第632話 第四章「泡が教える下」後編
市場の奥に、旧地下街への入口があった。
地下という名が、すでに危うい。
「旧地下街は、どの下?」ハル。
「建設時の街下」とタラ。
「今は」
「天井の向こう」
「地下なのに上」
「名前は昔の地図だ」
入口は巨大な円形扉。
四辺に取っ手。
中央へ、潮刻の小印。
第三図と一致する。
「この先に、中枢へ向かう古い公共線がある」とタラ。
「地図では最短?」ニア。
「第三潮刻の間だけ」
「残り」
「二十一分」
「往復不能」
「調査だけ。旧潮標を一個取る」エリア。「作成年と位相を比較するため」
「中枢へ行かない?」ハル。
「まだ行けない」
「父さんの痕が消えるかも」
「現時点で痕跡の存在も未確認」セレナ。
「分かってる」
「焦っている時の『分かってる』は信用しません」
ハルは言い返しかける。
さきほど水路番が使った同じ言葉を思い出す。
「……分かってない。急いでる」
「それなら記録できます」
「気持ちも証拠?」
「行動条件」
ニアがハルを見る。
「急ぐ理由は理解する」
「同じだと思うな」
「同じとは言っていない」
「言い方が同じにする」
「訂正。あなたは父親へ会う時間を失いたくない。私は都市中枢へ到達する作業時間を失いたくない」
「……違う」
「違いを残した」
ハルは配達鞄の蓋を三回弾く。
「行こう。調査だけ」
【現実/旧北塔市場・潮刻待避棚/覚醒/第三潮刻まで二十六分】
旧地下街へ入る前に、タラは全員を待避棚へ押し込んだ。
「五分休む」
「二十一分しかない」とニア。
「今入れば、反転予告を身体で読めない者が旧線で転ぶ」
「訓練済み」
「訓練路は正常弁。ここは局所潮刻がずれる」
「五分の損失」
「五分で、誰が何を感じるか確認する」
「測定価値」
「最初からそう言えばいい」とロロ。
「休む価値でもある」ハル。
「お前は座れ」エリア。
「今、左肩一」
「座れば零へ戻る?」
「たぶん」
「たぶんは測定ではない」
「座ります」
待避棚は、かつて魚屋だった。
四方向へ包丁台があり、現在の足下には古い値札が散っている。
『骨透け魚 三尾一ルク』
『逆潮貝 殻つき』
『次下予告後は半額』
「反転前の在庫処分」とカイル。
「商売は重力より適応が速い」とタラ。
「半額なら買う」とハル。
「四十一年前の魚を?」
「やめる」
セレナは全員へ小さな身体札を配った。
『耳』
『舌』
『肩』
『靴底』
『視界』
『補助腕』
「感じた変化の順に並べてください」
「試験?」ハル。
「誰か一人の感覚を正解にしないためです」
ハルは目を閉じる。
海の音。
配管の音。
古い看板が揺れる音。
カイルの籠手の小さな擦れ。
ロロの呼吸。
エリアが地図針を差し直す金属音。
最初に、舌の奥が軽くなった。
次に右耳が詰まる。
靴底が内側へ寄る。
左肩の痛みは、軽くなるのではなく位置がずれる。
「舌、耳、靴、肩」
エリア。
「視界。水中の塵が左上へ。次に踵。肺は変化なし」
カイル。
「盾の吊り環。左膝。苺――」
「苺は禁止」とセレナ。
「では痛み二」
ロロ。
「工具箱の長ネジ。右ゴーグルの焦点。喉」
ニア。
「補助腕一の無荷重。義肢接続圧。指先は変化なし」
セレナ。
「単眼鏡の吊り糸。右手首。耳は最後」
タラ。
「四方砂。水槽の泡。自分の身体は分からない」
「それも記録」とセレナ。
「分からないを項目に?」
「分かるふりより精密です」
ノクスは二本尾を別方向へ立て、最後に鼻を床へ付けた。
「匂いは?」ハル。
「ナァ」
「先に水、次に金属?」
ノクスは一度だけ鳴く。
「質問を二つ入れない」とエリア。
「じゃ、水?」
「グル」
「金属?」
「ナァ」
「逆だった」
「失敗も記録」とセレナ。
七人と一体の順番は、全部違った。
「平均を取る?」ニア。
「取らない」とエリア。「順番表へする」
「平均すれば予告時刻が出る」
「最初に感じる人と最後の人の差が消える」
「作戦上は中央値」
「撤退開始は最初。全員移動は最後。両方要る」
ニアは反論せず、紙へ二本の線を引いた。
『最早予告』
『最遅予告』
間に、個別の名前。
「タラは身体変化不明。外部観測へ置く」
「勝手に外すな」とタラ。
「自己感覚を作戦条件へ使わないだけ。現場判断は残る」
「言い直しは合格」
「採点された」
「地元では全員が新人だ」
五分の終わりに、局所潮刻が小さく揺れた。
ハルは舌で気づいた。
エリアは塵で。
ロロは長ネジで。
セレナは吊り糸で。
誰も同じ方法ではなかった。
それでも、同じ変化へ届いた。
「これ、地図へ入れる?」ハル。
「入れる」とエリア。
「人の身体を線に?」
「線ではなく注記。『視界不良時、個別予告順を使用』」
「俺の舌が公共情報」
「嫌?」
「名前は外して」
「理由」
「恥ずかしい」
「救難上の存在確認済み、舌一」とセレナ。
「ミミ方式!」
笑った直後、ハルの左肩が一度強く軽くなる。
「変化!」
タラが四方砂を見る。
「局所先行。予定より三分早い」
「五分休んだ意味」とニア。
「休んだから、三分前に分かった」とハル。
ニアは時計を見る。
「損失二分ではなく、予告三分獲得」
「数字にすると納得するのか!」ロロ。
「数字にしないと、自分の焦りと区別できない」
ロロは言い返さない。
それは言い訳にも聞こえた。
同時に、欠陥を扱うための方法にも聞こえた。
「行く」とタラ。「調査だけ。十五分で撤退」
全員が自分の身体札を、見える場所へ付ける。
英雄は敵の弱点を知る。
救難者は、自分たちの弱点を先に共有する。
円形扉の向こうは、空気区画だった。
水が膜で止まる。
一行は気泡頭巾を外さず、そのまま入る。
旧地下街。
天井へ線路。
床へ広告板。
壁へ駅の椅子。
建設時には、線路側が床だった。
今は広告板側が街下。
「駅名」とカイル。
錆びた看板。
『中心弁前』
「近い」とハル。
「誰にとって」とエリア。
「今の俺たち」
「時刻は」
「第三潮刻」
「通行条件」
「空気区画維持」
「撤退時刻」
「十五分後」
「よし」
「試験?」
「共同判断」
ハルは笑う。
旧潮標は、駅の奥にあった。
四角い金属柱。
四面へ異なる目盛。
エリアとセレナが記録する。
ロロが錆を削らず、表面だけを照らす。
ニアは周囲の荷重線を読む。
「中央弁へ続く構造線」とニア。
「切らない」とロロ。
「言われなくても」
「言う。言って残す」
「記録」セレナ。
「毎回やるのか!」
「必要な間は」
ハルは駅の端へ歩く。
線路は暗闇へ続く。
ノクスが匂いを嗅ぐ。
一本の尾は線路。
もう一本は、天井の古い保守扉。
「最近の金属油?」
「グル」
「誰か通った?」
「断定しない」とエリア。
「分かってる。今ある匂い」
ハルは扉へ近づく。
その時、舌が浮いた。
左肩が軽くなる。
右耳の圧が抜ける。
靴底の内側が滑る。
「次下、変化!」
四方砂の細粒が、床ではなく天井へ走る。
「早い」とタラ。
「時計は残り十一分!」カイル。
「中央弁の遅れ。局所潮刻が先行した!」
「退避!」セレナ。
全員が腰索へ手を掛ける。
鐘は鳴らない。
予告のない反転。
線路が床になる。
次に壁。
さらに天井。
身体が三方向へ順に投げられる。
カイルが盾を開く。
物理盾。
一度目を受ける。
二度目はニアの補助腕が手摺を掴む。
三度目。
ハルの腰索が、古い広告板の角へ引っかかる。
左肩に全荷重。
「ハル!」
痛い。
声が出ない。
一、二――。
三を言えない。
「エリア、手伝って!」
言えたのは、数ではなく名前だった。
グリムリリーの柄が伸びる。
ハルの腰索へ絡み、荷重を分ける。
「左手を離して!」
「落ちる!」
「私が持つ!」
「踵!」
「申告済み。十秒なら持つ!」
ハルは左手を離す。
エリアが受ける。
カイルがその背を支える。
ロロが広告板を切らず、留め具を外す。
全員の重さが、旧地下街の天井へ落ちた。
天井は、人が立つために作られていない。
照明管が割れる。
広告板が落ちる。
線路の砂が頭上から降る。
旧地下街は、第三潮刻の途中で第四の向きへ変わった。
一行は、地図に床として描かれていない天井へ、まとめて叩きつけられた。