第633話 第五章「貝の成長方向」前編

修理は、過去との会話である。

 壊れた部品は、なぜ壊れたかを喋らない。

 錆は黙っている。

 亀裂は弁明しない。

 抜けたボルトは、事故だったとも、手抜きだったとも、誰かを救うため急いだとも言わない。

 それでも修理工は読む。

 摩耗の片寄り。

 熱の入り方。

 工具傷の角度。

 純正部品の隣に、別の町で作られたネジが一本だけ混じる理由。

 歴史家が文字から過去を読むなら、修理工は抵抗から過去を読む。

 ただし、どちらも間違う。

 文字は権力者が残す。

 修理痕は、生き残った機械だけが残す。

 壊れて消えたものは、どちらの史料にもなりにくい。

 だからロロ・ピクスは、直す前に壊れた音を鳴らす。

 聞き送るためではない。

 直した自分が、最初から正しかった顔をしないためである。

【現実/旧地下街・広告天井面/覚醒/局所反転事故から三分】

「誰も動くな!」

 ロロの声が、ひっくり返った駅へ響いた。

 全員、旧地下街の天井へ貼り付いている。

 正確には、吊られている。

 天井板は薄い。

 その向こうは水。

 板へ乗った全員の重さが、一点へ集まれば抜ける。

「動くなと言われると、鼻が痒い」とカイル。

「鼻だけ動かせ!」

「王命より具体的だ」

「王命で鼻掻け!」

「それは嫌だな」

「じゃ黙れ!」

 ロロの二本の補助腕は、天井梁へ広がっている。

 一方が荷重計。

 一方が打音棒。

 本人の左手は床板――今の天井板――へ触れ、右手は吸入器。

 吸う。

 吐く。

 高音の笛が、遠くで鳴っている。

 ロロには一部聞こえない。

 だから、振動で読む。

「ハル、右足を三センチ、街下側」

「街下、どっち」

「さっきの線路側!」

「今の足下は天井」

「分かってる! 地名として言った!」

「下を省いたら靴紐一本」タラ。

「今徴収すんな!」

「規則は危機で休まない」

「危機に合わない規則は休ませろ!」

「その意見は採用する」

「採用早い!」

 ハルが右足を動かす。

 板が軋む。

「止まれ!」

「三センチって言った!」

「二・五で音が変わった!」

「足に定規ない!」

「だから言葉で補正してる!」

 エリアがグリムリリーの柄で距離を示す。

「ここ。二・八センチ」

「公爵令嬢の使い方が贅沢」とカイル。

「王太子を鼻係へ使うより有効」

「まだ掻いてないぞ」

「どうでもいい!」ロロ。

 ハルの左肩には、即席の三角帯が巻かれていた。

 脱臼はしていない。

 亜脱臼の手前。

 痛みは強いが、指先の感覚はある。

「上げる?」セレナ。

「上がる」

「上げないで答えて」

「先に言って」

「分かるでしょう」

「分かってても試したくなる」

「その癖を治してください」

「肩より難しい」

 セレナは右手首を庇い、左手で帯の締めを確認する。

「行動制限。左腕での保持なし。跳躍時は腰索二本。痛み増加で撤退」

「撤退先が天井」

「現在位置から離れる、という意味です」

「正確」

「エリアの真似をしない」

「著作権ある?」

「今作ります」エリア。

「制度が速い!」

 笑いが短く起きる。

 短い笑いは、天井板を揺らさない。

 ロロは荷重を分けるため、広告枠を梁へ変えた。

 古い看板。

 『今日の街下は、明日の天井』

「広告が予言」とハル。

「家具屋の宣伝だ」とタラ。「四面棚を売ってた」

「何でも商売になるな」

「重力も売った」

「どうやって」

「安全な潮刻を高い区画へ」

 カイルの表情から、冗談が消える。

「それは王国でもある」

「どこでもある。違うのは呼び方だけ」

 ロロは看板の留め具を外し、梁へ渡す。

 切らない。

 曲げる。

 再利用する。

 再機〈リメイク〉は、壊れた物を新品へ戻す力ではない。

 残っている機能を別の役割へ接続する。

 看板は看板でなくなる。

 だが、材料の傷は消えない。

「一人ずつ、梁へ移れ。順番、軽い奴から」

「俺」とロロ。

「私」とセレナ。

「ノクス」とハル。

 ノクスが牙を見せる。

「人数へ入れたのに重さだけ先?」

「軽いのは差別じゃねえ!」

 ノクスは自分で梁へ飛ぶ。

 着地前、二本尾を逆方向へ広げ、回転を殺す。

「夜獣の方が上手い」とカイル。

「王子も尻尾生やす?」ハル。

「王家の伝統へ新章が要る」

「赤いの二本」

「マントで足りる」

 全員が梁へ移る。

 最後はカイル。

 体重がある。

 背と肋部に古傷がある。

「盾を先に渡す」と言う。

「王子が盾を手放すのか」とタラ。

「今、盾が私より重い」

「正直」

「泡より?」

「鼻毛一本」

「評価が戻った!」

 天井面の奥に、保守用の小さな空気孔があった。

 ロロはそこへ全員を移す。

 孔の内側は、昔の配管室。

 四方向へ管が伸びる。

 上。

 下。

 左。

 右。

 現在の身体基準ではそう見える。

 建設図面では、第一、第二、第三、第四潮刻管。

「全部同じ径」とロロ。

「四方向を同格にした設計」とエリア。

「排水弁も四つ。空気戻しも四つ。逆止弁の向きが一個ずつ違う」

 ロロの声が速くなる。

「見ろ、この継手。どの街下でも液溜まりができないよう、中心が球。管の底がない。全部が底になれる。天才。嫌い。悔しい。好き」

「感情が多い」とハル。

「機械には多くていい!」

「人には?」

「……部品表がない」

「あると思ってた姉がいたな」とニア。

「お前の話へ戻すな」

「戻していない。比較」

「比較も話だ!」

 ロロは管へ歯を当てる。

 金属を軽く噛み、振動を読む。

「古い。青銅七、星鉄二、貝石一。元の管」

 次の継手。

「これは後だ。安い王都鉄。五十年もたない」

「何年経っている」とセレナ。

「四十一年前の閉鎖より後。二十から三十」

「どうして分かる」

「歯」

「証拠形式として提出できません」

「分かってる! 削り粉と刻印も取る!」

「よし」

「また成長記録?」

「職務です」

 後世修理の継手は、四本のうち一本を生かし、三本を塞いでいた。

 灰色の充填樹脂。

 同じ工房印。

「一方向固定」とニア。

「安くするため」とロロ。

「保守点数を四分の一にできる」

「故障したら全部止まる」

「正常時の人員を三分の一へ減らせる」

「異常時の死者は増える」

「当時の残り人数を見ないと評価できない」

「でも壊れてる」

「現在の結果と当時の選択は別」

「お前、いつもそうやって過去を逃がす」

「逃がさない。条件を分ける」

「条件を分けると、責任が薄まる」

「分けないと、間違った人へ集まる」

 ロロは工具を止める。

 ニアを見る。

「お前には集まっていい」

「その判断権は被害者側にある」

「俺も被害者だ」

「そうだ」

 否定しない。

 言い返さない。

 それがロロをさらに怒らせる。

「正しい顔すんな!」

「正しいとは言っていない」

「言わない方が腹立つ!」

 補助腕二本が、同時に天井へ向く。

 怒り。

 ニアの六本は動かない。

 動かないから、感情が読めない。

 ただ、髪へ編んだボルトを一個回した。