第636話 第六章「分かれる群れ」後編

 旧学校の裏へ出ると、そこは今の潮下へ傾く長い回廊だった。

 窓の外に、海中の墓標が並ぶ。

 墓標は四方向へ名前が刻まれている。

「死者も四つの下へ?」ハル。

「遺族が来る時刻を選ばないため」とタラ。

「墓参りへ時刻表を付けなかった」エリア。

「生きてる奴の都合で死者を移したくなかった」

 ニアが墓標を数える。

 数字としてではない。

 刻まれた間隔を読む。

「四十一年前の沈降死者」

「名前を読め」とロロ。

「時間が」

「一人だけでも」

 ニアは最初の墓標へ近づく。

 文字を読む。

「テラ・ネレ」

 タラが答える。

「祖母」

 次。

「オード・シェル」

「地図官」

 次。

「ミア・ヴォル」

「弁守」

 次。

「クル・アーン」

「住民代表」

 四地図を封緘した四人。

「全員ここにいる」とハル。

「記録に残った者は」とタラ。

 残らなかった者がいる。

 その言葉は言わない。

 空白として残る。

 環状保守線の入口は、旧学校の天井裏にあった。

 今の街下からは、斜め上。

 梯子を上る。

 ハルは左肩を使わず、右手と腰索で進む。

「一、二、三」

「跳んでない」とカイル。

「数えると身体が迷わない」

「迷ってるのは方向だけにしろ」

「王子は?」

「痛い時に苺を数える」

「今いくつ」

「九」

「多い」

「大粒だ」

「具体的な食べ物の冗談」とセレナ。

 カイルが振り返る。

「何だ」

「恐怖が強い時の癖です」

「台帳を読むな!」

「職務上の観察です」

「出版禁止!」

 保守線は、古い金属管の中を通る狭い道だった。

 両側へ、水圧弁。

 中央へ手摺。

 一定間隔で小さな待避室。

 最初の待避室は生きている。

 二番目は浸水。

 三番目は扉だけ残る。

「潮刻まで十二分」とエリア。

「次の待避室まで九分」とタラ。

「進む」とニア。

「撤退なら今」とセレナ。

「戻れば中枢調査を一潮刻延期」

「進めば局所反転を一回受ける」

「全員へ確認」とカイル。

 一人ずつ答える。

 ハル、進む。ただし左肩悪化で止まる。

 エリア、進む。路図連続展開は三分まで。

 カイル、進む。王盾炎は短時間のみ。

 ロロ、進む。吸入器残量二回。

 セレナ、進む。右手筆記なし。

 ニア、進む。補助腕二本。

 タラ、進む。現場鍵は保持。

 ノクスは――。

「ナァ」

「本人確認、進む」とセレナ。

 全員が進む。

【別航路/翠獣環・旧角泉手前/覚醒/分岐から三日目】

 群れを二つへ分ける決定より、分かれた後の朝の方が難しかった。

 決定の場には言葉がある。

 反対、賛成、保留、条件。

 翌朝には、空いた寝床がある。

 いつも同じ鍋をかき混ぜた腕がない。

 幼獣が、昨日まで並んでいた別の幼獣を探す。

 政治は分裂と呼び、地図は二本の線を引く。

 生活は、余った椀を一個ずつ片づける。

 高路の群れで、ガンガは朝食を六つの小皿へ分けた。

「五人家族へ六皿」と年長者が言う。

「東路の分」

「いない」

「いないから、食べない?」

「腐る」

「なら、旅標へ置く」

「獣が食う」

「それでいい」

 ガンガは一皿を、分岐へ戻る細い道の石へ置いた。

 感傷ではない。

 東路から遅れて来た者が食べてもよい。

 野獣が食べれば、足跡で通行を知れる。

 誰も来なければ、腐り方で湿度を測れる。

 別れの食事は、同時に測量具だった。

「王候補は何でも意味を付ける」とネム。

 声は掠れている。

 長く言わない。

「意味を付けないと、寂しい」

 ガンガは正直に答えた。

 ネムの右眉が上がる。

「今のは、記録しない」

「なぜ」

「兄の弱さを政治へ使う人がいる」

「お前は使わない?」

「使う。兄を止める時」

「厳しい」

 ネムは太鼓で休符を打つ。

 同意ではない。

 否定でもない。

 会話を終えないための空白。

 高路の最初の難所で、喉病の子が足を止めた。

 乾いた風が強い。

 湿気は少ないが、細かな白砂が声帯を刺す。

「東路へ戻る」と母親。

「今からでは、湿地の夜へ入る」と別の者。

「ここへ残すか」

「残すは死なすと同じ」

 全員の声が重なる。

 ガンガの胸へ、拍が押し寄せる。

 万獣鼓動を使えば、一瞬で不安を一つの歩調へそろえられる。

 誰かが決めてくれたと、全員が動ける。

 額の角が白く光りかける。

 ネムの指が、地面へ二度触れた。

 長。

 短。

『聞いた。賛成ではない。』

 ガンガは術を止める。

「本人」と言う。

 喉病の子を見る。

 少女は声を出せない。

 ネムが文字板を渡す。

『ここで休む。東へ戻らない。風を切る場所がほしい。』

「群れ全体が遅れる」と年長者。

『私の遅れを、全体の遅れと呼ばないで。先に行く人は行ける。』

「分かれたばかりで、また分かれるのか」

 ガンガは胸を二度叩き、地面を一度。

「道は二本で終わらない」

「まとまりがなくなる」

「まとまりを目的地にするな」

 高路の群れは、さらに三つになった。

 先行。

 休息。

 風除けを作る作業班。

 誰も裏切り者と呼ばない。

 呼ばないことには努力が要った。

 口へ出かけた者が三人いた。

 ネムがそのたび、休符を打った。

 風除けは、東路へ渡した乾燥布があれば早く作れた。

「渡さなければ」と誰かが言う。

「東の病人が使う」とネム。

「こっちにも病人がいる」

「分けた時に分からなかった」

「判断ミスか」

 ガンガは答える。

「そうだ」

「王なら失敗を見せるな」

「王ではない」

「聞き手なら」

「聞いても、未来は聞こえない」

 彼は鐘棍の布を外さない。

 鐘を鳴らせば、遠くの荷車へ合図できる。

 同時に、喉病の子へ痛みを与える。

 代わりに、自分の肩掛けを外す。

 大きな布。

 風除けの一面になる。

「寒いぞ」とネム。

「走る」

「英雄ごっこ」

「運動」

「違い」

「見ていろ。寒くなったら言う」

「自分で言う?」

「言う」

 ネムは珠を一つ裏返す。

 約束としてではなく、監査項目として。

 夜、ガンガは本当に寒いと言った。

 それだけで、群れの何人かが驚いた。

 王候補は寒くないと思っていたからではない。

 彼が自分の不足を、他人へ使える言葉にしたのが初めてだったからだ。

 旧角泉へ、二本の伝拍が届いた。

 東路から。

『湿地越え成功。幼獣一、発熱。薬箱の湿薬使用。乾燥布は全て使った。返却不能。』

 高路から返す。

『高路、三群へ分岐。喉病一、安定。風除け不足。返却要求なし。春第三雨、合流予定は維持。』

 ネムが最後へ一文を加える。

『予定は命令ではない。来られなければ足跡を残す。』

 ガンガは読む。

「裏切りと呼ばない、も」

「毎回書くと、呼ぶ準備に見える」

「書かない?」

「行動で残す」

 二つの群れは離れている。

 それでも、互いの道を消していない。

 遠い逆さ海で、エリアたちが住民区を避ける遠回りを選んだことを、彼らは知らない。

 同じ時刻、別の土地で、人々は同じ問いへ別の方法で答えていた。

 一つでなければ仲間ではないのか。

 違う。

 戻る日を命令せず、戻れない時の足跡を残せるなら、分かれた道も群れの一部である。

 六分後、道が細くなる。

 八分後、後ろの待避室が横へ回る。

 九分後、前の待避室が見える。

 十分快。

「間に合う」とハル。

「言うな!」ロロ。

「何で!」

「機械は聞いてる!」

「迷信!」

「機械屋の経験則!」

 十一分。

 保守線の中央が、音もなく離れた。

 道が壊れたのではない。

 環状区画そのものが、次の位相へ回り始めた。

 前の待避室が上へ移る。

 後ろの入口が下へ。

 彼らのいる管だけが、二つの区画の間へ残される。

「跳べる距離?」ハル。

「四・二メートル」エリア。

「俺は行ける」

「左肩」

「腰索二本」

「全員は無理」とニア。

「管を固定」とロロ。

「固定点が移動中!」

 道が消えていく。

 遠回りを選んだ。

 住民区を切らずに済む道を。

 その道が、潮刻の中で一本ずつ、都市から外れ始めていた。