第624話 第十二章「頭上の沈没都」後編
沈没都の地図は、船首床の下から出た。
ノクスが見つけた。
匂いではない。
足音。
床板の一枚だけ、踏むと返る音が短い。
「ナァ」
「何」とハル。
ノクスが同じ板を二度踏む。
「空洞」とロロ。
「証拠保全」とセレナ。
「まだ触ってねえ!」
「あなたは言われる前に触る」
「偏見!」
「記録」
「事実でも偏見!」
床板には封印が四つ。
王家印ではない。
学院印でもない。
逆潮環の旧水路局。
海底測量局。
沈降都市庁。
避難航路院。
「四組織」とカイル。
「同じ保管箱へ?」
「共同原本箱」とセレナ。
「開封条件」
蓋に刻まれている。
『船内暦の反復停止』
『現在星位の確定』
『乗員不在時、外部救難者二名以上』
「全部満たした」とエリア。
「十五年前に用意した条件」とハル。
「反復事故を想定していた?」
「可能性として」とセレナ。
「知ってて船を出した?」
「条件箱の存在だけでは、事故の発生を予見した証明になりません」
「また長い」
「大事」
「分かってる」
封印を読む。
改ざんなし。
ニアが工具を出す。
ロロが手を伸ばす。
二人とも止まる。
「許可」とニア。
「俺も」ロロ。
「誰に?」ハル。
「セレナ」二人。
「珍しい」
「証拠箱です」
セレナが開封手順を決める。
ニアが左上。
ロロが右下。
エメが圧力。
バズが外側から記録。
「同時」とセレナ。
「一、二、三」とハル。
「なぜ君が」
「数える役」
「一、二、三」
四つの封印が外れる。
箱の中に、地図が四枚。
同じ都市。
同じ街路。
同じ塔。
同じ水門。
同じ沈降区画。
しかし上が違う。
一枚目は北塔が上。
二枚目は第四水門が上。
三枚目は墓地区が上。
四枚目は、都市の中心が上ではなく、紙の外へ向いている。
「偽物」とハル。
「まだ」とセレナ。
「どれか」
「どれも公印」
「公印も偽造できる」
「だから調べる」
紙質。
四枚とも逆潮藻紙。
繊維比率は同じ工房。
インク。
同じ鉱物顔料。
乾燥層だけ違う。
押印。
四組織の原印。
圧痕は紙の乾燥前。
「後から印を移した痕跡なし」とセレナ。
「線の修正」とエリア。
「一枚目、二箇所。二枚目、五。三枚目、一。四枚目、なし」
「改ざん?」
「訂正線。旧規則どおり作成者印あり」
「全部、本物?」
「少なくとも公的原本として作られた」
「同じ都市なのに、上が四つ」
ロロは地図を回す。
「紙を回しただけ?」
「文字も各上へ合わせて書かれている」とエリア。
「最初から違う向き」
「作成時刻を見ます」セレナ。
地図の端。
一枚目。
『第一潮刻・朝側重力』
二枚目。
『第二潮刻・海側反転』
三枚目。
『第三潮刻・都市沈降中』
四枚目。
『第四潮刻・全域無基準』
「時刻だけ違う」とハル。
「作成日は同じ」とセレナ。
「四枚とも、同じ一日の地図」エリア。
「都市が動いた」カイル。
「上下が変わった」
「第四の無基準って」
エリアの歩幅が半歩大きくなる。
好奇心。
「都市全体が、どの重力層にも固定されていない時刻」
「そんな場所、住める?」
「地図には生活区がある」
「じゃ住んだ」
「少なくとも計画した」
エリアは四枚を重ねる。
透明板ではない紙地図。
窓へ透かす。
塔、水門、墓地、港。
四つの向きが重なると、都市の中心に空白ができる。
円形。
「何」とハル。
「不明」
「地図にない?」
「四枚すべて、同じ位置を描いていない」
「意図的?」
「改ざん痕なし。作成規則が別か、当時測れなかったか」
「次で分かる?」
「行けば観測できる可能性」
「可能性で行く?」カイル。
「航海は大抵そうです」
エリアは笑いかけ、右手で口元を隠す。
未知の建築を前にすると、年相応の光が出る。
ハルが見る。
「楽しそう」
「仕事です」
「前にも聞いた」
「同じ答えです」
「でも顔が違う」
「顔は証拠ではありません」
「流行った」
「誰のせい」
「セレナ?」
「私ではありません」
カイルが地図の公印を指す。
「王家印がない」
「逆潮環の地方共同原本です」とセレナ。
「王国の所有地ではない」
「少なくともこの四図では」
「なら王命で入らない」
「救難・調査協定は」とエリア。
「遭難船の航路確認。現在救難信号なし。調査には現地規則が要る」
「現地が沈没していたら」ハル。
「現地規則が消えるとは限らない」
「王子、成長」
「私は十七だぞ」
「年じゃなく」
「褒めるなら具体的に!」
「誰の癖」
「周囲から移る!」
カイルは四枚の地図へ、自分の王印を押さない。
代わりに、調査目的と撤退条件を書いた仮札を添える。
『所有宣言をしない』
『居住者、生活痕、現地規則を確認するまで設備へ接続しない』
『救難信号があれば調査より救命』
「期限」とセレナ。
「一潮刻。更新は全員確認」
「記録」
「褒めないのか」
「職務です」
「厳しい!」
潜航方法は、船を上へ落とすことだった。
頭上の海へ近づく重力層を待つ。
ゼロスター号をオルロイ号の下へ置く。
下というのは、次の潮刻で海側になる位置である。
二隻を三本の曳航索で結ぶ。
一、推進。
二、姿勢。
三、撤退。
「三本目は切らない」とロロ。
ニアを見る。
「切らない」
「必要でも」
「三鍵なしでは」
「三鍵あったら」
「切る可能性を説明する」
「先に」
「先に」
同じ言葉。
和解ではない。
過去の間違いを、次の作業手順へ一つだけ反映した。
エメとバズはオルロイ号へ残る。
「残るって言い方、嫌い」とエメ。
「では乗る」とセレナ。
「証拠船の運航監査として乗る。退出路はゼロスター号と独立艇の二つ」
「独立艇、どこ」とハル。
「残存救命艇十一番を整備した」バズ。
「いつ!」ロロ。
「請求書を書いてる間!」
「勝手に直した!」
「証拠採取後、セレナさんの許可あり!」
「俺抜きで!」
「俺の判断です!」
ロロが口を開く。
怒る。
それから、少しだけ笑う。
「整備記録出せ」
「はい!」
「ミスあったら倍請求」
「誰へ」
「お前!」
「払えない!」
「働け!」
「それ、仲間入りですか」
「借金だ!」
「はい!」
バズは嬉しそうに返事をした。
嬉しさで限界を越えないよう、エメが作業時間を半分に切る。
出発前、ロロはオルロイ号の機関音を三種類確認した。
一つ。
自動修理待機音。
二つ。
船底仮梁の軋み。
三つ。
クランク・ハートの沈黙。
本来なら、沈黙は音ではない。
修理工には、止まった機械の静けさも種類がある。
「直せる?」ハル。
「聞くな」
「いつもの質問」
「完全には直さねえ」
「じゃ」
「次へ運ぶ」
「できる?」
ロロは四枚の地図を見る。
上が四つ。
現在の船に、正しい上は一つもない。
「できる。条件つき」
「条件」
「俺が無理って言ったら止まれ」
「理由聞かず?」
「止まってから聞け」
「契約」
ハルが右手を出す。
ロロは油だらけの左手で叩く。
ニアが見ている。
手を出さない。
ロロは自分からも出さない。
それでよい。
ゼロスター号へ戻る。
客員席にニア。
工具箱一個分を空けて、ロロ。
ノクスは二人の間の工具箱へ乗る。
「降りろ!」ロロ。
「ナァ」
「仲裁」とハル。
「部品を狙ってる」とニア。
「意見が合うな」とカイル。
「合ってねえ!」
「合致」とニア。
「言い方!」
エリアが船首で四枚の地図を固定する。
一枚を正解として選ばない。
時刻ごとに上を変える。
「第一潮刻図、使用」
「次の反転まで」セレナ。
「十一分」
「潜航開始から水面接触」
「八分」
「撤退判断まで余裕三分」
「少ない」とハル。
「余裕は数字で増えません」
「速度上げたら」
「危険が増えます」
「じゃ丁寧に急ぐ」
「矛盾」
「やることは丁寧、迷う時間は短く」
エリアが一瞬考える。
「採用」
ハルは赤いマフラーを結び直す。
左肩は固定。
カイルは盾籠手を外し、痛み止めを半量だけ飲む。
セレナは右手首を硬く固定し、記録複製を二隻へ分ける。
ロロは工具を長さ順に並べる。
ニアは六本の補助腕のうち二本だけ起動する。
エメはオルロイ号から伝声管を開く。
『圧力監査、開始』
バズ。
『手動機関、待機。停止条件、記録済み』
「自分で決めた?」ロロ。
『エメさんと一緒に。最後の署名は俺』
「よし」
『褒めました?』
「聞くな!」
頭上の海が近づく。
水面は天井ではない。
巨大な青い床のように、二隻の前へ広がる。
その向こうに、影がある。
塔。
船。
都市。
沈んでいるのに、上にある。
「見えた」とハル。
「輪郭だけ」とエリア。
「四枚全部と合う?」
「時刻が違う。今はまだ一枚目」
「中心の空白」
「水で見えない」
ノクスの二本の尾が、別々の方向へ立つ。
一つは沈没都。
もう一つはオルロイ号の船首。
古い匂いと、もっと古い匂い。
「何がいる」とハル。
「嗅覚だけで人を作らない」とセレナ。
「分かってる」
父かもしれない、と言わない。
父ではない、とも言わない。
観測できるのは、都市の影。
四枚の本物の地図。
十五年前の船が向いた航路。
それだけ。
「潜航角」とカイル。
「十四度」エリア。
「上へ十四?」
「現在の上へ」
「十秒後」
「海側へ変わる」
「ロロ!」
「曳航索、三本正常!」
「ニア!」
「切断予定なし。荷重分散、許容」
「セレナ!」
「記録開始。所有宣言なし」
「エメ!」
『監査継続。必要とする。赦してはいない』
「誰に言った?」
『全員』
「バズ!」
『俺の判断で、進行可!』
「ノクス!」
「ノゥ!」
「エリア」
ハルが呼ぶ。
「何」
「地図、頼む」
具体的な助け。
「任されました」
「カイル」
「誰を守ればいい」
「全員。自分も」
「難題だな」
「だから王子」
「肩書で押すな!」
「ロロ」
「飛ばす! 修理代忘れんな!」
「ニア」
一拍。
「協力する」
「今はそれで」
ハルは船縁へ右手を置く。
左肩は固定帯の中。
エリアの左手が、同じ船縁へ来る。
指先の距離は一センチ。
どちらも、その一センチを勝手に埋めない。
「地球へ帰る道も、こんなふうに四枚あったら」とハル。
「一枚を先に正解にしません」
「俺が選ぶまで?」
「私も選ぶまで」
ハルが見る。
「一緒に?」
「同じ道とは限らない」
「そこは格好よく言って」
「格好よさで航路を固定しないで」
エリアの小指が、船縁の上で一ミリだけ動く。
ハルの小指も動く。
触れない。
触れないことを拒絶にせず、次に選べる距離として残す。
その一センチの下で、二隻を結ぶ三本の索が張った。
潮刻が来る。
重力が反転する。
頭上の海が、進行方向になる。
ゼロスター号の片帆が開く。
オルロイ号の破れた帆は開かない。
二隻を結ぶ三本の索が張る。
十五年前から落ち続けた船が、現在の小さな船へ引かれる。
上へ。
海へ。
沈んだ都市へ。
四枚の地図は、どれも正しい。
正しい時刻が違うだけ。
だから、今の時刻を選ぶ。
ゼロスター号が船ごと頭上の海へ潜航する。