第638話 第七章「切れば近い道」後編
旧圧力廊の終点で、例の壁へ再び出た。
同じ壁の反対側。
こちらから見れば、壁は中枢へ続く保守隔壁。
第四図の裏層線。
距離、一・八メートル。
「ここを切れば中枢前」とニア。
「またか」とロロ。
「状況が変わった」
「何が」
「現場側から圧力計が読める」
壁の脇に、古い計器。
針は零・四。
低い。
「住民区計と同周期」とタラ。
「だが位相が逆」とニア。「こちらが上がる時、住民区は下がる。直結ではない。緩衝槽を介す」
「なら切れる?」ハル。
「隔壁自体の荷重は局所。切断後、緩衝槽の水がこちらへ逃げる。住民区への影響、計算上零・〇六」
「零・〇六って」
「居住許容内」
「人数へすると」
「人数へ直接換算できない」
「じゃ、残せる数を言えない」
ニアは一拍止まる。
「そうだ」
「切る?」
「三鍵がそろえば」
構造鍵。
「切断可能」
監査鍵。
伝声管へ接続する。
「エメ。値、零・四。逆位相。緩衝槽経由。影響推定零・〇六」
返事がない。
「エメ」
『聞こえてる』
声が低い。
『右腿、痛み三。左手幻肢、五』
「身体値は校正されていない」
『知ってる』
「壁切断と因果未確定」
『まだ切っていないのに痛い』
「現在の潮刻変化」
『同じ周期では出ない』
「計器は許容内」
『計器の外へ流れてる』
「どこ」
『分からない』
ニアの判断が、一瞬早くなる。
分からない値。
校正されていない痛み。
現場の時間は減る。
以前の彼女なら、切った。
不確定を待てば、確定した崩壊が来る。
「監査鍵」とニア。
『不許可』
「根拠不足」
『根拠不足だから不許可』
「全体沈降の時間損失」
『必要とする。赦してはいない。だから止める』
「感情を鍵にしないで」
『痛みを証拠にしていない。停止理由は不明負荷。調べろ』
「残り四十一分」
『四十一分で調べられないなら、切る資格がない』
通信が切れる。
「監査鍵なし」とセレナ。
「現場鍵もなし」とタラ。
「時間」とニア。
「まだある」とハル。
「減っている」
「だから調べる」
「調べている間に父親が移動する可能性」
「俺へ戻すな」
「損失として」
「父さんは、俺の急ぐ理由。住民を切る許可じゃない」
「理解」
「本当に?」
「まだ完全ではない」
「それならいい」
完全な理解を待たない。
不完全だと明記して進む。
【現実/旧圧力廊・住民区通信盤/覚醒/全体沈降限界まで三十八分】
不明な負荷を調べるため、一行は壁の向こうへ声を送った。
穴は開けない。
古い配管へ伝声膜を当て、壁そのものを受話器にする。
「第四水門南面、聞こえるか」とタラ。
返事は、すぐには来ない。
配管の向こうで、誰かが鍋を置く音。
子供を別の面へ移す足音。
水槽の弁を閉じる金属音。
それから、老女の声。
『聞こえる。誰』
「タラ。外から来た調査者と一緒」
『王家か』
「いる」
『帰れ』
「今、壁の圧が落ちてる」
『王家だけ帰れ』
カイルが伝声膜へ顔を寄せる。
「王太子カイル・アークレイだ。帰れと言われた。理由を聞いてよいか」
『聞く前に帰れ』
「了解した。私は話さない。救難船と盾だけ残す」
即座だった。
老女が黙る。
『本当に黙るのか』
「今から」
カイルは一歩退く。
王子が黙ると、場は不自然に静かになる。
身分は、発言していなくても音量を持つ。
「こちらは星律官セレナ」とセレナ。「壁の向こうの生活水槽について、公開したくない情報は答えなくて構いません。現在、切断案が停止中です」
『切るのか』
「不許可です」エメの声が別回線から入る。
『エメか』
『私だ』
『まだあの女を使ってるのか』
『必要としてる。赦してない』
『便利な言い方』
『便利じゃない。毎回痛い』
ニアは何も言わない。
「南面生活水槽の用途」とセレナ。
『飲み水。空気壁。貝床。ミミの浮力実。あと、墓標洗い』
「配管が十三拍ごとに戻る理由」ロロ。
『知らない。昔から』
「昔は七拍だった記録がある」
『四十一年前の配管図を今へ押しつけるな』
「押しつけない。変わった場所を知りたい」
『三十年前、北面の貯水槽が割れた。南へまとめた』
「誰が修理」
『名前は知らない。外から来た六人。二人は町へ残った』
「工房印」
『灰色の魚。腹に三本線』
ロロが壁の灰色樹脂を見る。
「同じ」
セレナが記録する。
「その修理で、旧緩衝槽と生活水槽が接続された可能性」
『可能性で切るな』
「切りません」ニアが初めて言う。
老女の声が硬くなる。
『お前が言うな』
「その通り」
『何がその通りだ。謝ってるつもりか』
「違う。私の発言だけでは停止保証にならない。三鍵がある。監査不許可、現場不許可。構造鍵も抜いた」
『鍵が壊れたら』
「ロロが電源を抜く」
「俺を勝手に最終停止装置へすんな!」
『ロロ?』
配管の向こうで、声が少し変わる。
『ピクス工房の子か』
「子じゃない。修理工」
『昔、黄色い服で水路へ落ちた』
「誰だよ!」
『サナ・クレイ。お前を引き上げた』
「……覚えてない」
『三歳だった』
「それは覚えてない!」
『姉が来るまで泣かなかった』
ロロの補助腕が全部――二本しか動かないが、その二本が垂れる。
ニアの顔は動かない。
「姉は」とサナ。
沈黙。
「ここにいる」とロロ。
『そうか』
それだけ。
赦しも呪いもない。
生活の声は、ときに劇的な答えを拒む。
別の配管から、三人の声が入った。
水藻槽を守る男。
薬用貝を育てる二人。
墓標の汚れを落とす少女。
それぞれ、生活水槽から何を受け取っているかを言う。
『水』
『空気』
『胞子の温度』
『死者の名を読める透明さ』
ニアは項目を数字へ変える。
水量。
圧力。
温度。
透明度。
「名前も」とロロ。
「公開拒否がある」
「本人へ聞け」
ニアは伝声膜を取る。
「構造計算へ、生活用途とともに呼称を入れてよいか。拒否可能」
水藻槽の男。
『名前はいらない。水藻槽守、一人』
薬用貝の二人。
『ミレとオト。二人。名前を入れろ。外へは出すな』
墓標の少女。
『名前はタウ。死者の名前を洗う人。私の名前も残して』
ニアが書く。
『水藻槽守 一』
『ミレ・オト 薬用貝 二 外部非公開』
『タウ 墓標洗い 一 本人希望で記名』
数字の横に、用途。
用途の横に、公開条件。
「計算が遅くなる」と自分で言う。
「嫌?」ハル。
「遅くなる。だが、消える値が減る」
「どっちを選ぶ」
「今は遅い方」
ロロが見ている。
「何」とニア。
「別に」
「監査内容なら」
「まだ言葉になってない」
「保留」
「勝手に分類すんな」
「分類せず待つ」
「……それでいい」
生活用途を入れた再計算で、壁の零・〇六は消えた。
平均値は同じ。
最大値が変わる。
「潮刻切替の十三拍目、南面水槽へ一括負荷」とニア。
「生活用途があるから?」ハル。
「用途そのものではない。各設備が別の時刻に弁を開く。平均化計器は、その順番を消していた」
「人の暮らしを入れたら、機械の動きが見えた」エリア。
「機械だけを見た方が精密ってわけじゃない」とロロ。
「そうだ」
「早いな」
「証拠がある」
「感情でも言え」
「今は不明」
「いつも不明!」
壁の向こうから、サナの笑い声が来る。
『姉弟、似てるよ』
「似てない!」
ロロだけが叫ぶ。
ニアは叫ばない。
だが髪のボルトを、逆方向へ一つ回した。
ニアは壁を切らず、読む。
二本の補助腕。
自分の両手。
触覚が薄い指。
壁へ手を当てる。
温度は分からない。
振動は分かる。
低い周期。
住民区計と逆。
その間に、極めて短い脈がある。
「十三拍ごとに一回」と言う。
「何が」とロロ。
「戻り圧」
「緩衝槽なら七拍」
「現図と違う」
ロロが壁の下端を見る。
灰色樹脂。
後世修理。
「ここも三方向塞いでる」
「見える範囲では」
「壁の向こうで、第四管が住民区へ回ってるかも」
「地図にない」
「地図より後の修理」
セレナが樹脂片を採取する。
「第四水門配管室と同じ工房印」
エリアが四枚の地図を重ねる。
「第二図には、壁の先に小さな貯水槽。第三図では削除。第四図は裏層線だけ」
「削除じゃない」とロロ。「統合したんだ。一本へ」
「一方向修理」
「緩衝槽を、住民区の生活水槽へつないだ」
「なぜ」カイル。
「水を無駄にしないため。人手を減らすため。たぶん両方」
「切ると」
「この壁の圧が逃げる。生活水槽が補う。住民区の空気壁が、その分だけ薄くなる」
「零・〇六では」
「平均なら」とロロ。「潮刻切替の一瞬、全部が一つの方向へ乗る」
「最大値」
「計器が平均化して消してる」
「なら別証拠」とセレナ。
全員で探す。
壁下の水滴。
十三拍ごとに逆へ跳ねる。
骨透け魚。
壁へ近づかず、弧を描いて避ける。
貝。
この壁だけ、殻の口が四方向でなく住民区側へ偏る。
配管音。
七拍のはずが十三拍。
泡。
壁の目地へ吸われ、戻る。
エメの痛みは、答えではない。
答えを探す場所を示した。
「影響推定」とニア。
数字を出す。
出した数字が、自分の最初の計算を否定する。
「潮刻切替時、生活水槽圧低下二・八。第四水門の外壁許容二・一」
「超える」とハル。
「零・七」
「人数」
「居住区南面の六十四人が、即時浸水域」
残せる数。
初めて人数として出た。
「切れば、六十四を危険へ入れる」
ロロがニアの胸を押す。
強くない。
工具箱一個分の距離が、半分になる。
「お前、切ろうとした」
「そうだ」
「二回」
「そうだ」
「俺が止めなかったら」
「エメとタラの鍵で止まった」
「そういう話じゃねえ!」
「何の話」
「お前が、また人数を見ないで――」
「人数が地図になかった」
「だから!」
ロロの声が裏返る。
「地図にいない奴を、先に探せって話だ!」
ニアは答えない。
数を言わない。
壁の向こうから、低い振動が来る。
エメが声を上げる。
『値、上がった。右腿六。住民区計、二・〇、二・一――』
警報。
第四水門居住区の空気圧が、急に下がり始める。
壁を切っていないのに。
見えない負荷は、すでにどこかで動いていた。