第631話 第四章「泡が教える下」前編

人間は、目を信じる。

 目は遠くまで届く。

 海の向こう、山の向こう、城壁の向こうを、身体を動かさずに知ることができる。

 ゆえに文明は、目のために地図を描き、目のために信号を灯し、目のために王冠を高くした。

 しかし、水の中で目は弱い。

 濁りに負ける。

 屈折に騙される。

 距離を短く見積もる。

 透明な壁を見落とす。

 そんな時、人は原始へ戻る。

 足裏。

 耳の奥。

 肩へかかる重さ。

 頬を流れる泡。

 身体は、地図より狭い。

 だが、自分が今どちらへ落ちているかだけは、地図より早く知ることがある。

 凪野ハルは方向音痴である。

 地図を渡せば迷う。

 道順を口で説明すれば、三つ目の角で忘れる。

 それでも一度走った道の段差と匂いを忘れない。

 これは才能と呼ぶには不便で、欠点と呼ぶには役に立ちすぎた。

【現実/第三潮刻・北塔外周街/覚醒/中枢門調査開始から十二分】

「見えない」

「正確に言って」

「自分の手が、二本あるのは分かる。指の数は見えない」

「視程三十センチ前後」

「最初からそれを聞けば?」

「あなたの言い方から、恐怖の程度も分かる」

「調査項目に入れた?」

「入れた」

「消して」

「拒否」

 ハルは濁った水の中で、エリアの声だけを追った。

 旧時計塔が回転した直後、外周街の堆積砂が一斉に舞い上がった。

 視界は青ではない。

 茶色でもない。

 古い紙を水へ溶かしたような、色の名前を決めにくい濁りだった。

 腰索は三本。

 一つはエリア。

 一つはカイル。

 一つは街下の手摺。

 手摺は、今のところ左にある。

 左という言葉は自分の身体へ付いているから、まだ使える。

「足下」とタラの声。

「右斜め下!」ハル。

「街下」

「左!」

「潮下」

 頬を泡が撫でる。

「後ろ上!」

「次下」

 分からない。

 骨透け魚は見えない。

 時計塔の鐘も、濁りと水圧で方向を失う。

「分からない!」

「よし」とタラ。

「何がよし?」

「分からない時に埋めなかった」

「褒め方がセレナ」

「聞こえています」と後方からセレナ。

「どこにいる?」

「あなたの後方一・七メートル」

「見えないって!」

「だから数値で」

「怖い!」

「それは記録済み」エリア。

「消してって言った!」

 一行は二列で進んでいた。

 先頭はタラ。

 次にハルとノクス。

 エリア。

 カイル。

 後列はセレナ、ロロ、ニア。

 オルロイ号のエメとバズは外郭に残り、都市全体の圧力変化を読む。

 全員で奥へ入らない。

 全員で同じ危険へ落ちない。

 かつて物語は、仲間が一丸となることを美徳にした。

 海難の歴史は、全員が同じ船室に集まることの危険も知っている。

「泡、右頬」とハル。

「大きさ」エリア。

「豆くらい」

「速度」

「歩くより遅い」

「数」

「多い!」

「単位」

「泡に単位ある?」

「個」

「七、八、九――増えた。十二。二十くらい!」

「発生源」とセレナ。

「左の壁」

「街下側配管」とロロ。「漏れだ!」

「漏水?」カイル。

「空気漏れ! 水の中で水が漏れても見えねえ!」

「言葉が濡れているな」

「王子、今それいる?」

「恐怖の量を半分にしている」

「半分になってねえ!」

 ロロが列から出ようとする。

 ニアの補助腕が腰索を押さえた。

「単独禁止」

「配管が!」

「停止条件」

「泡径三センチ、流量――見えない!」

「見えないなら移動しない」

「お前に言われたくない!」

「だから言える」

 ロロの補助腕が、怒ったように二本とも立つ。

 だが、出ない。

「タラ、漏れの向こうは」

「旧商店街の空気嚢。人はいない」

「なら後で戻る。印だけ」

「自分で決めた?」ニア。

「俺が決めた!」

「記録」セレナ。

「なんで毎回!」

「成長は故障より記録しないと消えやすいから」

 ロロは一秒、黙った。

「……修理代、値引きしないからな」

「成長祝いの値上げ?」ハル。

「材料費!」

 濁りの中、ノクスの二本尾が青白く光る。

 一本は今の潮下と逆。

 浮力の方向。

 もう一本は、斜め前。

 次の潮刻へ向けて流れ始めた微かな水圧勾配。

 ノクスは答えを示しているのではない。

 二つの匂いが引かれる方向を身体で示すだけだ。

「次下、斜め前?」ハル。

「ナァ」

「断定しない」エリア。

「仮説。次下候補、斜め前」

「記録」

「褒めない?」

「まだ」

「厳しい」

 ハルは配達鞄から、細い紙片を出した。

 紙の先へ、小さな空気粒を包む。

「何」とエリア。

「母さんの店で、風向きを見る時にレシート使ってた」

「水中よ」

「だから泡を付ける」

「紙が破れる」

「破れた向きも記録」

 紙片を放す。

 泡は現在の浮力方向へ上がる。

 紙は重いので足下へ落ちる。

 その二つが引き合い、しばらく水平に漂う。

 十秒。

 紙の尾が、斜め前へ引かれた。

「同じ」とハル。

「ノクスの尾と」

「泡だけじゃない。重い紙も横へ行く」

「潮流」カイル。

「次の反転前、区画間の圧が先に動く」とタラ。

 エリアはグリムリリーを展開しようとして、止めた。

 濁りの中で大きな光路を出せば、反射が視界をさらに奪う。

「ハル」

「何」

「あなたの身体の記録を貸して」

 命令ではない。

 具体的な依頼。

 エリアが助けを求める時の言い方だった。

「どう貸す?」

「十歩ごとに、肩、耳、舌、靴底の変化を言って。私は線へする」

「俺の身体を地図に?」

「一人の感覚だけで正解にはしない。泡、紙、魚、計器と重ねる」

「左肩は嘘つくよ」

「嘘ではなく古傷の値。古傷だと注記する」

「それなら貸す」

 ハルは歩く。

 一。

 二。

 三。

 跳ばない。

 数えるだけ。

「左肩、軽い。右耳、詰まる。舌、上。靴底、外側へ滑る」

「十歩」

「左肩、変わらない。右耳、強い。舌、前。靴底、前へ抜ける」

「二十歩」

「腰索が上じゃなく横から引く」

「それは身体?」

「船で覚えた身体」

「採用」

 エリアの地図筆が、水中用の光板へ線を引く。

 一本ではない。

 泡の線。

 紙の線。

 ノクスの尾。

 ハルの感覚。

 タラの潮刻経験。

 全部を薄く重ねる。

「複数の選択肢を同時に光路へ重ねる地図〈オープン・ルート〉

 光は一本の正解を出さない。

 四本の候補を、確度の濃淡で示す。

「一番濃いのは」とカイル。

「斜め前。ただし、次の潮刻まで」

「期限つき」ハル。

「あなたが教えた」

「俺?」

「旅の最初からずっと」

「そんな昔のこと覚えてる?」

「地図は、訂正履歴を消さない」

「人も?」

 エリアは一拍だけ黙る。

「消さない。使い方は選ぶ」

 濁りを抜けると、旧北塔市場へ出た。

 市場は、四面に店があった。

 現在の街下には、貝殻屋。

 右壁には、古い靴屋。

 天井には、食堂。

 左壁には、葬具店。

 どの店も閉じている。

 看板だけが四つの時代を向く。

 食堂の卓へ、皿が縛られたまま残る。

 皿の縁に小さな切込み。

「第一潮刻の皿」とタラ。「汁物は街下側の深皿。反転前に蓋をする」

「生活が全部、時刻表」とハル。

「時刻表に従う生活」とエリア。

「違う?」

「前者は暮らしが時刻を作る。後者は時刻が暮らしを支配する」

「この町は」

「両方」タラ。

 市場中央に、透明な円筒が立っている。

 中には砂。

 砂時計に見える。

 だが上下の容器が四つある。

「四方砂」とタラ。「街下が変わる前、細粒が次下へ先に落ちる」

「なぜ細い砂だけ」ロロ。

「軽いから?」ハル。

「逆」とロロ。「細い粒は水の抵抗を強く受ける。圧力流へ先に曲がる」

「じゃ、泡と同じ」

「泡は浮力、砂は重力、どっちも横流れで次下を示す」エリア。

「別の物が同じ向き。証拠が二つ」

「三つ。魚も」

「身体も?」

「補助」

「順位低い」

「一人分だから」

「納得」

 ハルは怒らない。

 一人の感覚を全員の世界へしないことは、軽視ではない。