ける。
フォール・シーの横圧を推力へ変える。
「船底支持、限界!」エメ。
最後の一動作。
椅子脚が曲がる。
棚板が裂ける。
救命艇骨が荷重を受ける。
再機で組んだ梁は、一度だけ船を支える。
「全員、船体中央へ!」セレナ。
「ロロが外!」ハル。
「戻る!」
ロロは帆索から滑る。
船が上向きへ転じる。
現在の上。
頭上の海へ近づく向き。
ロロの身体が反対へ投げられる。
「索!」
補助腕一本が帆柱へ。
もう一本が空を切る。
ハルは左肩を使えない。
右手でロロの相互索を取る。
その先にはバズもつながっている。
「三人分!」
「持つな!」エリア。
「一秒だけ!」
カイルが物理盾を床へ打つ。
左手で索を取る。
「交代!」
ハルが離す。
カイルが引く。
肋部へ痛み。
「二回目!」
「痛いと認めた回数?」セレナ。
「今はそれでよい!」
エリアが路図を折る。
ロロとバズの進路に、足場となる光点を三つ。
「ロロ、右!」
「俺の右?」
「あなたの現在の右!」
「初めからそう言え!」
ロロが光点を蹴る。
バズが続く。
二人が船内へ飛び込む。
直後、主帆の外側半分が裂けた。
帆は閉じない。
役目を終えた布が、青い空へ散る。
ロロは振り返る。
壊れたものを見送る前に、動いた時の音を一度鳴らす。
帆柱を工具で叩く。
低い一音。
「請求書、誰に」とハル。
「十五年前の船主!」
「取り立て難しい」
「利息つける!」
「十五年分?」
「破産させる!」
ロロは笑っている。
泣いてはいない。
補助腕の一本だけが、垂れていた。
オルロイ号はフォール・シーを抜けた。
落下速度。
六十二。
五十。
三十一。
「安全高度へ入る!」エリア。
「安全って止まる?」ハル。
「落下が制御可能になる!」
「言葉が弱い!」
「現実が弱いの!」
舵は戻らない。
帆は半分ない。
船底は次の荷重で崩れる。
それでも船首が上がる。
ゼロスター号が側面へつく。
片帆の小船と、帆の半分を失った古船。
どちらも完全ではない。
完全でないから並んで飛べる。
「接舷!」セレナ。
「全員数える」とエメ。
「ハル」
「いる」
「エリア」
「いる」
「カイル」
「景気は悪いがいる」
「余計」
「ロロ」
「修理代込みでいる」
「ノクス」
「ナァ」
「セレナ」
「記録者本人」
「バズ」
「了解、つまりいます!」
「ニア」
一拍。
「いる」
エメは最後に自分を数えない。
ハルが言う。
「エメ」
「数える側」
「数える側も入る」
「……いる」
全員。
船員は、いない。
オルロイ号の十二席は空のまま。
現在乗っている者たちは、救難者であり、証拠保全者であり、一時の作業員である。
空席を十五年前の誰かで埋めない。
【現実/オルロイ号・船首測量室/覚醒/落下制御成立から二十六分】
クランク・ハートは止まった。
鉄輪は一周も動かない。
帆は二度と開かない。
舵は二十六・四度で固定。
船底支持は、次の潮刻まで。
それでもオルロイ号は、安全高度の緩い流れへ乗った。
「誰もいない」とハル。
救命艇庫。
食堂。
寝台。
日誌。
生活の形はある。
生活者はいない。
「死亡を意味しない」とセレナ。
「生存も」
「意味しない」
「分かってる」
ハルは船首板へ手を置く。
十五年前、父の名が一度だけ書かれた船。
父は途中で降りた可能性がある。
十三年前、ニアが会ったと証言した。
現在は分からない。
分からないことを、希望で生存へ変えない。
怒りで死亡へ変えもしない。
「父さんがいた船を助けた」と言う。
「父上を助けた、ではない」とカイル。
「うん」
「それでよいのか」
「よくない。でも、違うものを同じにしたくない」
ニアは背部帯を外され、壁へ座っている。
六本の補助腕は全停止。
補助腕なしの身体は、長く見えた。
強くは見えない。
「ソウジは」とニア。
「何」
「十三年前、同じことを言った」
「何を」
「船と乗員を同じにするな」
「それで」
「私は、結果として同じだと言った」
「父さんは」
「怒った」
「俺も怒る」
「似ている」
「それ褒め言葉にするな」
「比較」
「数字より腹立つ」
ニアの口元が、ごくわずかに動く。
笑ったのではない。
笑い方を探しただけかもしれない。
ハルは問いを増やさない。
ニアが知っている父の話を、今ここで全部聞けば、船の救難と自分の待ち時間が混ざる。
「あとで、記録して話して」
「私の証言だけ」
「それも書いて」
「都合の悪い部分も」
「全部。分からない部分は空白」
「受理」
「その言い方、まだ腹立つ」
「協力する」
「少し直った」
船首測量器が動く。
自動航路は始点を失った。
次の命令を探している。
古い機械音声。
『航路始点、不成立』
一拍。
『乗員応答、なし』
一拍。
『保守手順、完了』
全員が耳を澄ます。
父の声ではない。
最後の船員の遺言でもない。
自動音声。
『次の乗員へ、手順を渡します』
測量室の壁から、四本の細い光が出る。
帆を一度開く手順。
舵を一度切る手順。
船底を一度支える手順。
撤退条件。
今、彼らが行った作業を、船が記録した。
「また再演する?」バズ。
「しない」とロロ。
「なぜ」
「材料がねえ。二回目は手順だけあっても動かねえ」
「手順を渡す意味」
「次の奴が、同じことをするためじゃない」とハル。
「では」
「どこまでやったか知るため」セレナ。
記録は命令ではない。
過去の作業を、現在へ強制するためではない。
現在の者が、続けるか、止めるか、変えるかを選ぶために渡す。
十五年、オルロイ号はそれを間違えていた。
手順を繰り返すことを、受け渡すことだと思っていた。
今、初めて手順を外へ出す。
「行き先は」とエリア。
船首方位輪が回る。
保存基準星ではない。
現在星位を読む。
舵は固定されている。
船が選べる方向は限られる。
それでも測量器は、一つの座標へ光を伸ばす。
頭上の海。
その向こう。
最後の離船案内が示した場所。
「沈没都」とセレナ。
「父さんがいるとは言わない」とハル。
「はい」
「誰かがいるとも」
「救難信号はない」
「でも船が向いてる」
「記録された次測点として」エリア。
「行く?」カイル。
ハルはエリアを見る。
エリアは地図を完成させない。
頭上の海までの線を、途中で止めている。
本人の返事を待つ空白。
「行く」とハル。
「理由」セレナ。
「船の最後の航路を確認する。父さんのためだけじゃない。降りた全員の行き先が、そこへつながるかもしれない」
「可能性」
「可能性として」
「記録します」
エリアが線を一歩分だけ伸ばす。
「オルロイ号単独では潜航不能」
「ゼロスター号で引く」とロロ。
「片帆」とカイル。
「知ってる!」
「二隻とも半分だな」
「足して一隻って言うなよ」
「言おうとした」
「人も船も足し算で一つにすんな!」
ニアが静かに言う。
「正しい」
ロロが振り返る。
「お前に言われたくねえ」
「正しさを所有しない」
「その台詞も腹立つ」
「協力する」
「今はそれでいい」
和解ではない。
次の作業へ同じ船で移る許可。
オルロイ号の船首が、ゆっくり頭上へ向く。
誰もいない航海は終わっていない。
だが、同じ三日を回る航海は終わった。
十五年ぶりに船は、記録された始点ではなく、現在の空から次の場所を向いた。