第634話 第五章「貝の成長方向」後編
配管室の壁に、貝が付いていた。
白い小さな貝。
殻の口が、全て同じ方向へ開く。
「食べられる?」ハル。
「最初にそれ?」エリア。
「生活の質問」
「古い管の貝は苦い」とタラ。
「食べたことある」
「住民だからな」
「調査隊なら採取」とセレナ。
右手首を休ませ、左手で小さな鏝を持つ。
「壊す前に全体像」
エリアが光板で撮る。
ロロは貝へ触れない。
殻は、単純な螺旋ではなかった。
四つの張り出し。
四方向へ、少しずつ成長している。
「変な形」とハル。
「変ではない」とロロ。「環境へ合ってる」
「四方向へ口を作る」エリア。
「潮刻ごとに、餌が来る下が変わる。貝は移動できないから、殻を伸ばす」
「身体が地図」
「身体が履歴」とセレナ。
貝の殻へ、薄い筋がある。
白。
青。
白。
黒。
四色が繰り返す。
「成長輪」とタラ。「海が落ちるたび色が変わる」
「一年輪じゃない」とハル。
「潮刻輪」とエリア。
「大きい周期もある」とロロ。
殻を拡大する。
四色の束が七十四回。
その外に、太い稜。
「七十四回で一季?」
「こちらの居住暦」とタラ。
「第二図の水門暦四十四周と合わせられる」エリア。
彼女の歩幅が半歩大きくなり、狭い配管室でハルの足を踏む。
「痛い」
「ごめん」
「珍しく早い」
「未知が近いから」
「俺の足は既知?」
「踏んだ回数三回」
「記録してる!」
セレナは貝の一つを、殻の付着面ごと採取する。
「口の向きと成長色を対応させます」
「四枚の地図の潮刻印」とエリア。
「作成年も」
「貝で年を換算できる」
「可能性」
「今はそれでいい」
【現実/旧配管室・四方向弁架/覚醒/第四潮刻まで五十一分】
貝の成長輪を読むには、貝だけを見てはいけなかった。
貝が付かなかった場所を見る。
配管の継ぎ目。
人の手が触れた把手。
かつて床だった面の擦り跡。
食べられた殻の欠け。
「空白も履歴」とエリア。
「付いてないだけだろ」とハル。
「なぜ付かなかったかがある」
「掃除した」タラ。
「誰が」
「昔の住民」
「記録は」セレナ。
「ない」
「なら、掃除したと断定は」
「把手の裏に爪痕がある。貝を剥ぐ時の」
タラは指で示す。
四方向弁架の一面だけ、殻が薄い。
「ここが当時の作業床」とロロ。
「一面だけ?」
「最後の十年はな」とタラ。「人が減った」
ロロが一方向固定の修理板を叩く。
「人を減らすために四系統を一系統へまとめた」
「人が減ったからまとめた」とニア。
「同じだろ」
「原因と目的が逆」
「結果は同じ」
「結果が同じでも、責任の形は違う」
「責任を分けて薄めるな」
「分けないと、修理工だけへ集まる」
タラが壁の古い賃金札を剥がす。
油に黒ずんだ薄板。
『第一面 二名』
『第二面 二名』
『第三面 一名』
『第四面 一名』
その下に、後から刻まれた線。
『全域 一名』
「六人分を一人へ」とハル。
「一人分の賃金で」とタラ。
「誰が決めた」
「外部管理局。町は沈降補助金と交換した」
「住民も同意?」カイル。
「投票はした。反対すれば補助金なし」
「選択肢になっていない」エリア。
「だが、反対して餓える道も道だと言う役人はいた」
カイルの犬歯が見えない。
「王家文書を探す」
「謝る前に探せ」
「その順番で行く」
ニアは賃金札を見つめた。
「当時の技師が一方向固定を選んだ理由は、人員削減だけではない。四系統の部品供給が止まっていた可能性」
「また条件」とロロ。
「条件を知っても、現在の危険は消えない」
「じゃあ何のため」
「同じ修理を、悪人を一人捕まえれば防げると思わないため」
ロロは、金属を歯へ当てる。
振動で材質を読む。
「安い合金」
「当時の標準?」
「外郭用じゃない。食堂卓の脚くらい」
「盗品?」ハル。
「転用。たぶん、使える物がこれしかなかった」
「修理した奴、下手?」
「上手い」とロロ。「下手なら四十一年も持たない」
「正しい修理?」
「違う。長く持った間違い」
その言葉を、ニアが繰り返さない。
自分へ向けられたように聞こえたからである。
四方向弁架の中央に、小さな手動輪があった。
現在は錆び、二方向しか動かない。
「模型に使える」とエリア。
「壊すな」とタラ。
「外さない。動作だけ確認」
ロロが左手で輪を持つ。
ニアは補助腕一本を反対側へ添える。
工具箱一個分の距離。
同じ輪を持てば、その距離はなくなる。
「触るな」とロロ。
ニアが離す。
「保持が必要」とだけ言う。
「分かってる」
「片側だけでは軸が曲がる」
「分かってるって言ってる」
「焦っている時の――」
「お前までセレナになるな!」
セレナが顔を上げる。
「職務の無断使用です」
「そこ怒る?」
ロロは輪を回す。
一度。
止まる。
「右側の錆が噛んでる」
「左から押すと軸荷重一・三倍」とニア。
「誰が押せって」
「数値だけ伝えた」
「うるさい」
ロロはもう一度回す。
動かない。
ニアは待つ。
「……一本」とロロ。
「何」
「補助腕一本。俺の合図で、二度だけ押せ」
「許可範囲、保持と二度の押圧」
「復唱すんな」
「誤解防止」
「一度目!」
補助腕が押す。
軸が動く。
「止めろ!」
止まる。
ロロが錆を布で拭く。
「二度目!」
押す。
輪が半回転する。
四方向の小弁が、一つずつ開く。
白い貝殻の間から、古い水が四面へ流れた。
「動いた」とハル。
「模型として」とロロ。
「直った?」
「二回動いた。直ったは百回後」
「厳しい」
「機械へ希望を押しつけるな」
ニアの補助腕が離れる。
「作業終了」
「勝手に続けない?」
「許可は二度」
ロロは輪を見た。
姉を見ない。
「……修理代、半分」
「誰へ請求」
「お前」
「払う」
「匿名送金禁止」
ニアの顔は動かない。
髪へ編んだボルトだけが、半回転した。
「手渡しで払う」
「受け取るとは言ってない」
「期限は」
「今決めない」
「保留を記録」セレナ。
「家族会議を公文書にすんな!」
「共同作業費です」
弁架を流れた水が、四面の貝へ触れる。
貝は動かない。
殻の四つの口だけが、別々の方向から水を受けた。
一つへ戻らないまま、生きていた。
配管室を出るには、四方向の扉があった。
第一潮刻扉。
第二潮刻扉。
第三潮刻扉。
第四潮刻扉。
現在開くのは、第四。
しかし、第四扉は後世修理で塞がれている。
代わりに第三扉へ新しい階段が付けられていた。
「階段を使う?」カイル。
「今の足下へ向いていない」とエリア。
「歩けば壁登り」ハル。
「左肩で索を持たない」セレナ。
「分かってる」
「言い方」
「分かってない。覚えてる」
「採用」
ロロは第四扉の封鎖材を見る。
同じ灰色樹脂。
「剥がせる。二時間」
「ない」とニア。
「階段なら四十分。潮刻まで三十二分」
「戻れない」タラ。
「別の道」とハル。
「ある」ニア。
彼女の補助腕が、配管室の奥の壁へ触れる。
見た目はただの石。
六本のうち二本が、別々の位置で振動を読む。
「壁厚一・八。向こうに旧保守空洞。中心弁前線へ直結」
「地図にない」とエリア。
「第四図の裏層にある」
透明な魚膜紙を壁へ重ねる。
紙の外へ出た線が、裏から戻る場所。
ちょうど、この壁の向こう。
「最短」とニア。
「荷重」とロロ。
「局所壁。上部梁へ二割。切断可能」
「住民区との接続」
「現図ではなし」
「現図って、どれ」
「第四図」
「一枚じゃん」
「最新損傷を含む」
「今の位相を含まない」
「時間がない」
ニアの胸元に、三つの鍵穴がある。
構造。
監査。
現場。
構造鍵へ、自分の小鍵を差す。
「構造上、切断可能」
「監査鍵は」とセレナ。
「エメへ照会」
「現場鍵は」
タラが壁を見る。
「まだ渡さない」
「理由」
「向こうの圧力を知らない」
「計測する」
「壁へ穴を開けるな」ロロ。
「非穿孔で読む」
六本の補助腕のうち、三本目が起きかける。
ロロがその関節を掴んだ。
「二本までだろ」
「精度不足」
「足りないなら切るな」
「切る前の計測」
「それで壊れる」
「接触だけ」
「お前の接触は信用してない」
ニアは、三本目を戻す。
「二本で計測する。時間は倍」
「最初からそうしろ」
「残り時間が減る」
「住民の残りを勝手に減らすよりまし」
ニアの補助腕二本が、壁へ密着する。
白い線が浮かぶ。
荷重線。
一本だけ切れば、壁の中央に人が通れる裂け目ができる。
中枢へ最短。
ニアは断機の刃を展開した。
刃が鳴る前に、正常な壁の音を一度だけ鳴らす。
下面区の機関祖礼を捨てたはずの女が、昔の習慣を捨てきれずに。
「現場鍵を待つ」と言いながら。
切る準備だけは、もう終えていた。