第635話 第六章「分かれる群れ」前編

国家は、分裂を嫌う。

 軍隊も、宗教も、学校も、家族も、分かれることへ悪い名前を付ける。

 離反。

 脱落。

 裏切り。

 崩壊。

 一つだったものが二つになる時、その間に敵意がなくても、人は敵意を発明する。

 なぜなら、二つになった後も互いを大切にできるなら、「一つでなければ守れない」という統治の言葉が弱くなるからである。

 しかし、生き物の群れは分かれる。

 水が足りなければ分かれる。

 草の芽吹く時刻が違えば分かれる。

 子を産む速度が違えば分かれる。

 分かれることは、終わりとは限らない。

 再会する日を決められるなら、別れは航路になる。

【別航路/翠獣環・二つ芽の分岐原/覚醒/春路選定日】

 ガンガ・オルバの前で、群れは二つに割れていた。

 比喩ではない。

 濡れた東路へ向く獣たち。

 乾いた高路へ向く獣たち。

 角の向き。

 荷車の向き。

 種袋の向き。

 幼獣の鼻先。

 全てが二方向を指す。

 以前のガンガなら、群れの鼓動を聞いただろう。

 大きな拍を探し、少数の拍を重ね、一つの歩調へそろえただろう。

 王は群れを一つにする。

 そう教えられていた。

 今、彼は鐘棍を地面へ置いていた。

 能力を使わない。

「東は水が多い」

 濡れた路を選ぶ者が言う。

「高路は胞子が少ない」

 乾いた路を選ぶ者が返す。

「幼獣は水が要る」

「喉病の子は湿気で悪くなる」

「種畑を見捨てるのか」

「高地の薬草を見捨てるのか」

 どちらも正しい。

 正しさが二つある時、人は間違いを探したがる。

 間違いを一つ作れば、正しさを一つにできるからだ。

 ネムは群れの端へ座っている。

 耳周りの薄い骨板へ、二方向の振動が届く。

 東の拍。

 高路の拍。

 彼は混ぜない。

 異なる心拍を混ぜず光へ分ける譜〈セパレート・ビート〉を使えば、二群の拍を見える色へ分けられる。

 だが、使わない。

 見える色にした瞬間、人々がその色へ従う危険を知っている。

 代わりに胸太鼓を二度打つ。

 長。

 短。

『聞いた。賛成ではない。』

「ガンガが決めろ」と年長者。

「元王候補だ」

「王にならなかったから、今は決められる」

「逆だ」とガンガ。

 低い声。

「王にならなかったから、お前たちへ決定を返す」

「返されても困る」

「困るのは、決める権利がある証拠だ」

「綺麗なことを言うな。幼獣が死んだら誰の責任だ」

 ガンガは黙る。

 責任を返す、という言葉で責任から逃げることはできる。

 それはタラが遠い海で言ったことを、彼は知らない。

 知らなくても、同じ問題へ着く。

「東路を選ぶ者は、東路の条件を記す。高路も同じ。私の名で免責しない」

「なら、お前はどちらへ」

「途中まで両方を歩く」

「身体は一つだ」

「だから途中までだ」

 ネムが太鼓を一回。

 休符。

 もう一回。

 ガンガは彼を見る。

「違う?」

 ネムは文字板へ書く。

『途中まで両方では、どちらにも最後までいない。』

 群れの何人かが笑う。

 ガンガは笑わない。

「その通りだ」

『選べ。代表でなく、自分として。』

 ガンガは東路を見る。

 高路を見る。

 東には、病み上がりの幼獣がいる。

 高路には、喉の弱い子らがいる。

 全員を守る理由は、全員と歩くことではない。

「私は高路へ行く」

 東路側がざわめく。

「裏切るのか」

「その言葉を使うな」

 ガンガの声が低くなる。

「道を分ける。敵にはならない」

「東で死者が出たら」

「知らせろ。高路から戻れる地点を三つ決める」

「戻れば高路が遅れる」

「そうだ。分かれれば、代償も分かれる」

 ネムが珠を一つ裏返す。

『合流日。』

「春の第三雨、旧角泉」

『遅れたら。』

「待つ期限は二日。三日目に足跡を残して進む」

『来なかったら。』

「裏切りと呼ばない」

 太鼓が二拍。

 聞いた。

 賛成ではない。

 その二拍の後、ネムは小さく声を出した。

「まだ」

 まだ決まっていないことがある。

 ガンガは待つ。

 ネムは長い時間をかけて書く。

『東路の薬箱を、高路へ半分持っていくな。人数比でなく病状で分ける。高路の乾燥布を、東へ渡す。合流日に返す約束を取らない。使ったらなくなる。』

「返さない贈与」と年長者。

 ネムは首を振る。

『共同備蓄の移動。誰の善意にもするな。』

 ガンガは、そこで初めて笑う。

「お前が王になれ」

 ネムの太鼓が、休符だけを打つ。

 嫌な質問への返事だった。

【現実/旧地下街・第四配管室/覚醒/第四潮刻まで二十二分】

「現場鍵、不許可」

 タラが言った。

 ニアの刃は、壁へ触れる寸前で止まる。

「理由」とニア。

「向こうが見えない」

「非穿孔測定で空洞。人熱反応なし」

「人がいないことと、人へつながっていないことは違う」

「圧力波は微小」

「微小を誰が受ける」

「現時点で不明」

「なら不許可」

 エメの声が伝声管から重なる。

『監査鍵も不許可』

「値は」とニア。

『壁の向こう、差圧零・四。低い。だが第四水門居住区の圧力計が同じ周期で揺れる』

「因果未確定」

『だから切らない』

「切れば中枢へ十一分」

『切らなければ』

「迂回六十八分」

『潮刻まで二十二分』

「間に合わない」

『中枢へ今行く理由』

「都市沈降の原因調査。ソウジの所在確認」

『住民区を危険にする理由にならない』

「沈降が続けば住民区も危険」

『将来危険を理由に現在危険を確定するな』

「残せる数を言って」

『今いる百八十三を、まず数えろ』

 伝声管の向こうで、エメが咳をする。

 通信が一拍途切れる。

 ニアはその空白へ言葉を入れない。

 エメが戻るまで待つ。

『必要とする。赦してはいない。お前の計算も必要だ。切断は不許可』

「了解」

 ニアは構造鍵を抜く。

 刃を畳む。

 ロロが見ている。

「何」ニア。

「本当に止めた」

「三鍵式」

「規則だから?」

「私が止まらないから作った規則」

「偉そうに言うな」

「誇っていない」

「分かりにくい」

「私も」

 ロロの補助腕が、少し下がる。

 怒りが消えたのではない。

 怒りの隣へ、別の値が増えただけだった。

 迂回路は、住民区の外を通る旧環状保守線だった。

 第四配管室から、旧学校の裏。

 墓地区外縁。

 北塔の反転軸。

 そこから中枢へ。

「六十八分」とニア。

「通常歩行なら」とエリア。

「負傷者、濁り、局所反転を含めて八十四」

「潮刻を一回またぐ」

「二回」タラ。「外周は中央より早い」

「なら、時刻ごとに待避室へ入る」

「待避室が四つとも生きている保証はない」ロロ。

「確認しながら」

「時間が増える」ニア。

「分かっている」

「では選択理由」

 エリアは壁の向こうを見る。

 見えない住民区。

「切断による被害が未確定。迂回による時間損失は確定」

「不確定な被害を優先?」

「不確定だから、当事者の拒否を上書きしない」

「目的達成率は下がる」

「目的を一つにしない」

「中枢到達と住民安全」

「地図原本の保全、負傷者の帰還、オルロイ号の維持も」

「増やすほど達成できない」

「減らせば、消したものは達成率へ入らない」

「計算の批判」

「計算条件の批判」

 ニアは髪のボルトを回す。

「迂回を採用。ただし、中枢到達期限を一潮刻後へ変更。父親痕跡の鮮度低下を損失へ記録」

 ハルが顔を上げる。

「俺の損失を、勝手に――」

「記録しない方がいい?」

「……消すな。でも、俺の名前で住民を急かすな」

「分離する」

「できる?」

「やる」

 約束ではない。

 作業宣言。

 ハルは、それ以上言わなかった。

 旧環状保守線へ向かう途中、第四水門居住区を通った。

 避ける予定だった住民区を、一度横切る。

 避けるための道へ入るには、生活の中を通る必要がある。

 言葉として少しおかしい。

 都市としては、よくある。

 ミミが、四面卓の一つで青い実を切っている。

「まだいた」ハル。

「家だから」とミミ。

「危ないかもしれない」

「外から来た人、みんな言う」

「避難は」

「どこへ」

 ハルは答えられない。

「決まったら教える」

「決めてから聞く?」

「聞いてから決める」

「遅いよ」

「知ってる」

 ミミは青い実を一切れ渡す。

「今度は嘘じゃない。食べられる」

 噛む。

 酸っぱい。

 少し塩。

「まずい?」

「好きじゃない」

「正直」

「でも食べられる」

「それでいい」

 生活には、好きではなくても残したいものがある。

 タラは居住区の圧力板へ、新しい数値を書き込む。

『外壁周期振動 零・四』

「全員へ避難準備を出す」と言う。

「避難命令?」カイル。

「準備。荷物を四分の一へ。行き先はまだ決めない」

「王家から船を出せる」

「王家の船へ乗らない者もいる」

「理由を聞いてよいか」

「昔、乗せたあと町へ戻さなかった」

「私の代ではない」

「船は王家印を見る。代替わりは見ない」

 カイルは右籠手を叩かない。

「なら、印を隠す」

「隠せば信用?」

「違う。選択肢を一つ増やすだけだ」

「泡より重い。まだ靴」

「靴から進まない!」