第628話 第二章「四つの下」後編
最初の調査は、四枚全部を持って行う予定だった。
予定だった、という言葉は、現場で最も壊れやすい部品である。
第四水門の水路番三人が、第一図を持って先に出た。
中枢への入口の圧力を測るだけ。
十分で戻る。
腰索は居住区へつないである。
タラは反対した。
「一枚で行くな」
水路番の年長者は答えた。
「北塔路は一番短い。第一潮刻まで十四分しかない」
「短い路は、短い時刻でしか短くない」
「だから今行く」
「戻りの下は変わる」
「戻りは街下へ沿う」
「その街下が変わる」
「分かってる」
分かっている、は、危機の前でよく使われる。
理解したという意味ではない。
これ以上言われたくないという意味である場合が多い。
三人は行った。
タラは止めなかった。
止める権限はある。
しかし、水路番が自分で選んだ作業を、外から来た救難者の到着だけで禁止すれば、町の暮らしは救難者の許可待ちになる。
「追う?」ハル。
「今すぐは追わない」タラ。
「危ないのに」
「危険を説明した。索がある。停止時刻も決めた」
「行かせるのが尊重?」
「止めないこと全部を尊重と呼ぶな。止める権限を持つ者が、責任を逃げる時に便利な言葉になる」
「じゃあ何」
「選んだ結果を、見捨てない」
ハルは腰の配達鞄へ触れる。
蓋を叩きそうになり、止めた。
一。
二。
三。
三回で止める。
四回目からは、不安が音になる。
エリアたちは、居住区内の訓練路へ入った。
四つの下を身体へ覚えさせるための、短い回廊。
床、壁、天井、奥の扉へ、同じ幅の歩道がある。
タラが鐘を鳴らす。
「足下、変更」
局所弁が動く。
身体が、横へ落ちる。
ハルは三歩数える前に、腰索を引かれた。
「今のは予告あり」とエリア。
「分かってた」
「落ちた」
「分かって落ちた」
「それを失敗と言うの」
「成功の向きが違った」
「言葉で着地しないで」
カイルは物理盾を床へ刺し、二人を受け止める。
王盾炎は使わない。
海中で炎の壁を長く保てば、蒸気と反動が肋部へ返る。
「で、誰を守ればいい?」
「まず自分の背中」とハル。
「珍しい注文だ」
「背中痛いんだろ」
「王子の背中は国家機密だ」
「痛い国家機密」
「漏洩した」
カイルは笑う。
笑いながら、盾の角度を変える。
痛みを隠すためではない。
隠していないと示す笑いだった。
次の鐘。
「街下、変更!」
手摺が回る。
灯りが消え、別の面で点く。
排水溝が閉じ、横の溝が開く。
ロロの目が輝く。
「全部、四系統!」
「古い区画はな」とタラ。「後で一系統へまとめた場所もある」
「なんで!」
「安かった」
「安いは高い!」
「修理屋が言うと宣伝だな」
「真理だ!」
「値札を付けるな」ニア。
「お前は命へ数字付けるだろ!」
「数字を付けない命は、計算から消える」
「数字だけの命は、誰か分からなくなる!」
ロロの声が水路へ響く。
タラは二人の間へ入らない。
間は、工具箱一個分。
埋めれば和解になる距離ではない。
「次下、北塔」とタラ。
ノクスの尾が、一本だけ北塔側へ向く。
もう一本は今の足下。
骨透け魚が、回廊外の水で内臓を動かす。
「魚の方が先に知る」とハル。
「知っているのでなく、身体が備える」とエリア。
「違う?」
「知識は言葉にできる。備えは言葉より先に起きる」
「俺も方向は身体が先」
「だから記録して」
「身体を?」
「違和感を。左肩が重くなる、耳が詰まる、舌が浮く、靴底が滑る」
「舌が浮く?」
「今、浮いてる」
ハルは口を閉じる。
「本当だ」
「喋れない?」カイル。
「しゃべえう」
「少し静かで助かる」
「ひおい」
【現実/第四水門居住区・四面食堂/覚醒/第一潮刻終了まで三十四分】
訓練路を二周した者は、食事を取る。
安全教育と食事を同じ規則へ入れるのは、沈没都の古い慣習だった。
空腹は判断を速くする。速くするが、正しくはしない。
ゆえに町は、英雄的な集中力より先に、汁と塩を配った。
四面食堂の卓には、取っ手が四つあった。
「どこから飲むの」とハル。
「今の足下側」とミミ。
「潮刻が変わったら」
「次の取っ手」
「全部同じ汁?」
「四つの取っ手から飲むと味が変わる」
「本当?」
「嘘」
「二回目!」
青い根菜と白い貝の薄い汁は、塩が強かった。
海の中で暮らす町が塩を好むのは奇妙に見えるが、周囲にある海水と、人間が身体へ必要とする塩は同じではない。近くに大量にあるものほど、使える形へ変える労働が見えにくい。
ロロは一口飲み、卓の裏へ視線を入れる。
「この回転継手、摩耗してる」
「食べながら修理しない」とタラ。
「食べ終わるまでに落ちる」
「二潮刻持つ」
「二潮刻しか!」
「修理札は出してある」
「誰へ」
「私へ」
「お前が圧力番で修理受付で食堂番?」
「人が少ない」
「それを一人へ集めるな!」
「外の修理屋が来なかった」
ロロの口が閉じる。
来なかった。
切られた町、地図から沈んだ町、王国の所有権が曖昧な町へ、公共修理班は来ない。
「一ルク」とロロ。
「何が」
「点検料。部品代は別。無料じゃない」
「今、依頼してない」
「俺が勝手に気づいた。勝手に直すと尊厳を奪う。だから勝手に見積もりだけ出す」
「高い?」ミミ。
「一ルク」
「安い」
「尊厳価格」ハル。
「覚えるな!」
タラは腰の黒板へ、小さく『継手点検 一』と書く。
「払う」
「値切らない?」
「値切るほど金がない時は、先に支払期限を相談する」
「正しい客だ……」
ロロの補助腕が感動で二本とも上を向く。
「機械屋は一ルクで泣くのか」とカイル。
「対価は額じゃなく、払うって約束があることだ!」
「王家へも教えてくれ」
「まず未払い一覧を出せ!」
「国家予算になる!」
食堂の壁には、居住者名簿がなかった。
代わりに、四面ごとの仕事札が掛かっている。
『第一潮刻・水門二』
『第二潮刻・幼児床移動四』
『第三潮刻・貝採取一』
『第四潮刻・墓標清掃三』
「人数だけ」とセレナ。
「名前を外したの?」
「昔、名簿を持って外へ出た監査船が戻らなかった」とタラ。「次に来た徴税船が、その名簿だけを使った」
「税を取るため」カイル。
「死者からもな」
「王家の制度か」
「当時の王家。お前の父より前」
「代替わりは船が見ない、とさっき言われた」
「覚えてるなら、変えろ」
「変える。まず現在人数を、徴税でなく救難のために確認したい」
「理由が違えば同じ名簿を作っていい?」
カイルは答えない。
王盾で受け止められる質問ではない。
セレナが名簿用紙を出さず、別の札を一枚置いた。
「名前を集めません。各面の現在人数、移動支援の要否、本人が外部共有を拒否する項目だけ」
「拒否も記録?」ミミ。
「拒否した内容は記録しません。拒否があった事実だけ」
「何を拒否したか分かるじゃん」
「項目数をまとめます」
「全部拒否した人は?」
「人数にだけ入れます」
「人数も嫌なら?」
セレナは一拍考える。
「救難時に、その人がいる可能性を一人分の空白として残す」
「空白って人?」
「人を消さないための空白です」
ミミは汁椀の底を指でなぞる。
「じゃあ、私の名前は書かないで。青い実を投げる人、一人」
「理由を聞いても?」
「外の新聞に変な顔で描かれたくない」
「十分です」
「変な顔じゃなければ?」ハル。
「もっと嫌」
「条件が厳しい!」
セレナの札には、こう書かれた。
『未成年・外部共有拒否・救難上の存在確認済み 一』
名前はない。
消えてもいない。
エリアは四枚の地図を、食堂の四面へ一枚ずつ貼った。
「同じ卓で同時に見る」と言う。
「重ねない?」ハル。
「重ねると、一番濃い線が正解に見える」
「薄い線が負ける」
「地図は競技ではない」
「でも目は勝手に競わせる」とミミ。
エリアが少女を見る。
「そうね」
第一図を読む時は、第一面へ立つ。
第二図は、壁を歩いて見る。
第三図は、天井側の寝台へ腰を結んで読む。
第四図は、卓の裏へ潜る。
「読みにくい!」ハル。
「作られた向きで見る」
「紙を回せば」
「回すと、身体が固定されていることを忘れる」
エリアは第四図の紙外へ消える線を追うため、卓の下へ潜った。
濃紺の三つ編みが水気で頬へ張りつく。
「公爵令嬢の姿じゃない」とカイル。
「公爵令嬢の正しい姿を誰が決めたの」
「社交界」
「では、今ここにいない」
「強い」
ハルも隣へ潜る。
「何か見える?」
「地図の裏に、圧力孔の位置」
「表には」
「道がない」
「裏だけの道」
「道とは限らない。水を逃がす線かもしれない」
「人が通れる?」
「まだ分からない」
「父さんが――」
言いかける。
エリアは止めない。
ハルが自分で続ける。
「父さんが通ったかもしれない、は、今は足さない」
「正確」
「少しずつな」
「少しずつでいい」
卓の上で、タラの黒板が鳴った。
水路番三人の帰還時刻を示す印。
一回。
返事がない。
食堂の空気が変わる。
暮らしの途中で危機が始まる時、皿は急に象徴にならない。
汁は残り、継手の見積もりは卓へ置かれ、名前のない救難札は乾かないまま、全員が立つ。
訓練路を出た時、時計の針は第一潮刻の終わりへ近づいていた。
水路番三人の腰索は、まだ張っている。
「戻り信号は」とタラ。
居住区の番人が索を二度引く。
返事なし。
三度。
返事なし。
「停止時刻」とセレナ。
「過ぎた」
タラは四辺黒板を背へ回す。
「救助へ行く。第一図、第二図、両方」
「全部では?」エリア。
「現在使える二枚。残りは潮刻が違う」
「選ぶのではなく、時刻で使い分ける」
「まだ仮説だ」
彼らは北塔路へ入った。
第一図では、居住区から中枢へ一本の直路。
第二図では、途中で右へ折れ、水門の裏へ回る。
現実の路は、第一図どおりに始まる。
廊下。
圧力扉。
三つの窓。
床へ埋め込まれた青い導線。
二百歩進む。
腰索が、壁の向こうへ吸い込まれていた。
道はない。
石壁。
古い封鎖板。
第一図には、ここから先へ廊下が続く。
「行き止まり」とハル。
「違う」とエリア。
壁へ手を当てる。
振動がある。
向こうで、誰かが索を叩いている。
一回。
三回。
一回。
救難符号。
『三名、生存。空気区画あり。出口不明。』
「廊下はある」とエリア。「私たちの街下にない」
鐘が鳴った。
第一潮刻が終わる。
石壁の目地から泡が出る。
泡は天井へ行かず、壁の向こうへ沈む。
第二図の右折路が、足元――いや、次下側の壁へ現れ始めた。
第一図を選んだ先遣隊は、地図どおり進んだ。
地図どおり進んで、地図の外へ閉じ込められた。