第637話 第七章「切れば近い道」前編
近道とは、距離が短い道ではない。
目的へ早く着く道である。
ところが目的が複数あると、近道は一つではなくなる。
都市中枢へ早く着く道。
住民を危険へ近づけない道。
負傷者が帰れる道。
証拠を壊さない道。
途中で「行かない」と言える道。
五つの目的を一枚の地図へ載せると、線は絡む。
絡んだ線を見ると、技師は切りたくなる。
一本切れば、残りが読める。
一部を捨てれば、全体が残る。
ニア・ピクスは、その判断で何度も都市を救った。
同じ判断で、何度も人を切り離した。
彼女が恐れているのは、切ることではない。
切るべき一本を見落とすことである。
そして、それ以上に恐れているのは――自分が「切るべき一本」を決める人間として、再び必要不可欠になることだった。
【現実/旧環状保守線・分離管内/覚醒/区画完全分離まで百二十秒】
「残せる数を言って」
ニアは言った。
いつもの言葉。
人数を減らすためではない。
時間を数へ変えるため。
選択を形式へ載せるため。
だが、言われた側にはそう聞こえないことがある。
「全員」とハル。
「根拠」
「腰索七、夜獣一。前室まで四・二メートル。管があと二分は残る」
「管の回転角、毎秒一・八度。百二十秒後、前室との角差二百十六度。跳躍不能」
「百秒なら」
「一人十二秒で七人、八十四。ノクス三。余裕十三。負傷と索絡みを含まない」
「じゃ、全員で十三秒余る」
「それは余裕ではなく、未計上」
「言葉を変えただけ」
「意味を分けた」
「今は喧嘩してる場合じゃない!」ロロ。
「喧嘩ではない。計算条件」
「それを喧嘩って言うんだよ、人間は!」
分離管が軋む。
前の待避室は四・二メートル先。
だが、高さが増え続ける。
今なら跳べる。
あと三十秒で、カイルの盾を踏み台にしても届かない。
「順番」とセレナ。
「軽量、無傷、索設置可能者から」とニア。「ノクス、セレナ、エリア、タラ、ロロ、ハル、カイル、私」
「最後はお前?」ロロ。
「補助腕で自力移動可能」
「二本しか使わない約束」
「二本で足りる」
「嘘」
「推定成功率八十二」
「それを嘘って言う!」
ニアは答えない。
本当に動揺した時、数を言い間違えない。
数そのものを言わなくなる。
だが今は、数を言った。
「待って」とエリア。
光板へ、分離管の構造を描く。
「管を前室へ渡す」
「固定点なし」とニア。
「回転軸はある」
「軸を外せば管自重一・四トン」
「切らない。四つの継ぎ輪を順に外す」ロロ。
「時間」
「九十秒」
「工具腕二本では百四十」
「お前の二本を借りる」
ロロが言った。
工具箱一個分の距離を残して。
「貸与条件」とニア。
「俺が命令する。お前は復唱しない。違うと思ったら停止条件を言う。勝手に切断しない」
「了解」
「『了解、つまり』って言うなよ」
「それはバズ」
「知ってる!」
ニアの補助腕二本が、ロロの側へ伸びる。
ロロは触れさせる位置を指で示す。
「第一腕、上輪。第二腕、左輪。俺が下。ハル、右輪の安全索。左肩使うな」
「右手だけ」
「カイル、管が落ちたら盾」
「で、誰を守ればいい?」
「管じゃなく中の全員!」
「了解!」
「セレナ、秒読み!」
「九十四」
「もう九十切ってる!」
「だから正確に」
「正確が怖い!」
切れば一秒だった。
断機なら、軸荷重線を一本断つだけで、管は回転から解放される。
ただし落ちる。
落ちる管を、誰かが受けなければならない。
受ける者へ一・四トンの計算外が行く。
だから外す。
一本ずつ。
「上輪、半回転!」ロロ。
ニアの第一腕が回す。
「速い!」
「指定角まで」
「左輪、固着!」
「熱膨張」
「水中だ!」
「局所摩擦熱」
「冷やす!」
「外水を入れると圧が」
「じゃ、叩く!」
「材質脆化率――」
「停止条件だけ言え!」
「亀裂音二回」
「一回まで叩く!」
ロロが工具を振る。
金属音。
一回。
左輪が動く。
「右!」
ハルが片手で安全索を引く。
肩へ負荷が来る前に、カイルが索を腰へ巻く。
「俺が持つ」
「背中」
「苺十二」
「増えた!」
「大豊作だ!」
「冗談の具体性が危険域」とセレナ。
「秒読み!」
「四十八」
下輪。
ロロの左手。
自分の短い指で回す。
「ロロ坊、角度が――」
ニアの声が柔らかくなる。
一瞬だけ。
ロロの手が止まる。
「呼ぶな」
「訂正。ロロ、下輪が二度ずれている」
「分かってる」
「右へ」
「分かってる!」
「秒」セレナ。
「三十一」
下輪が外れる。
四つの継ぎ輪が自由になる。
分離管は落ちない。
回転軸から離れた慣性で、ゆっくり前室へ向かって振れる。
「盾!」ロロ。
カイルが物理盾を床へ打ち込む。
管の先端が盾へ当たる。
火花ではなく、水の衝撃。
カイルの背が曲がる。
「七!」
「苺?」ハル。
「肋骨!」
「笑えない!」
「だから笑ってる!」
管が前室へ渡る。
一本の橋。
全員が走る。
ハルは左肩を使わず、右手と腰索。
エリアは踵の痛みを申告し、タラへ一度支えを頼む。
セレナは右手首を胸へ固定。
ロロは最後から二番目。
ニアは最後。
二本の補助腕を管へ残し、身体を振る。
距離が足りない。
第三腕を起こせば届く。
起こさない。
「ニア!」ロロ。
「二本で足りる」
「足りてねえ!」
ロロが工具箱を投げる。
「何を!」
「掴め!」
ニアの右手が、工具箱の取っ手を掴む。
温度は分からない。
重さは分かる。
ロロの工具箱。
四百二十一個の安心と不安。
「落としたら全額請求!」
「金額」
「一生働け!」
「具体性不足」
「今だけ黙れ!」
ニアは工具箱を介して引かれ、前室へ入る。
背後で分離管が外れる。
海中へ回転しながら消える。
切らずに渡った。
時間は使った。
管は失った。
誰も置いていかなかった。
完全な成功ではない。
完全な成功という言葉は、たいてい失った物の記録を省く。
【現実/墓地区外縁・旧圧力廊/覚醒/第五潮変まで四十七分】
前室の先は、墓地区外縁だった。
ここでは墓標が壁へ埋め込まれている。
潮刻ごとに死者が落ちないよう、名前だけが四面へ向く。
ニアは通り過ぎる。
「読まないの」とハル。
「時間」
「一人だけでも」ロロ。
前章と同じ要求。
ニアは最初の名を読む。
「サド・ネレ」
タラが答える。
「祖父の兄」
「圧力工」
「そう」
「死亡時刻」
「名前を読めって言ったんだ、台帳作れって言ってねえ!」ロロ。
「私には、時刻と荷重を外すと人が記憶できない」
「それ、言い訳?」
「欠陥説明」
「直す気は」
「ある。方法は不明」
ロロは怒る言葉を失う。
不明と言われたからではない。
姉が自分の欠陥を、直せる前提で初めて言ったからだ。