第641話 第九章「時刻を含む地図」前編
地図には、時刻がない。
少なくとも、多くの地図はそういう顔をしている。
川はそこにある。
橋はそこにある。
道はそこにある。
昨日も、今日も、明日も。
もちろん、実際には違う。
川は増水する。
橋は閉じる。
市場は朝だけ道を塞ぐ。
学校の門は夜になると、同じ門でありながら通れない場所になる。
つまり全ての地図には、本当は時刻が含まれている。
ただ、変化が遅い土地では、時刻を書かなくても人が死ににくいだけだ。
逆さ海の沈没都では、時刻を書かない地図は未完成ではない。
凶器である。
【現実/第四水門北面・仮設作戦室/覚醒/四図重合時刻まで二時間十二分】
「食べて」
エリアが言った。
「何を」
「手に持っているもの」
ハルは青い実を見た。
ミミにもらった実。
酸っぱくて、塩辛くて、好きではない。
「今じゃない」
「いつ」
「腹が減った時」
「減ってる」
「何で分かる」
「さっきから三回、カイルの保存肉を見た」
「王子のじゃなくて船の」
「視線は王子の手へ行った」
「手に肉があったから」
「食べて」ともう一度。
「命令?」
「依頼。あなたが倒れると身体記録が一つ減る」
「俺じゃなくデータを心配?」
「両方」
「順番は」
「今聞く?」
「聞かない」
ハルは実を噛む。
やはり好きではない。
だが、身体へ塩と糖が入る。
「好きじゃない」と言う。
「食べられる?」
「食べられる」
「では次も用意する」
「愛情が厳しい」
「食事を恋愛へ変換しないで」
「してない!」
「顔が赤い」カイル。
「苺数えてろ!」
「今は二」
「減った?」
「肉を食べた」
「痛みが食事で消えるな!」セレナ。
「気分は減る!」
仮設作戦室は、北面の古い食堂だった。
四面卓。
四面椅子。
今の街下へ座る者、次下へ身体を結ぶ者、潮下側の窓へ張り付く者。
九人の残留者のうち六人は、ここから見える安全区へ移っている。
三人は各自の持ち場に残る。
墓番一人。
外壁番一人。
水藻師一人。
救命索。
退出時刻。
連絡鐘。
選択は残っている。
見捨ててはいない。
四枚の地図は、透明板の間へ一枚ずつ挟まれていた。
エリアは重ねない。
並べる。
「さっき重ねた」とハル。
「一瞬の比較。統合原図にはしない」
「違いを消すから?」
「違いが道だから」
第一図の北塔路。
第二図の水門路。
第三図の墓地区路。
第四図の裏層路。
セレナが、四枚の作成年と封緘日を読み上げる。
「第一図。王暦百十二年の北塔測量原図。閉鎖日、四十一年前の四潮日、朝側重力として再封緘」
「第二図。水門暦四十四周の拡張原図。同じ閉鎖日、海側反転として再封緘」
「第三図。沈降暦三年の応急図。同じ閉鎖日、都市沈降中として再封緘」
「第四図。無基準暦零の全域避難図。同じ閉鎖日、全域無基準として再封緘」
「同じ日に、違う時代の地図を公式にした」とハル。
「古い路を捨てなかった」とエリア。
「なぜ新しい地図へ全部写さなかった」とカイル。
ロロが答える。
「写すと、昔の部品が今も同じ働きするみたいに見える。古い管は古い材質、古い扉は古い寸法。線だけ移すと条件が消える」
「地図にも部品表が要る」
「要る! ようやく分かったか王子!」
「予算を出す気になった」
「今すぐ書面!」
「生還後!」
「約束に期限!」
「王都帰還後三日以内!」
「記録」とセレナ。
「よし!」
「私の褒めは要らないのですか」
「予算の方が大事!」
「正直」
問題は、年をどう合わせるかだった。
王暦百十二年。
水門暦四十四周。
沈降暦三年。
無基準暦零。
数字だけでは順序にならない。
「王暦は太陽年」とカイル。
「水門暦は海が空へ落ちる定刻七十四回を一周」とタラ。
「沈降暦は都市外郭が一メートル下がるごとに一年?」ハル。
「最初は」とタラ。「途中から役所が一年単位へ直した」
「途中で単位が変わった!」
「沈む速度が変わった」
「暦まで沈んでる」
「無基準暦は」とエリア。
「始まらなかった日」とタラ。「第四位相が続いて、次の朝側重力へ戻れなかった日を零にした」
「零の翌日は」
「一にする予定だった」
「ならなかった?」
「中枢を閉じた」
食堂の空気が少し重くなる。
中枢閉鎖。
四十一年前の沈降。
四枚の地図の再封緘。
同じ日。
「この町は、戻れなかった」とハル。
「第四位相から完全には」とタラ。
「でも潮刻は変わってる」
「局所だけな。都市全体の骨は、第四へ寄ったまま」
その言葉は、第十章の答えではない。
まだ観測された現状である。
貝の成長輪を、四地図の年へ合わせる。
ロロが採取した殻を光板へ拡大する。
白。
青。
白。
黒。
四つで一組。
七十四組で太い稜。
「第一図の時計塔は無傷」とセレナ。「第二図で亀裂。第三図で支柱。第四図で東面欠損」
「時計塔の外壁へ付いた貝を、現地で見た」とエリア。
「層を採った」とロロ。
小瓶を出す。
第一図の無傷壁にあった最古層。
第二図の亀裂へ入り込んだ中層。
第三図の支柱へ付いた新層。
第四図の露出階段へ付いた最新層。
「成長輪を数える」とロロ。
「全部?」ハル。
「数えずにどうする!」
「七十四が何十も」
「機械が好きな奴は数を怖がらない!」
「人が好きでも数える」とニア。
「お前の数え方は違う」
「どう違う」
「先に減らす」
ニアは反論しない。
代わりに、光板の端へ新しい欄を作る。
『通行拒否。
位相変更拒否。
救命索拒否。』
「何」とロロ。
「経路条件」
「さっきの続き?」
「教えられた言い方をまだ知らない。だから、まず欄を作る」
「……欄だけじゃ駄目だ」
「次は」
「本人へ聞く」
「了解」
「復唱じゃない?」
「自分の判断」
ロロは、ネジを一本だけ裏返す。
彼なりの保留だった。
貝の輪は、単なる年月を示さなかった。
四方向への張り出し幅が違う。
古い層では、四方向がほぼ均等。
中層では、黒の第四位相側が少し長い。
新しい層では、第四が他の二倍。
「第四位相が長くなっている」とエリア。
「都市全体の戻りが遅れてる」とロロ。
「潮刻表は、昔のまま?」ハル。
「外郭の鐘は昔の周期。中央弁は遅れている」タラ。
「だから前章で局所反転が早かった?」
「外が先、中央が後」
「時計が二つ」
「四つ以上」とセレナ。
「増やすな!」
「現実です」
エリアは四枚の地図へ、貝の成長比を写す。
第一図の時代。
四位相は、ほぼ等分。
第二図。
第二位相が短い。
第三図。
第三から第四への移行が長い。
第四図。
第四位相から戻らない。
「地図の潮刻印は、作図当時の長さを含む」と言う。
「矢印の長さ」とセレナ。
見落としかけていた。
潮刻印の三角は、同じ大きさではない。
第一図の朝側印は短い。
第二図の海側印は長い。
第三図の沈降印は二重。
第四図の無基準印は、裂け目が広い。
「方向だけじゃない。滞在時間」
「作った人は、時刻を線の長さで入れた」とハル。
「正確には、位相継続幅」
「長い」
「だから生きる」
「それ、気に入った?」
「少し」
セレナは、証拠を三列へ分ける。
一、地図内部の記号。
二、建物損傷の作成順。
三、生態痕の実時間。
「どれか一つだけでは足りません」
地図記号だけなら、解釈ミスの可能性。
損傷順だけなら、修理や再建で逆転する可能性。
貝だけなら、局所環境の偏り。
「三つが一致」とカイル。
「さらに、骨透け魚の内臓移動と泡の横流れが現在位相を示す」
「四つ」ハル。
「今度は数えてよい」
「褒めた?」
「職務です」
「戻った!」
タラが四辺黒板を机へ置く。
「町の生活記録もある」
四十一年前の献立帳。
朝側重力の日は、汁物。
海側反転は、焼き物。
沈降中は、乾燥食。
無基準は、携帯食。
「料理が潮刻表」とハル。
「王城の厨房記録も災害史料になる」とカイル。
「苺の数も?」
「それは私の痛み史」
「公開する?」
「死後百年」
「長い!」
「王家の恥は熟成させる」
「発酵しそう」とロロ。
作戦表ができる。
エリアは一枚の地図を作らない。
透明板を四枚、一定間隔で立てる。
第一板に座標。
第二板に重力方向。
第三板に時刻。
第四板に通行条件。
横から見れば、四枚は別々。
正面から見れば、線が重なる。
「四次元」とハル。
「三次元座標へ時刻を加えたもの」とエリア。
「条件は?」
「第五層」
「増えた」
「人間が通るから」
「人間が次元を増やす?」
「選択が増やす」
通行条件。
圧力。
負傷。
呼吸。
門の状態。
住民の拒否。
戻り路。
ニアが一覧へ数値を入れる。
「拒否は零?」ハル。
「以前なら」
「今は」
「閉門。別路を探す条件」
「零と違う?」
「零は価値がない。閉門は通れない」
「誰に教わった言い方」ロロ。
「自分で考えた」
「……まあ、合格」
「何の」
「知らねえ」
「記録」とセレナ。
「するなって!」
ルートは四段階。
第一段階。
第二図の第四水門路を使い、海側反転の残留区画へ入る。
第二段階。
局所鐘七拍後、第一図の北塔路へ移る。地図上では逆戻りに見えるが、都市回転により中枢へ近づく。
第三段階。
泡が横流れを始めた瞬間、第三図の墓地区路へ落ちる。旧地下街の天井を床として通過。
第四段階。
全域無基準の四十二秒間、第四図の裏層を進む。
最後。
四図重合の一分。
中枢門が、四方向から同じ位置へ来る。
「一分で全員通す」とカイル。
「全員ではない」とエリア。
「誰が残る」
「中継点ごとに人が必要」
第一中継、タラ。
第二中継、バズ。
第三中継、エメ。
外郭監視、カイル。
「私は行かない?」カイル。
「盾が外郭に必要」
「父との再会へ王子は邪魔?」
「感情で配役していない」
「冗談だ」
「具体的な食べ物がないから恐怖は低い」セレナ。
「台帳を閉じろ!」
中枢へ入るのは、ハル、エリア、ロロ、ニア、セレナ、ノクス。
「六人」とハル。
「六人一体」とセレナ。
「ノクスを人数へ」
「七名」
ノクスが満足そうに尾を振る。
「俺は外?」カイル。
「中枢で盾より、外で百八十三人を守る方が必要」とハル。
「分かった」
すぐ答える。
「でも、でかい扉があったら私を思い出せ」
「盾で開ける気?」
「王子の顔で」
「ここ、王家嫌われてる」
「盾の方がましだな」