第627話 第二章「四つの下」前編
方角は、土地の性質ではない。
人間が土地へ貼った約束である。
東に太陽が昇る土地では、東は朝の方角になる。王城が北にあれば、北は権力の方角になる。川下に貧民街が作られれば、下流は貧しさの方角になり、地図は水の流れだけでなく差別まで、さも自然現象のように描く。
したがって地図を読むとは、線を読むことではない。
誰が、何を動かないことにしたかを読むことである。
逆さ海の沈没都では、動かないものがなかった。
太陽は見えない。
王城は沈んでいる。
川は定刻ごとに空へ落ちる。
それでも人は暮らす。
暮らすため、人々は「下」を四つに分けた。
世界が複雑だから言葉を複雑にしたのではない。
世界が複雑なのに、言葉を一つのまま使うと死ぬからである。
【現実/第四水門外郭桟橋/覚醒/次の潮刻まで二十八分】
「足下」
タラ・ネレが、四辺黒板の一辺を示す。
ハルたちは桟橋へ立っていた。
正確には、桟橋の側面へ立っていた。
さらに正確には、第四水門居住区が現在床として使っている面へ、靴底の磁気鋲と腰索で接続されていた。
「今、身体が落ちる方。寝起きでも分かる。酔ってると分からない。酔った奴へ聞くな」
「酔っていない奴がいなかったら?」カイル。
「酒場ごと閉める」
「政治が速い」
「酒場は遅い政治だからな」
「気が合いそうだ」
「王族とは合わない」
「返事も速い!」
タラは黒板を九十度回す。
「街下。建物が、今この面を床として使うと決めている方。手摺、扉、排水、灯り、標識がそろう。身体の足下と同じとは限らない」
「違う時は?」ハル。
「街が壁になる」
「そのまんま」
「そのまんまを言葉にしない町は、人が落ちたあとで長い説明をする」
エリアが手帳へ書き込む。
『足下=個人に作用する現在重力。
街下=建築設備が床として運用中の面。』
「等号は強すぎる」とタラ。
「では、暫定定義」
「期限」
「この居住区を出るまで」
「よし」
タラは少しだけ目を細めた。
褒めてはいない。
しかし、訂正の仕方を認めた。
黒板の三辺目。
「潮下。周りの水が落ちていく方。泡と砂と魚の糞を見る。船の外で一番強い。空気区画の中では弱い」
「魚の糞まで地図記号?」ロロ。
「生き物は記録を消さない。恥ずかしがるのは人間だけだ」
「証拠としては優秀です」とセレナ。
「お前と気が合う」とハル。
「記録しません」
「二回目」
「回数は記録しました」
黒板の最後。
「次下。次の潮刻で、足下か街下か潮下のどれかが移る予定の方」
「予定?」エリアが即座に反応する。「確定ではない?」
「弁が正常なら予定。壊れていれば予測。誰かが触れば希望」
「希望を方角へ入れるの」
「この町じゃ、明日の床は希望だ」
黒板の四辺が、そこで一つの道具になる。
タラは中央の軸を回す。
四つの語が、くるりと位置を変える。
「言う時は、何の下かを付ける。『下へ逃げろ』は禁止。『足下へ伏せろ』『街下の第三門へ』『潮下へ流す』『次下に索を張る』。省いたら罰金」
「いくら」とロロ。
「初回は靴紐一本」
「現物徴収?」
「二回目は靴」
「命に直結する税だな」カイル。
「命に直結しない税を、王家は取るのか」
「……ある」
「正直なのは泡より少し重い」
カイルは笑わなかった。
笑えば軽くなる場面だった。
軽くしてよい質問ではなかった。
沈没都へ入るための支度は、潜水服を着ることではなかった。
服はすでに着ている。
気泡頭巾もある。
呼吸筒も、腰索も、浮力嚢もある。
必要なのは、持ち物へ四つの下を与えることだった。
配達鞄には、四面留め。
グリムリリーには、二重蝶番。
カイルの盾には、解放索。
ロロの工具箱には――。
「なんで工具箱だけ八本?」ハル。
「中身が四百二十一個あるから!」
「数えた?」
「数えない工具は工具じゃなくて不安だ!」
「不安が四百二十一個」
「安心が四百二十一個!」
「同じ箱に入ってるなら同じだろ」
「お前の鞄に故郷と冒険が一緒に入ってたら同じか!」
ハルは配達鞄を抱える。
「……違う」
「だろ!」
「勝った顔しないで。例えが卑怯」エリア。
「例えは説明を近道する道具だ!」
「近道が住民区を通ることもある」ニア。
ロロの口が止まった。
ニアは工具箱一個分離れた場所で、自分の六本の補助腕へ防水栓を付けていた。
動かしているのは二本だけ。
残る四本は背へ折り畳まれている。
「今、その話じゃない」とロロ。
「近道の定義の話」
「だから今じゃない」
「時間が経てば定義が変わる?」
「相手が聞ける時刻になる」
ニアの指が止まる。
タラが黒板へ、小さく一本の線を引いた。
「時刻のない正しさは、だいたい暴力になる」
「地元の格言?」ハル。
「元夫の悪口」
「格言って、だいたい誰かの悪口なんだな」
「歴史書もな」とカイル。
「王子が言うと重い」
「王家が書かせたものも多いからな」
セレナが彼を見る。
「今の発言、記録します」
「そこはするのか!」
第四水門居住区は、古い都市の外郭へ後から作られた生活圏だった。
元は巨大な水門の機械室。
今は百八十三人が暮らす。
床は四面にある。
一つの部屋に、四つの食卓が付いている。
潮刻が変わると、家族は椅子を動かすのではなく、次の面の卓へ食器を移す。
寝床は四隅へ吊られ、どの方向へ落ちても布が身体を受ける。
子供の靴には、左右ではなく四面の印が付いている。
ハルは、壁だと思っていた面を歩く少女を見た。
少女は籠を抱え、逆さの鍋へ青い海藻を入れている。
「落ちない?」
「今はあっちが足下」とタラ。
「同じ部屋で違う?」
「局所弁がある。子供と高齢者は先に次下へ移す」
「年齢で床が違うのか」
「歩く速さで時間が違うからな」
少女がこちらへ手を振る。
籠の中の丸い実が一個、浮く。
彼女は慌てず、壁の網へ押し込んだ。
「観光客」と少女。
「救難者」とタラ。
「どっちが助けられる方?」
「まだ不明」
少女は納得して、海藻を運び続ける。
この町では、助ける者と助けられる者も固定されていない。
潮刻が変われば、昨日の救命索を持った者が今日の索へ吊られる。
「名前は?」ハル。
「一場面の子へ固有名を聞く癖、何とかならない?」エリア。
「だって、呼ぶ時困る」
「呼ぶ予定があるの」
「予定は、希望だろ」
タラが小さく笑った。
「ミミ」
「一場面じゃなくなった」
「あなたがしたのよ」
少女――ミミは鍋の蓋を閉め、ハルへ青い実を投げる。
「噛むと泡が出るよ」
「食べ物?」
「今は」
「今は?」
「次下になると浮力袋」
「食べていいのか?」
「腹の中で浮く」
「怖い!」
「嘘」とミミ。
「子供が速い!」カイル。
居住区の中央には、四方へ同じ文字を書いた時計があった。
一周が一日ではない。
海が空へ落ちる定刻までの残りを示す。
針は一本。
文字盤は四枚。
どの面を床にしても読める。
エリアはその下で、四枚の地図を広げた。
第一図。
黄ばんだ薄布紙。北塔から中枢へ向かう線。
第二図。
青い貝紙。第四水門から中枢へ向かう線。
第三図。
黒い防水皮紙。墓地区から中枢へ向かう線。
第四図。
透明な魚膜紙。線は紙の外へ出て、裏面から戻ってくる。
「まず記号を分けます」とエリア。「道路、門、水路、圧力区、損傷、重力――」
「重力を道路と同じ列へ置くな」とタラ。
「なぜ」
「道路はそこにある。重力はその時そこにある」
「時刻属性」
「言い直しても、まだ固い」
「精密さは固さを必要とする」
「固いものは折れる」
「柔らかいものは形を失う」
「喧嘩?」ハル。
「共同作業」と二人が同時に答えた。
「怖い共同作業」
エリアは地図の矢印へ指を置く。
「この三角。私は北向きの通路記号だと思っていた」
「第一潮刻の街下」とタラ。
「こっちの二重三角は」
「第二潮刻の次下」
「魚の尾みたいな印」
「第三潮刻の潮下。骨透け魚が向く方」
「丸に裂け目」
「第四潮刻。全域無基準」
「無基準なのに、印がある?」
「基準がない時刻だと知らせる印」
エリアの瞳が、淡緑の光を帯びる。
未知の地図を前にした時の目だった。
「方向記号じゃない。位相記号」
「位相?」ハル。
「同じ場所が、時間によってどの面を下として使うか」
「場所を描いた地図じゃない?」
「場所だけを描いた地図ではない」
「言葉が長くなった」
「世界が説明へ協力していないから」
「第一章の地の文みたいなこと言うな」
「誰に言ってるの?」
「分からない」
セレナが、地図の隅へ六角単眼鏡を寄せる。
「小印があります」
第一図の隅。
黒い点が三つ、白い点が一つ。
第二図。
波線二本と、欠けた円。
第三図。
縦棒七本のうち四本だけが濃い。
第四図。
魚の脊椎に似た刻み。
「潮刻時刻」とタラ。
「表記体系が異なる」セレナ。
「作った時代が違うから」
「外部暦へ換算できますか」
「できるが、先に区別しろ。地図を描いた年と、地図を封じた日」
エリアが顔を上げる。
「封じた日?」
「中枢閉鎖の朝、四枚とも同じ役所印を押された」
「同じ日なの」
「そうだ」
「でも作成年が違う」
「下地が違う。第一図は北塔時代の測量。第二図は水門拡張後。第三図は墓地区沈降中。第四図は全域無基準の避難用。最後に同じ日付で『現在原本』として封じた」
「古い地図へ新しい印を?」ハル。
「古い道が消えたとは限らないからな」
「新しい道が正しいとも限らない」エリア。
「正しいという言葉を急ぐな」
タラの指が、第一図の小さな数字を叩く。
「これは外の王暦で百十二年」
第二図。
「これは水門暦四十四周」
第三図。
「沈降暦三年」
第四図。
「無基準暦零」
「零から始まる暦」とカイル。
「始まらなかった日を数える暦だ」
「王家には作れないな」
「作ったら元年にするから?」ハル。
「そうだ」
「自覚あるんだ」
「王族は、歴史へ自分の名前を付けたがる生き物だ。魚より透明ではない」
セレナは、四つの表記を別々の欄へ写す。
「換算前の原表記を残します」
「なぜ」とタラ。
「換算で失われる意味があるかもしれない」
「よし」
「評価ですか」
「現場鍵候補から、現場鍵へ半歩」
「鍵はまだ渡さないでください」
「欲しがらない奴へ渡す方が安全なこともある」
「それも危険な格言です」
「元夫の続き」