第640話 第八章「住民区の遠回り」後編

 避難が始まる。

 一番門。

「足下北! 街下西! 次下天井!」タラ。

 住民が、手摺を渡る。

 子供が泣く。

 泣きながら、自分の靴紐を次下側へ結ぶ。

 二番門。

 ロロが故障した蝶番を、切らずに裏返す。

「開く方向が逆!」

「逆じゃねえ、今の足下へ合ってる!」

「取っ手が上!」

「上を言うな! 何の下か!」

「靴紐取られる!」

「今は徴収停止!」タラ。

「規則が危機で休んだ!」ハル。

「改訂した!」

 三番門。

 カイルが物理盾で、水圧波を受ける。

「苺」

「いくつ!」

「四!」

「減った!」

「小粒!」

「具体性がまだ危険」とセレナ。

 王盾炎は一秒だけ。

 水を蒸気へ変えず、門縁の誓紋を焼き切る。

 反動が肋部へ返る前に解除。

「一秒」とカイル。

「記録」とセレナ。

「褒めて」

「避難後」

「予約継続!」

 五番門。

 水藻槽十二。

 バズがオルロイ号から来た。

 三本の安全索。

 灰黄色の作業服。

「了解、つまり槽を傾けず、第一位相を保ち、三人一組で――」

「停止条件」とエメ。

 エメも来ている。

 右腿を引きずり、圧力計を腰へ付ける。

「傾斜五度、泡径一センチ、俺の呼吸四拍、槽温二度変化!」

「自分で言えた」とロロ。

「俺の判断で運ぶ。ただし、停止条件は共有!」

「英雄新聞の見出しには長い」とハル。

「今は長くていい!」

 水藻師が槽へ手を添える。

「菌を人より先にしないでくれ」

「どういう意味」とバズ。

「私が倒れたら、槽だけ運ぶな」

「両方」

「できない時」

 バズの返事が止まる。

 以前なら、ニアを見る。

 今は見ない。

「人を先。槽は一つ残れば再培養できる。俺が決める」

「記録」とエメ。

「褒めない?」

「作業後」

「みんな予約制!」

 九番門で、局所反転が起きる。

 門の向こうの足下と、こちらの足下が九十度違う。

 住民が一人、境目で浮く。

「索!」

 ハルが右手で投げる。

 一、二、三。

 左肩は使わない。

 腰を落とし、カイルへ索端を渡す。

 エリアの路図が、足場を光で示す。

「左へ二歩!」

「何の左!」

「あなたの左!」

「今逆さ!」

「左は逆さでも左!」

 第一章の言葉が返る。

 住民は光路へ足を置き、門を越える。

 エリアの踵に痛みが走る。

「休止」と自分から言う。

 路図が薄くなる。

「ハル、三分」

「泡、今の浮力は右壁! 次下候補は前の天井! 砂は遅れてる! 魚、内臓移動半分!」

「分からない点」

「十二番門の向こう!」

「空白で残す!」

「了解!」

 命令と返事ではない。

 共同で不明を守る会話。

 許容超過まで七分。

 避難済み、百五十七。

 残留九。

 途中、十七。

 水藻槽、九。

 三槽は停止条件へ達し、置かれた。

 墓標記録、二面完了。

 南面圧、一・九。

「限界まで二」とロロ。

「大門を開けば一気に抜ける」とニア。

「外壁が先に割れる」とエメ。

「小門残り三」エリア。

「十二番、開かない!」タラ。

 第四図の裏門。

 透明な魚膜紙では、線が紙の外へ出て戻る。

 現実の門は、壁の裏へある。

「今の街下から触れない」とロロ。

「次の局所反転まで四分」とニア。

「限界二分」

「間に合わない」

「言うな!」

「事実」

「機械が聞く!」

「機械へ感情を付けるな」

「お前は人から感情取るな!」

 ロロが壁へ工具を当てる。

 切れば早い。

 だが、十二番門の裏には残留者三人の救命索が通っている。

「切らない」とロロ。

「別案」とニア。

「言え」

「小門三つを同時に開く。圧力を三方向へ逃がす」

「操作位置が離れてる」

「補助腕を四本使えば」

「二本まで」

「時間が」

「約束を壊すな」

「住民許可があれば」

 タラが見る。

「四本目まで、一分。動作は門開放だけ。終了後、停止」

「監査」とエメ。

「負荷値を読む。指先感覚消失で停止」

「構造」とロロ。

「俺が角度を指示。勝手に切らない」

 三鍵ではない。

 断機ではない。

 補助腕の一時増加。

 それでも、支配権を増やす行為には許可が要る。

「現場鍵、許可」とタラ。

「監査鍵、許可」とエメ。

「構造鍵、俺」とロロ。「許可」

 ニアの背から、第三、第四腕が起きる。

 動きは正確。

 速い。

「一番左、二十度!」ロロ。

「左はどの――」

「お前の第三腕の左!」

「了解」

「復唱は!」

「しない条件だった」

「今はして!」

「条件変更を記録」セレナ。

「忙しい!」

 三つの小門が同時に開く。

 圧力が三方向へ逃げる。

 外壁が鳴る。

 一度。

 二度。

 亀裂ではない。

 古い壁が、負担を別の面へ渡す音。

「南面圧、一・八、安定!」エメ。

「避難者、全員通過!」セレナ。

「残留九、救命索八、索拒否一、位置確認!」タラ。

「水藻槽九、生存!」バズ。

「菌に生存って言う?」ハル。

「今は言う!」

 ニアの第三、第四腕が止まる。

「感覚」とエメ。

「右指二、左指一。許容」

「一分前」

「停止」

 補助腕を畳む。

 自分から。

【現実/第四水門居住区・十二番裏門前/覚醒/南面圧限界まで九分】

 最後の十二人は、歩くのが遅いから残っていたのではなかった。

 行き先を決めていないから、動かなかった。

 救難計画は人を「未避難」と書く。

 未避難という語は、避難すべきなのに遅れているように聞こえる。

 実際には、行く先を示されていない人、示された先を拒む人、持ち出す物を他人に決められたくない人が、同じ一語へ押し込まれる。

「王家船、旧学校、オルロイ号、墓地区高面」とエリア。「四つある」

「どれも嫌」とサナ。

「理由を聞いてよい?」

「王家船は戻らない。旧学校は肺に悪い黴。オルロイは知らない船。墓地区は夫の墓と同じ面で眠れない」

「五つ目を作る時間がない」とニア。

「だから切る?」サナ。

「切らない」

「なら、時間がないを私へ渡すな」

 ニアは時計を見る。

 残り八分四十一秒。

 数字を先に言いかける。

 言わない。

「何があれば動ける」

「今の部屋を、小門の外へ三十歩だけ移す」

「部屋を?」ハル。

「寝床と薬棚。避難先じゃない。圧の低い隣区画へ移るだけ」

「仮退避」とエリア。

「行き先は後で決める」

「可能」とロロ。「壁家具の留め具を外して、床板ごと滑らせる」

「時間」ニア。

「六分」

「限界九分」

「間に合う」

「失敗条件」

「床板の歪み二ミリ。薬瓶転倒一本。サナがやめろと言ったら停止」

「本人停止鍵」

「許可?」

 サナは頷かない。

「寝床の下の箱も」

「重量」ロロ。

「教えない」

「持てるか判断できない!」

「開けずに量れ」

 ロロは箱へ外から荷重輪を掛ける。

「十一・二」

「運べる」

「中身は」ハル。

「聞くな」とエリア。

 箱を開けないことが避難条件である。

 救難の好奇心は、救難ではない。

 別の三人は、救命索を拒んだ。

「索を付けると、次下で胸が締まる」と男。

「代替」とカイル。

「盾籠へ入れる」

「王家印がある」

「布で隠す」

「隠した印も印だ」

 カイルは一度、息を吐く。

「私の盾を使わない案を出してくれ」

 命令しない。

 自分の道具を、善意だからと押しつけない。

 タラが四方網を持ってくる。

「魚籠」

「人へ使う?」ハル。

「魚より重い。網目を二重」

「失礼じゃないか」カイル。

「本人へ聞け」

 男は網へ触れる。

「王家盾よりまし」

「私の自尊心が傷ついた」

「救命上は」セレナ。

「影響なし」

「では採用」

「慰めろ!」

「後で苺を」ハル。

「十三個」

「痛み単位と混ざる」

 最後の一人、タウは墓標洗いの道具を置かなかった。

 長い柄。

 水瓶。

 死者名の拓本箱。

「荷物制限、体重の四分の一」とニア。

「これは仕事」とタウ。

「道具重量、二分の一」

「置けば、墓の名前が塩で読めなくなる」

「今夜一回では消えない」

「次の潮刻に誰が戻る」

「戻る保証はない」

「だから持つ」

 ニアの計算では、柄と水瓶を切るのが最適だった。

 拓本箱だけを残せば、名前は保存できる。

「柄を切れば」と言いかける。

 タウが彼女を見る。

「戻らない部分は切る?」

 ニアの言葉を知っている。

 この町では、彼女の名も思想も被害と一緒に届いていた。

「今は切らない」とニア。

「なぜ」

「道具を選ぶ権利が私にない」

「時間がない」

「それでも」

「じゃあ、持つのを手伝って」

 ニアは補助腕を伸ばしかけ、止める。

「二本起動中。一本は構造保持。一本なら使える」

「一本でいい」

「停止はあなた」

「重いと言ったら?」

「離す」

「落ちる」

「ハルが受ける」

「勝手に俺を!」

「受ける?」

「受ける。左肩じゃなく腰索で」

 役割が決まる。

 タウの柄を、ニアの一本腕が持つ。

 水瓶をハルの腰索へ。

 拓本箱は本人が抱える。

 進む。

 残り四分。

 ニアは最短を選ばない。

 全員の荷物を残すわけでもない。

 拒否を尊い物語へして、危険を放置もしない。

 一本の柄の重さを、計算条件へ入れる。

「重い」とタウ。

 ニアは即座に腕を離す。

 ハルが腰索を引く。

 ロロが柄を短く持ち替える。

「停止できた」とエメの声。

「監査するな」とニア。

『監査する。褒めてない』

「了解」

 十二人は、一つの避難先へ行かなかった。

 部屋ごと隣区画へ。

 魚籠で小門へ。

 道具を分担して墓地区高面へ。

 救難は、全員が同じ門を通った時に成功するのではない。

 それぞれが、自分で選べる程度に生き残った時、ようやく次の選択が始まる。

 圧力は安定した。

 事件は解決していない。

 都市の沈降原因も、中枢の状態も、父の所在も不明。

 だが、百八十三人はそれぞれの選んだ場所へ移った。

 九人は残った。

 その九人を失敗数へ入れない。

 成功数へも入れない。

 残留という選択として、地図に残す。

 エリアは四枚の地図へ、避難経路を書き込んだ。

 第一図の一番門。

 第二図の五番門。

 第三図の九番門。

 第四図の十二番裏門。

 線を重ねる。

 四つの時刻。

 四つの重力。

 四つの作成年。

「待って」と言う。

 線が、一瞬だけ同じ形になる。

 第一図の北塔。

 第二図の水門。

 第三図の墓地区。

 第四図の裏層。

 別々の場所として描かれていた四点が、潮刻輪を回すと同じ座標へ来る。

「何」とハル。

「四枚が重なる時刻がある」

「同じ町だから?」

「同じ町が、同じ向きへ戻る瞬間」

 貝の成長輪を置く。

 白、青、白、黒。

 七十四回ごとの太い稜。

 四地図の潮刻印を、その周期へ合わせる。

「閉鎖日の封印時刻」とセレナ。

「全域無基準の直後、一分だけ四つの局所弁が中立へ戻る」エリア。

「中枢門」とタラ。

「その一分だけ、四方向から同じ位置になる」

 地図は一枚へ統合されない。

 四枚のまま、一瞬だけ同じ形になる。

 それは正解が一つになる時刻ではない。

 四つの正しさが、互いを消さずに交差する時刻だった。