第639話 第八章「住民区の遠回り」前編
避難計画は、人を点にする。
点には荷物がない。
病気がない。
嫌いな相手がいない。
戻りたい部屋も、二度と見たくない廊下もない。
百八十三人を地図へ載せる時、百八十三の点を描けば、計算は速い。
だが、人は点ではない。
薬の種菌を運ばなければ移れない者。
王家の船へは乗らない者。
墓標の名前を写し終えるまで離れない者。
子供だけ先に出す者。
家族と同じ行き先を拒む者。
避難そのものを拒む者。
拒否は、計画の外ではない。
拒否を外へ置いた計画は、従わない人間を障害と呼ぶ。
障害と呼ばれた人間は、次に数字から消える。
エリア・ルーンベルグは、地図へ空白を残すことを覚えた。
この日、彼女はさらに学ぶ。
空白は、まだ決めていない場所である。
拒否は、何も書かれていない場所ではない。
そこには太い線で、「行かない」と書かなければならない。
【現実/第四水門居住区・南面/覚醒/外壁許容超過まで三十四分】
「南面圧、二・二!」
タラの声が居住区全体へ響く。
「街下南、第二気泡壁、漏れ三! 足下西の者は、次下北へ移れ! 『下へ逃げろ』と言った奴は後で靴紐!」
警報鐘が四方向から鳴る。
居住区の暮らしが、一斉に動く。
卓を畳む。
寝床を外す。
水藻槽へ蓋をする。
子供の靴を次下側へ結ぶ。
混乱ではない。
生活が、何度も練習した形へ変わる。
しかし今回は、壁の圧力が下がり続けている。
いつもの潮刻避難ではない。
「外壁許容二・一。現在二・二なら、もう超えてる?」ハル。
「逆」とロロ。「内圧が二・二から落ちてる。外水圧との差が許容を超えるまで三十四分!」
「数字が反対!」
「圧力は高けりゃ強いって話じゃねえ!」
「人生みたいだな」とカイル。
「王子、誰を守るか聞け!」
「で、誰を守ればいい?」
「南面六十四! 他の百十九も連鎖圧が来る!」
「全員だな!」
「簡単に言うな!」
「簡単にするため役割を分ける!」
カイルが右籠手を左拳で二度叩く。
今度は決断。
「王家権限は、この居住区で使用しない。船と物資だけ提供。行き先はタラと住民が決める」
「期限」とタラ。
「この避難が終わるまで」
「終了条件」
「南面圧安定、または王家船の撤収」
「記録」とセレナ。
「今回は褒めてもいいだろう!」
「職務です」
「一度でいいから!」
「避難後に検討します」
「予約を取った!」
エリアは居住区中央へ、光板を四枚立てた。
第一図。
第二図。
第三図。
第四図。
その中央へ、現在の住民分布を重ねる。
百八十三の点。
描きかけて、止める。
「名前か世帯単位」とタラ。
「避難速度の計算には人数が必要」
「人数だけで行き先を決めるな」
「決めない。計算と選択を分ける」
「どう」
「最初に希望を取る。次に通れる路を示す。選び直してもらう。最後に未回答を残す」
「未回答を、同意へ数えない」
「数えない」
セレナが記録板を持つ。
「個人名は公開路図へ載せません。世帯符号と必要条件。原簿は住民側保管」
「王都へ写しを」カイルが言いかける。
タラが見る。
「送らない」とカイル。「救難費の証明には匿名人数だけ」
「後で費用を拒まれたら」ロロ。
「王家印で私が負担を認める」
「王家印は使わないんじゃ」
「住民の所有や命令には使わない。私の支払い責任へ使う」
「印にも向きがある」とハル。
「この土地の癖を理解してきたな」
「褒めてる?」
「半分は」
希望は、五つに分かれた。
一、ゼロスター号またはオルロイ号へ一時退避。
二、北塔の高圧空気区へ移動。
三、第四水門北面の小居住区へ分散。
四、外郭の空気庭園へ移り、水藻槽を維持。
五、残留。
「残留二十七」とセレナ。
「多い」とハル。
「多い少ないは評価」とタラ。
「理由を聞く」
「聞いて、変えさせる?」
「変えさせない。知らないまま道を作れない」
最初の残留者は、白髪の水藻師だった。
両腕へ緑の培養管を抱えている。
「これを置いていけない」
「持っていける量は」とエリア。
「生きた種菌十二槽。揺らせない。足下が二度変わると死ぬ」
「人より菌?」ハル。
「菌がなければ、戻った百八十三人の空気がない」
「一緒に運ぶ」
「誰が」
「俺」
「左肩」セレナ。
「右で」
「一槽三十キロ」と水藻師。
「俺じゃない誰かと!」
「具体性が成長した」とセレナ。
「褒めた?」
「職務です」
「それ便利だな!」
エリアは水藻槽を条件へ入れる。
『揺動二回未満。
同一重力位相維持。
搬送具要。』
次の残留者。
墓番三人。
「四十一年前の名を写し終えていない」
「今でなければ?」エリア。
「外壁が割れれば、墓標が流れる」
「複製板を持つ」セレナ。
「お前が全部写せるか」
「右手首制限。左手で速度六割」
「なら残る」
「写真記録」とロロ。
「水濁りで読めない」
「拓本」ハル。
「濡れてる」
「灯りを斜めに当てて影を取る」とエリア。「文字を読むのでなく、凹凸を記録する」
「原本は」
「残る。あなたたちが戻る場所として」
「戻れる保証」
「しない」
墓番は黙る。
「保証しないのか」
「できない。戻り路を残す努力と、戻れない場合の記録を分ける」
三人は相談する。
一人が残ると言う。
二人は記録を持って退避する。
「一人を置いていけない」とハル。
「本人が残る」とタラ。
「危険」
「説明した」
「見捨てるのと違う?」
「救命索を付け、退出時刻を決め、迎えを残す。それでも残るなら、違う」
「死んだら」
「私たちも責任を負う。本人だけの責任にしない」
尊重は、責任を返すことではない。
選択の結果を共同で持つこと。
ハルは唇を噛む。
「退出時刻、次の鐘三つ目」
墓番が言う。
「それまでに二面だけ写す」
「救命索は二本」とハル。
「一本でいい」
「二本」
「なぜ」
「一本は切れる」
「お前の肩は」
「俺が持たない。船へつなぐ」
墓番は、そこで初めて頷いた。
王家船へ乗らない者は、十九人いた。
「王家に連れ出された家族が戻らなかった」
「私の時代ではない」とカイル。
言わない。
喉まで来た言葉を飲み込む。
「乗らなくていい」と言う。「船印を外した救命艇を渡す。操船は住民側。王家兵は乗らない」
「追跡符は」
「外す」
「費用」
「王家負担」
「借りになる」
「ならないよう、救難費として公開する。個人名は載せない」
「王子へ感謝しろと言われる」
「言わせない命令は出せる」
「命令で感謝を止める?」
「……制度で、勲功宣伝へ使わせない」
「泡より」
タラが言う。
「船の甲板くらい」
「やっと全身乗れた!」
「まだ出航してない」
「厳しい!」
残留二十七は、九へ減った。
減らしたのではない。
条件を変えた。
水藻槽を運べる。
墓標を記録できる。
王家船へ乗らずに済む。
家族と別の行き先を選べる。
拒否が障害ではなく、必要条件へ変わると、道が増える。
それでも九人は残る。
「九」とニア。
彼女の光板には、以前なら『未退避』とだけ書かれただろう。
今は違う。
『残留選択 九。
理由確認済み 七。
回答拒否 二。
退出時刻あり 六。
退出時刻なし 三。
救命索許可 八。
索拒否 一。』
「索拒否まで条件へ?」エリア。
「拒否を計算外にすると、索がある前提で救助時間を出す」
「救命索は必要」とハル。
「必要でも、勝手に結べない」ニア。
「死んだら」
「救助側の危険が増える。だから拒否を別条件へ入れる」
「それ、尊重?」
「まだ言葉が分からない」
「でも入れた」
「計算精度が上がる」
「そういう言い方!」ロロ。
「他の言い方を知らない」
「覚えろ!」
「教えて」
ロロの口が開く。
閉じる。
「……後で」
「期限」
「この町を出るまで!」
「記録」セレナ。
「するな!」
「します」
問題は道だった。
大きな中央門は、第四水門南面から北面へ最短でつながる。
だが圧力差が大きく、開けば外壁が割れる。
小門は十二。
一つずつなら、圧力を分散できる。
ただし、全て違う潮刻へ開く。
「第一小門、現在開放可。第二は七分後。第三は街下反転後。第四は故障」とタラ。
「第五から第八は第三図」エリア。
「第九から十二は第四図の裏」ロロ。
「全員を順番に流すと五十三分」とニア。
「許容まで二十九」とセレナ。
「間に合わない」とハル。
「一列なら」とエリア。
四枚の地図を見る。
小門は、地図ごとに異なる場所にある。
異なるのではない。
潮刻ごとに接続先が変わる。
「四列」と言う。
「同時に?」カイル。
「第一図の小門一、第二図の小門五、第三図の小門九、第四図の裏門十二。現在の四局所位相が、居住区内で同時に残っている」
「都市全体の潮刻は一つじゃない」とハル。
「中央が遅れ、外郭が先行し、住民区の局所弁が補正している」
「四つの時刻が一緒にある」
「正確には、四位相の残留」
「長い」
「命がかかっているから長くする」
エリアは、四本の路を描く。
一列目、ゼロスター号。
二列目、北塔空気区。
三列目、北面小居住区。
四列目、空気庭園。
それぞれへ、違う条件。
水藻槽は第一潮刻固定路。
高齢者は局所弁の変化が少ない第二路。
王家船拒否者は第三路。
残留者の退出索は第四裏路。
「最適解じゃない」とニア。
「誰にとって」エリア。
「総時間」
「総時間は最短になる。個別距離は長い」
「事故率」
「四列で上がる」
「指揮系統」
「一つにしない」
「衝突する」
「門ごとに停止鍵を置く」
「人員」
「タラ、ロロ、ニア、私」
「あなたは路図維持で肺と踵が限界」
エリアは言い返さない。
「申告する。路図連続展開は三分。休止一分。四回で終了」
「足りない」
「ハルの身体記録を使う。私が休む間、次下予測を声で返して」
「任せて」とハル。
「分からない時は」
「分からないと言う」
「具体的」
「褒めた?」
「今は本当に」
ハルは少し照れ、配達鞄の蓋を一回だけ弾く。