第625話 第一章「船で海へ昇る」前編

船は海へ沈む。

 これは多くの世界で、疑う必要のない文章である。

 船より海が下にあり、浮力を失えば船体は下へ行く。文章が短いのは、世界の方が説明へ協力しているからだ。

 ところが天井海と逆重力の空域〈アビサ〉では、船は海へ昇る。

 海へ入ったあと、船は沈む。

 その沈む先が、外から見ればさらに上である。

 ゆえに逆潮の古い船員は、遭難報告へ「上昇」「下降」と書かなかった。

『どの重力に従い、どの面を離れ、何へ近づいたか』

 長い。

 正しい。

 正しい文章はしばしば長く、危機の最中には長すぎる。

 そこで生活は、もっと短い言葉を作った。

『海へ行く』

 その一言で、人々は靴を壁へ結び、食器を天井棚へ移し、子供の手を取った。

 ハルたちも海へ行った。

 船を二隻まとめて。

 上下を三回間違えながら。

【現実/頭上の海・外層/覚醒/潜航開始から四十七秒】

「船首、上へ十二度!」

「上が四つある!」

「現在重力の反対!」

「反対も四つある!」

「私の槍が指す方!」

「槍が回ってる!」

「船が回っているの!」

「どっちも回ってるなら、止まってるの誰だよ!」

「セレナ」

「記録しています」

「精神の話!」

 ゼロスター号が、青の中で横倒しになる。

 片帆は閉じられている。

 帆を開けば風を受ける。海中で帆を開けば水を受ける。水は風より重く、船は帆走より先に帆柱を失う。

 代わりに船腹へ、丸い潜水鐘が三つ取り付けられていた。

 オルロイ号の救命艇から外した空気嚢。

 夢灯都市で使った耐火布。

 雷鎖環の列車用ゴム輪。

 白環杯で折れた観客島の骨材。

 旅をした船は、旅先の部品で次の土地へ入る。

 国境は地図へ引かれるが、修理跡は国境を知らない。

「左鐘、圧が六!」ロロ。

「六は安全?」ハル。

「五まで安全、七で破裂、六は会議!」

「会議してる場合?」

「だから走れ!」

「どこへ!」

「左鐘の外弁!」

「左って!」

「俺の左!」

「お前、今逆さ!」

「俺の左は逆さでも左だ!」

 ロロの二本の補助腕が甲板へ食い込む。

 本来なら四本。

 二本は夢灯火災で熱変形し、背中の空いた接続座へ防水布が巻かれている。

 一本が圧力計。

 一本が弁回し。

 本人の左手が工具箱。

 右手が吸入器。

「吸って」とエメの声。

 伝声管の向こう、先行するオルロイ号から届く。

「今、圧が!」

「肺圧も値」

「どっち優先!」

「吸って回せ」

「手が四本あれば!」

「ある分で役割を言え」とニア。

「お前が言うな!」

 ロロは怒鳴りながら吸う。

 怒鳴れる程度に空気が入る。

「ハル、右手で外弁! 左肩使うな! カイル、腰を支えろ! エリア、反転予告! セレナ、破裂したら王家のせいって記録!」

「最後は却下」とセレナ。

「なぜ私のせいだ!」カイル。

「王子が乗ってる!」

「同席課税を制度化するな!」

 ハルは甲板を蹴る。

 一。

 二。

 三。

 三歩目で、甲板が壁になる。

 重力を反転する潮刻〈ターン・タイド〉の小さな前触れだった。

 海全体が反転したのではない。海の外層と、オルロイ号の古い船内機関と、ゼロスター号の空気嚢が、それぞれ違う時刻へ引かれた。

 ハルの身体が横へ落ちる。

 左肩へ荷重が来る前に、腰索が張った。

 カイルが左手で引く。

 右腕の盾籠手は使わない。

「左肩!」

「二!」

「一般式!」

「二!」

「方向!」エリア。

「船首が下、オルロイが上、海面が後ろ!」

「正確」

「今、褒める?」

「継続したら」

「出た!」

 ハルは外弁へ右手を掛ける。

 固い。

 左手を添えたくなる。

 使わない。

「ロロ!」

「何!」

「一人じゃ回らない!」

「具体的で偉い! ニア、補助一本!」

 ニアの背中から、六本のうち一本だけが伸びた。

 濃青緑の外套の下で、銅の関節が水を切る。

「接触許可」とニア。

「弁だけ!」ロロ。

「ハルの手へ触れない」

「そこまで言ってねえ!」

「条件は明記」

 補助腕が弁へ噛む。

 ハルが押す。

 ニアが回す。

 二人の力ではない。

 ニアが角度を保持し、ハルが自分の体重を入れ、カイルが腰索を引き、ロロが圧力の抜ける瞬間を読む。

「今!」

 弁が開く。

 白い泡が噴き出す。

 泡は上へ行かなかった。

 ゼロスター号の船首へ流れ、途中で右へ折れ、オルロイ号の船底へ吸い込まれる。

「泡、三回曲がった」とハル。

「記録」とエリア。

「もう?」

「最初の証拠は、事件と名が付く前に出るものよ」

「事件?」

「同じ都市を描いた四枚の地図が、同じ交差点から四方向を示している」

「地図の喧嘩」

「地図は喧嘩しない。作った人と読む人がする」

「じゃ、俺たちの喧嘩」

「まだ始めないで」

 先を行くオルロイ号は、盾になっていた。

 十五年前に建造され、十五年間同じ三日を回り、無人のまま落ちてきた星帆測量船。

 船体は老朽化している。

 だから頑丈なのではない。

 壊れてよいから前へ置いたのでもない。

 大きい船の後ろには、流れの弱い影ができる。

 ゼロスター号は、その影へ入る。

 エメとバズはオルロイ号に残り、船底仮梁と三本の曳航索を監視していた。

『外圧、九。船内、七。差二』

 エメの低い声。

『第二区画、耳鳴りあり。構造痛か身体痛か未分離』

「休止」とセレナ。

『値を読んでから』

「身体を値から外さないで」

『……休止一分』

 セレナは伝声記録へ、その一分を入れる。

 圧力監査員が休んだ時間。

 英雄なら省かれやすい一行。

 省けば、次の監査員が同じ痛みを耐える規則になる。

『右舷曳航索、緩み!』

 バズ。

『了解、つまり巻き上げ三周――』

「停止条件!」ロロ。

『張力二百八十。船底音二回。俺の呼吸、四拍以上。確認済み!』

「やれ!」

『俺の判断で、やります!』

 巻揚げ機が動く。

 オルロイ号の船尾が、海中で持ち上がる。

 外から見れば上昇。

 船内の重力から見れば沈降。

 ゼロスター号から見れば、巨大な黒い屋根が前へ開く。

 その向こうに都市があった。

 逆さ海底に沈む旧都市〈アンダー・シティ〉

 塔が海底から生えている。

 ただし、塔の先は下を向いていた。

 建物の壁へ窓がある。

 窓の上にも窓がある。

 屋根だと思った面へ桟橋が付き、桟橋の裏へ墓標が並び、墓標のさらに横を魚の群れが通る。

 都市は崩れていない。

 崩れたまま、別の面を床として使われている。

 紺。

 白泡。

 珊瑚赤。

 古い銅の緑。

 建物の角には、四方向へ手摺が伸びている。

 扉は上下左右の四辺に蝶番があり、どの辺を下にしても開けられる。

「設計が、全部逃げ道」とハル。

 エリアの歩幅が半歩大きくなる。

 船首は狭いので、半歩大きくなるとロロの工具箱を蹴った。

「痛っ!」

「箱が?」

「俺の心!」

「工具は」

「無事!」

「では、心だけ請求して」

「値段つけられねえ!」

「珍しい」

「高すぎるって意味だ!」

 エリアは口元を右手で隠す。

 笑った。

 次の瞬間には、地図槍を船縁へ固定している。

「外郭輪、直径およそ二・八キロ。中心部は視界不良。南――」

「どの南」とハル。

「便宜上、第一地図の上辺を北とします」

「地図一枚を基準にする?」

 エリアの手が止まる。

 一枚を正解にしない。

 そう決めたはずだった。

「仮基準」と言う。「撤回時刻を付ける」

 地図の端へ書く。

『第一地図北。次の潮刻まで』

「期限つき北」とカイル。

「王命にも欲しいな」ハル。

「付け始めている」

「全部?」

「全部はまだだ」

「じゃ、今の北と同じ」

「不安定だな」

「正直」

 カイルは右籠手を左拳で叩かない。

 決断ではなく、確認の段階だからだ。

「都市への接触目的」とセレナ。

「遭難船の最終航路確認。居住者がいれば救難と協議」とカイル。

「所有宣言」

「しない」

「王家の旧権利」

「行使しない」

「緊急時」

「期限と対象を明記する」

「記録」

「褒めてもよいぞ」

「職務です」

「厳しい!」