第626話 第一章「船で海へ昇る」後編
都市の外郭へ近づくと、逆潮を泳ぐ骨透け魚〈グラス・フィッシュ〉が船影を囲んだ。
透明な身体。
白い骨。
青い内臓。
魚群は一斉に同じ方向を向かない。
半分は塔へ。
半分は海面へ。
数匹だけが横へ泳ぐ。
「群れが迷ってる」とハル。
「内臓位置を変えている」とエリア。
「見えるの?」
「透明だから」
「便利」
「魚に言って」
魚の心臓が、身体の中央から右側へ移る。
浮き袋が反対へ。
重力反転へ備える生き物時計。
ノクスの二本尾も、魚群と同じように分かれる。
一本は都市。
一本はオルロイ号。
「匂いが二つ?」ハル。
「ナァ」
「時代が二つ?」
「グル」
「父さんと誰か?」
ノクスがハルの耳を噛む。
「痛っ!」
「勝手に意味を入れない」とエリア。
「本人が言った」
「言っていない」
「二音あった」
「二音へ父親を足したのはあなた」
ハルは耳を押さえる。
「了解。今ある匂いが二方向」
ノクスは短く鳴く。
「今のは肯定?」カイル。
ノクスはカイルのマントへ移り、濡れた身体を拭く。
「王族用の返答だ」
「洗濯費を請求するぞ」
「ロロみたいになるな」
「修理費文化は公共財!」
【現実/頭上の海・外郭輪手前/覚醒/接岸許可待ち】
接岸許可が来る前に、二隻をつないでいた曳航索が一度だけ悲鳴を上げた。
綱が声を持つわけではない。
麻と金属の繊維が限界へ近づき、互いに擦れ、一本ずつ切れかける音を、人間が悲鳴に似ていると感じるだけである。
だが機械の悲鳴を比喩だと笑う船は、長く飛ばない。
「主索、張力九!」バズの声が伝声管から飛ぶ。「停止条件十! 補助索を街下――いや、現在の船腹下へ!」
「どの船腹!」ハル。
『オルロイ右舷、ゼロスター左舷! 俺から見たじゃなく、船名基準!』
「分かりやすい!」
「最初からそう言え!」ロロ。
「今決めた!」
正しい用語は、危機の前に用意されているとは限らない。
危機の最中に誰かが言い間違え、別の誰かが怒鳴り、三人目が記録し、次の危機からようやく常識になる。
ハルは甲板の留め環へ右腕を通し、補助索を投げた。
一。
二。
三。
索の鉤が、オルロイ号の救命環へ掛かる。
「固定!」
『固定確認。主索八・二へ低下』エメ。
「痛み値は」とニア。
『左腿二。計器と別。今は因果を結ばない』
「受領」
「姉ちゃん、全部数字で返すなよ」とロロ。
『数字だけなら、今ので名前を呼んでない』
ロロの二本の補助腕が一瞬だけ上を向いた。
驚き。
「通信中に家族会議すんな!」ハル。
「してねえ!」
『してない』
「息ぴったり」カイル。
「王子は索を持て!」
「私は王家の旗より重いものを持たない教育を――受けたが、破った!」
カイルが左手で二本目を引く。
右籠手は使わない。
海中で王盾炎を展開すれば、一瞬は守れても、熱と圧力が船体へ別の破壊を作る。
「肋部」とセレナ。
「苺二」
「数値で」
「軽い」
「非採用」
「苺は世界共通単位にならないのか」
「王都の市場だけです」
エリアは二隻の間へ、短い光路を三本引いた。
一本は主索。
一本は補助索。
一本は、切る場合の退避路。
「切る路まで描くの」とハル。
「切らないつもりでも、切れた時は来る」
「縁起が悪い!」ロロ。
「縁起で索の強度は上がらない」
「機械は聞いてる!」
「なら、機械へも撤退条件を説明しているの」
「口が強い!」
ニアが三本目の光路を見た。
「主索が十を越えた場合、切断。オルロイ号を外郭へ衝突させ、ゼロスター号を退避」
「違う」とエリア。
「計算上、有人船を残す」
「有人だからではない。オルロイ号にも現在の役割がある。勝手に衝突先へしない」
「無人」
「無人でも、後ろの二人が命綱を預けている。船の自動修理がなければ、ここまで来られなかった」
「では、分離後のオルロイ進路を追加」
「追加する前に、エメとバズへ確認」
ニアは一拍置く。
以前なら、最善と計算した経路を先に描いた。
今回は伝声管を取る。
「主索切断時、オルロイ号を外郭北面の古い投錨溝へ入れる案。拒否は」
『北面は墓標流がある』エメ。
『船首二度下げれば、空きの保守溝へ入る』バズ。
「可能性」
『俺が舵を取る。条件、舵反応二拍以上。失えば船を捨てる』
「船体保存を優先しない?」
『人が先。船は後で請求』
「誰に!」ロロ。
『沈没都の所有者』
「まだ分からない!」
『じゃあ王家』
「なぜ私へ来る!」カイル。
「同席課税」とハル。
「その制度を育てるな!」
会話の間に、主索は七・九まで落ちた。
危機は、勇者の一声で退くこともある。
たいていは、名前を付け、値を読み、誰が何を捨てるかを先に決めた結果として、ぎりぎり危機でなくなる。
ハルは索から手を離した。
左肩を回す。
「痛み」とエリア。
「一。日常」
「日常の一と作業中の一は同じ?」
「違う」
「では言い直して」
「今の保持を続けるなら、三分で二になる」
「交代」
「まだ――」
「具体的に言えたから、具体的に交代する」
エリアが彼の位置へ入る。
槍柄を索へ絡め、自分の腰ではなく船体の三点へ荷重を分ける。
ハルは退く。
退くことは、置いていかれることではない。
その違いを身体へ覚えさせるには、十五歳の彼にまだ回数が必要だった。
「一緒に持つ?」と聞く。
「休んで。三分後に交代を頼む」
頼む。
命令ではなく、役割。
「了解」
彼は配達鞄から薄い布を出し、濡れた右手を拭く。
布の隅には、母の配送店の古い印。
父を探しに来た。
父の痕跡があるかもしれない海へ。
だが今この瞬間、父は証拠でも目的地でもなかった。
索を持つ手の中にいるのは、エリアと、カイルと、ロロと、セレナと、ニアと、ノクスと、向こうのエメとバズだった。
「ハル」とニア。
「何」
「中枢へ父親の痕跡があっても、現在の救難順を変えない条件を先に置くべき」
「分かってる」
「焦っている時の『分かってる』は条件にならない」セレナ。
「二人で同じこと言うな」
「では、言葉にして」エリア。
ハルは海の上――ここではどの上か分からない青を見た。
「生存者、船体安定、住民の同意。それより先に父さんへ行かない」
「父親が目前でも」とニア。
「目前なら、位置を共有してから行く」
「一人で行かない?」
「一人で行かない」
セレナが記録札へ書く。
「撤回条件」
「目の前で父さんが落ちたら救う」
「妥当」
「そこまで書くの?」
「約束は例外を書かないと、例外の時に人を縛ります」
エリアの光路へ、小さな注記が加わる。
『父の痕跡は、航路変更の単独根拠にしない。現在の生命危機は別。』
「地図に家族事情」とカイル。
「道へ影響するものは全部、地図の事情よ」
その時、外郭から灯が一つ点いた。
白。
青。
白。
接岸許可。
都市外郭の古い桟橋へ、灯が一つ点いた。
白。
青。
白。
救難灯ではない。
接岸許可信号。
「人」とハル。
「信号」とセレナ。
「現在形」
「現在発信」
「そこ大事?」
「大事です」
桟橋の下から、人影が上がってくる。
上がる、というのはゼロスター号から見た言い方だった。
本人は桟橋の壁を普通に歩いている。
透明な気泡頭巾。
珊瑚色の短い髪を四つに分けて結んだ女。
青灰の作業服。
腰に四辺ある小さな黒板。
彼女は桟橋の端へ立ち、こちらを見た。
「船名」
声は気泡頭巾の伝音膜を通り、少しくぐもっている。
「ゼロスター号」とエリア。
「後ろ」
「星帆測量船オルロイ号」
「乗員」
「現在、外部救難者九名と夜獣一体。オルロイ号に二名、こちらに七名と一体」
「夜獣は人数へ」
ノクスが耳を立てる。
セレナが即座に訂正する。
「十名」
「よし」
女は黒板を回す。
四辺へ文字。
『足下』
『街下』
『潮下』
『次下』
「現在の足下は、そちらの船腹。街下は桟橋。潮下は海面。次下は北塔。間違えると死ぬ。どの下の話か言ってから喋れ」
「名前」とセレナ。
「タラ・ネレ。第四水門居住区の圧力番」
「居住者数」
「その質問は、救助の値段を決めるためか」
「退避能力と物資を計算するため」
「同じ質問を、違う目的で使える」
「だから目的を言いました」
タラはセレナを見る。
次にカイル。
深紅の半マント。
「王家?」
「王太子。だが、ここを所有しない」
「宣言だけなら泡より軽い」
「撤回条件と記録を付ける」
「少し重い」
タラの視線がニアへ移る。
六本の補助腕。
白い切断線。
「終端議会」
「一時客員。命令権なし」とニア。
「切れる?」
「線は見える」
「切る?」
「三鍵がなければ切れない」
「鍵を持つのは」
「構造、監査、現場」
「住民は」
ニアが一拍置く。
「現場鍵の候補」
「候補じゃない。ここで息をしてる」
「訂正。現場鍵の保有者」
タラは黒板を一度叩く。
「入港を許可。条件。地図を一枚にするな」
エリアが反応する。
「なぜ」
「一枚にした地図で、前の調査隊が三人死んだ」
「いつ」
「外の暦で六年前。こちらの暦では、七十四回前の海が空へ落ちる定刻〈フォール・アワー〉」
「四枚の地図を知っている?」
「知ってる」
「どれが正しい」
「その聞き方が、もう違う」
タラは桟橋の四方向を指す。
一つは壁。
一つは天井。
一つは海底。
一つは、何もない水。
「今から入る交差点は、四枚全部にある」
エリアが地図を開く。
同じ十字路。
一枚目は北塔へ矢印。
二枚目は第四水門へ。
三枚目は墓地区へ。
四枚目は紙の外へ。
「目的地は」とハル。
「都市中枢」エリア。
「父さんの基地かもしれない場所」
「可能性」セレナ。
「分かってる」
タラが四枚を見比べる。
「全部で行ける」
「順番は」エリア。
「知らない」
「住民なのに?」
「住民だから、必要のない道は行かない。中枢は四十一年前から閉じてる」
「誰が閉じた」
「今は地図の質問だ。犯人の話へ逃げるな」
ハルが小さく笑う。
「セレナみたい」
「聞こえています」
「褒めた」
「記録しません」
ゼロスター号が桟橋へ近づく。
オルロイ号はその外で盾になる。
曳航索が張る。
四枚の地図は、同じ交差点から四方向を示していた。
一枚を選べば、三枚が間違いになる。
四枚を信じれば、人間の身体が四つ要る。
海中の鐘が鳴る。
一回。
二回。
泡が横へ流れる。
タラが言う。
「次下が変わる。桟橋へ足を結べ」
ハルは自分の靴底を見る。
今、床を向いている。
十秒後も同じとは限らない。
都市へ入る前から、地図だけでなく身体の下まで、四つに分かれていた。