第623話 第十二章「頭上の沈没都」前編

都市は、地図の上にある。

 地図の上辺に描かれている、という意味ではない。

 道、家、井戸、墓、税、避難所。

 それらを同じ面へ置き、同じ人々が行き来できると認めた時、都市になる。

 逆潮環では、都市の上下が変わる。

 朝には塔が天井から下がり、昼には港が壁へ移り、夜には墓地が頭上を歩く。

 それでも人は、地図へ一つの上を描きたがる。

 紙を持つ手が迷わないため。

 命令を出す者が迷わないため。

 迷わない地図は便利である。

 ただし、世界の方が動く時、便利さはしばしば嘘になる。

【現実/星帆測量船オルロイ号・仮設安全流/覚醒/落下制御成立から二時間】

「修理代、七十六万四千二百十一ルク」

「桁がおかしい」とハル。

「十五年分の延滞金!」

「誰へ請求」

「船主、造船所、終端議会、王家、逆潮、父親!」

「最後だけ私情」とセレナ。

「全部私情だ!」

 ロロは請求書を書いていた。

 綴りを三箇所間違え、数字だけは一桁も間違えない。

 補助腕は二本。

 一本で紙を押さえ、一本で工具を並べる。

 本人の左手で数字。

 右手で咳止め吸入器。

「吸ってから書け」とエメ。

「書いてから!」

「吸え」

「監査権限そこまであんのかよ!」

「肺圧は作業条件」

 ロロは吸入器を使う。

 エメは満足そうにしない。

 満足すると、赦したと誤解される気がするからではない。

 仕事が終わっていないからだ。

 オルロイ号は安全流へ乗っただけで、航行可能ではない。

 船底縦梁は次の大きな荷重で崩れる。

 舵は固定。

 主帆は半分。

 暖房と食料保存は停止。

 自動修理は、三日周期から切り離されて待機している。

「廃船判定」とセレナ。

「早い!」ロロ。

「現行法上」

「現行法を直せ!」

「航行不能、居住不能、所有者連絡不能。証拠保全船として仮登録を提案」

「仮なら」

「修理可」

「採用!」

「ただし、原形復旧を目的にしない」

「……分かってる」

 ロロは請求書の上へ、別の題を書く。

『次の一動作のための保全費』

「長い」とハル。

「短くすると誰が払うか消える!」

 遠い夢灯環で、夜明け診療所の看板にも同じ考えがあった。

 権利は書くだけなら安い。

 生活へ置くと高い。

 船を証拠として残すなら、曳航、監視、乾燥、記録、警備、修理工の食事が要る。

「俺の食事も項目へ!」

「一人分」とセレナ。

「二本足りない補助腕の整備食!」

「補助腕は食べません」

「俺が食う!」

「二人分は却下」

「一・五!」

「一・二」

「値切った!」

「正確です」とエリア。

 ロロが嬉しそうに怒る。

 船が沈みかけたあとにも、値段の口論がある。

 生活へ戻る音だった。

 ニアは、客員席の前に立っていた。

 ゼロスター号の客員席には、六枚の航路札が残っている。

 ティアの規則札。

 ミラの無署名札。

 ガンガの拍札。

 ユノの鏡札。

 イヴァの切符札。

 ソムナの退出札。

 誰かが船を離れたあとも、座席はその人の所有物にならない。

 生活痕だけを残し、次の者が座れる。

 ニアは座らない。

「重量制限?」ハル。

「六肢工具架込みで超過はしない」

「じゃ何」

「同行条件が未確定」

「自分で決めれば」

「私一人で決めない」

 エメが条件書を読む。

「一。断機は三鍵式。緊急時も単独発動しない」

「違反歴一」とニア。

「乗る前から数えるな」とロロ。

「今後の監査記録」

「二」とエメ。「補助腕は通常二本。追加起動は作業区責任者と身体監査の許可」

「三。終端議会からの命令は全部公開。機密を理由に必要情報を選別しない」セレナ。

「保有していない情報は」

「保有していないと記録」

「四」とカイル。「王家、学院、議会のどの権限も、本人の説明責任を代行しない」

「意味」ニア。

「お前が悪いから追い出せ、お前が役に立つから許せ、どちらも私の肩書で決めない」

「五」とハル。「自分を勝手に人数から抜かない」

「定義が曖昧」

「怪我したら言う。退路を切る前に聞く。助けられたら損失計算から始めない」

「最後は感情」

「そう」

「履行基準が」

「分からなかったら聞け」

 ニアは条件書を見る。

「六」とロロ。

 全員が彼を見る。

「俺をロロ坊って呼ぶな」

 ニアの声が止まる。

「期限」

「俺が変えるまで」

「変えない可能性」

「ある」

「受理」

「七」ロロ。

「まだ?」ハル。

「姉だからって工具に触るな」

「工具の所有権」

「許可取れ」

「了解」

「八」

「増えるな」とカイル。

「匿名送金の記録、全部出せ」

 ニアの濃青緑の瞳が細くなる。

「返金を求める?」

「金の話だけじゃねえ。何年、どの名義で、誰に頼んだか。助けたつもりの記録を出せ」

「公開範囲」

「俺とセレナ。あと必要ならエメ」

「感謝は」

「しねえ」

「返金は」

「記録見て決める」

「和解条件」

「違う。過去を調べる条件」

 ニアは条件書へ署名する。

 右手の指先はまだ感覚が薄い。

 ペンを補助腕で支える。

「ニア・ピクス。一時客員」

「一時」とロロ。

「期間未定」

「未定を無期限にすんな」

「七日ごとに更新」セレナ。

「採用」とエメ。

 ニアは客員席へ座る。

 ロロは隣へ座らない。

 工具箱を一つ挟む。

 距離は、工具箱一個分。

 抱擁より正確だった。

 ニアの視線が、ロロの背中へ行く。

 四本あるはずの補助腕の接続座。

 二本は空。

「欠損ではない」とロロ。

「聞いていない」

「見る顔が修理見積り」

「夢灯火災の熱変形。接続座二、四。神経線は残存」

「測るな」

「見える範囲」

「それも勝手」

 ニアは目を外す。

「許可を求める。状態確認だけ」

「直すのは俺」

「補助可能」

「直すのは俺」

「一人では、接続角を測れない」

 ロロの補助腕が二本とも上がる。

 怒りではない。

 図星。

 自分の背中は、自分では見えない。

「エリアに測ってもらう」

「機関接続の専門ではない」

「エメ」

「圧力は読める。神経線の位相は」

「お前しか無理って言うな」

「言わない。終端議会式の接続を知る者が少ない」

「お前が作った?」

「原型は下面区。私が議会式へ改造した」

「勝手に俺の腕の親みたいな顔すんな」

「しない」

「じゃ条件」

 ロロは工具箱を開く。

 測定針を一本だけ出す。

「触るのは空の接続座。神経線へ通電なし。記録は俺とセレナへ同時。直す案は三つ以上。切る案を最初に出すな」

「切断が最適の場合」

「最初に出すな。比較して最後に言え」

「了解」

「今じゃない」

「期限」

「七日更新の時」

「受理――」

 ニアは止まる。

「待つ」

 ロロの補助腕が、一本だけ下がる。

「それでいい」

 壊れた身体を家族に見せることは、和解ではない。

 直す権利を家族へ渡すことでもない。

 測ってよい場所、触れてはいけない線、案を出す順番を決める。

 工具箱一個分の距離へ、次の共同作業が一つ置かれた。

 バズは、ゼロスター号へ乗らなかった。

「ニアさんと行かないの?」ハル。

「行きたいです」

「じゃ」

「行きたいから、今は行きません」

「難しい」

「今まで俺は、正しい人の後ろへ行けば自分も正しくなると思ってました」

 バズは灰黄色の袖に描いた白線を見る。

 ニアを真似た印。

 油でこする。

 一度では消えない。

「消す?」ロロ。

「全部消すと、真似てたことまで隠す気がする」

「じゃ上から自分の線」

「何色」

「自分で決めろ」

「それが一番難しい!」

 エメが古い区画鍵を投げる。

 バズが慌てて受ける。

「仮監査補助」

「俺が?」

「オルロイ号へ残る。証拠船の圧力、手動機関、三日周期停止を監視」

「ニアさんなしで」

「必要なら呼ぶ。従うためではなく、作業を依頼する」

「俺の判断で停止」

「そう」

「怖い」

「正常」

「正常って、船が十五年だましてた言葉ですよ」

 エメの口元が少し動く。

「では、怖いまま始めろ」

「了解、つまり――」

 バズは復唱を止める。

「やります。ただし、停止条件を一緒に書いてください」

「一緒に、は採用」

 バズはニアを見る。

「俺、残ります」

「最適」

「最適だからじゃないです」

 ニアの言葉が止まる。

「俺が決めました」

「……了解」

「褒めないんですか」

「褒めると限界を越える」

「分かってるじゃないですか」

「記録している」

「そこは変わらない!」

 バズは笑う。

 ニアの英雄新聞を集めた青年が、本人と別の船へ残る。

 離れることが裏切りでないと、自分へ教えるために。

【夢灯環・夜明け診療所/覚醒/正式開院二日目】

 ボウ・レンは戻ってきた。

 夢治療を受けるためではない。

「椅子、脚が短い」

 最初の診察で座った椅子を指す。

「一昨日から」とアサ。

「一昨日は開院前」とメイ。

「じゃ最初から」

「直す?」ソムナ。

「治療の代わりに?」

「別の仕事」

「夢を見せなくても、ここへいていい?」

「起きたあとも、ここにいる」

 ソムナは一拍置く。

「夢を見せないままでも」

 ボウは椅子を裏返す。

「代金」

「修理代を診療費へ相殺しない」

「何で」

「治療を受けないと仕事を買わない形になる」

「金ある?」

「少ない」

「正直」

「会計係に怒られた」

「誰」

 受付の患者組合員が手を挙げる。

「私です」

 診療所は、正式開院の最初の新患から夢治療を拒否された。

 二日目、その患者へ椅子の修理を頼んだ。

 治療拒否は撤回されていない。

 関係だけが続いた。

 ソムナは小さな伝羽へ書く。

『拒否、継続。来院、継続。椅子、修理予定。費用、要相談』

 最後に、絵を一つ。

 脚の長さが違う椅子。

 遠い船の上で、ハルたちが読めるように。

【現実/オルロイ号・船首測量室/覚醒/潜航準備開始】

「椅子」とハル。

「夢じゃなくて椅子」とエリア。

「診療所の報告として正しい?」カイル。

「生活報告」とセレナ。

 ソムナの伝羽は、事件を解かなかった。

 船内暦も、沈没都も、父の名も知らない。

 ただ、拒否しても関係を切らなくてよいという実例を運んだ。

 ロロがニアとの条件書を見る。

 和解を拒否しても、共同作業は続けられる。

「椅子脚ならこの船に使った」と言う。

「請求先を診療所にしないで」とハル。

「しねえよ!」

「一瞬考えた顔」

「顔は証拠じゃねえ!」

 流行っている。

 ニアは伝羽の椅子絵を見る。

「脚長差、約二センチ」

「絵に計測すんな」ロロ。

「傾きの原因」

「患者が直す」

「専門技能」

「そこじゃねえ」

 ロロは説明しない。

 ニアが自分で考える空欄を残す。