第644話 第十章「重力弁の都市」後編

「固定を外せば戻る?」ハル。

「一気に外せば壊れる」とロロ。

「どこが」

「全部」

「長い説明を」

「今の町は第四偏位を前提に直されてる。住民区の床、空気壁、水藻槽、墓標、外郭索。四十一年分の生活が、傾いた地面へ合わせてある。元の水平へ戻したら、今の壁が床になるだけじゃない。圧が逆流、貯水槽が落下、外郭輪の歯が噛まない」

「昔の正しい形へ戻すのが正解じゃない」とエリア。

「新品へ戻せない」とロロ。

「直せない?」ハル。

「直すって何だ」

 ロロが振り返る。

「四十一年前の都市に戻す? 今の住民区を残す? 沈降を止める? 浮上させる? 全部違う修理だ」

「選ぶのは」

「住民」タラ。

『浮上は望んでない』

「なぜ」とカイル。

『上には、もう別の航路と所有権がある。浮かべば王国が来る。観光船が来る。墓を掘る奴も来る』

「沈んだまま?」ハル。

『今の深さで止めたい』

「それが目的」とエリア。

「都市を元へ戻さない。現在位置で安定」

「四弁を均等へ戻すんじゃない」とロロ。「今の生活荷重へ合わせ、少しずつ分ける」

「段階運用」とニア。

「切る?」

「切らない。固定を一本ずつ緩める」

「時間」

「長い」

「どれくらい」

「全解除なら三日。今の沈降停止だけなら、三潮刻」

「中枢門は一分しか開かない」

「内側にいる俺たちは残る」

「外と交代できない」

「伝声索と小物搬送管はある」

「食料」ハル。

「青い実」とエリア。

「好きじゃない!」

「食べられる」

「愛情が厳しい!」

 まず試験として、第二弁を一度動かす。

 銅札の解除順。

 第二、第一、第三、第四。

「古い指示をそのまま使う?」セレナ。

「使わない」とロロ。「現状が違う。小角度試験だけ」

「角度」ニア。

「〇・五度」

「効果が小さい」

「小さくていい。戻り圧を見る」

「時間が増える」

「今は壊さない方を優先」

 ニアがロロを見る。

「了解」

「自分の判断?」

「私の判断で、小角度試験を採用」

「よし」

「記録」とセレナ。

「もう好きにしろ!」

 第二弁の固定樹脂を、表面だけ削る。

 切断ではない。

 樹脂を温め、古い楔を一本抜く。

 ロロの二本腕。

 ニアの二本腕。

 四本を同時に使うが、二人の判断が必要。

「バズ、外側第二管!」

『了解、つまり戻り圧を読んで――ただし停止条件、住民区圧一・九以下、弁鳴二回、俺の呼吸四拍!』

「エメ」

『痛み値と計器を別記。現在、腿三、幻肢二』

「タラ」

『現場鍵、〇・五度だけ許可』

「エリア」

「地図上、第二位相の逃がし路三本。空気庭園一、北面二」

「カイル」

『外郭盾、短時間なら受ける。で、誰を守ればいい?』

「今は壁!」ロロ。

『珍しい注文だ!』

「開始」

 楔を抜く。

 第二弁が、〇・五度動く。

 都市全体が鳴る。

 低い。

 海中の鯨が遠くで声を出したような音。

 中枢の巨大水滴が、第四側から中央へ一ミリ戻る。

「住民区圧」とロロ。

『一・九五。安定』エメ。

「外郭」

『変位零・〇二。受けた』カイル。

「墓地区」

『砂落ち一。許容』タラ。

「成功?」ハル。

「試験成功」とセレナ。

「全体成功ではない」エリア。

「長い」

「生きるため」

「はいはい」

【現実/中枢操作室・試験後協議/覚醒/第二試験まで三十二分】

 〇・五度の成功は、住民へ「直った」とは伝えられなかった。

 直った、と言えば、人は次の潮刻で寝る。

 試験成功、と言えば、眠らずに済む者まで眠らない。

 危機の言葉は、強すぎても弱すぎても人を傷つける。

 セレナは伝声管へ、二十二語の報告を送った。

『第二弁小角度試験成功。現在位置で沈降速度が一時低下。全体安定ではない。避難準備と監視を継続。』

「一時、を二回入れたい」とタラ。

「重複します」

「重複してでも、成功だけ切り取られるのを防ぐ」

 セレナは一つ増やす。

『一時試験成功。現在位置で沈降速度が一時低下。全体安定ではない。避難準備と監視を継続。』

「文章が不格好」とエリア。

「現実が不格好」とタラ。

「採用」

 報告が町へ流れる。

 歓声は起きない。

 代わりに、各区画から返事が来る。

『北面、避難準備継続』

『墓地区、残留九確認』

『水藻槽、温度維持』

『外郭、盾交代』

 成功を生活へ戻す音だった。

 カイルは外郭から、王家印の使用許可書を送ってきた。

 使用許可ではない。

 不使用宣言だった。

『沈没都アンダー・シティに対し、ルーメン王家は緊急救難を理由とする領有、接収、航路独占、地図原本取得を行わない。救難費用の請求権は残す。返済方法は住民代表と協議し、未払いを所有権へ転換しない。期限、当危機終結後七十二時間まで。延長は再同意を要す。』

「最後に費用」とハル。

『国家も食べる』とカイルの声。

「町も食べる」とタラ。

『だから請求はする。払えないことを理由に町を取らない』

「王子にしては具体的」

『褒めたか』

「王子にしては」

『減点つき!』

 タラは文面を読み、黒板へ三つ書く。

『救難費の上限』

『王家船の滞在期限』

『地図複写の返却』

「追加条件」と言う。

『受ける』

「今すぐ返事するな。現場鍵は町へある」

『では、七十二時間内に協議』

「それでいい」

 王子の命令が、住民の条件で未完成になる。

 未完成は弱さではない。

 他人が書き足せる余白である。

 四つの重力弁を今後どう管理するかも、救難隊だけでは決めなかった。

 ロロは必要人員を計算する。

「一潮刻ごとに四弁確認。通常二人、反転時四人。監査一人。交代込み、最低十二人」

「町の現在技師は」とエリア。

「資格持ち三。実務経験六。見習い四」とタラ。

「足りる」ハル。

「二十四時間なら足りない」とロロ。「寝る時間を入れろ!」

「生活を計算から消した」とニア。

「お前に言われたくねえ!」

「だから言う」

 必要人数を二十四へ増やす。

「外部雇用」とカイル。

「来る?」タラ。

「賃金を王国救難費から半年」

「半年後」

「町が維持できる仕組みへ移す。水門技術を外へ教え、研修費を取る案」

「沈没都を学校に?」ハル。

「観光地よりまし」とタラ。

「事故を教材へするなら、死者名と失敗記録を消さない」とセレナ。

「王家の失敗も」とカイル。

「当然です」

「少しは遠慮を」

「ありません」

 エリアは四弁の管理図へ、中央責任者の欄を作らない。

 各弁の現場担当。

 全体監査。

 住民公開板。

 停止権。

 反対記録。

「指揮者がいない」とニア。

「危機時はいる。期限付き、範囲付き」とエリア。

「一人が全弁を動かせないと、同期遅延」

「遅延を減らす訓練をする。一人へ戻さない」

「最速ではない」

「今の最速が、四十一年の固定を作った」

 ニアは第四軸を見る。

「同意」

「早いな」ロロ。

「実測値がある」

「感情で同意したら死ぬの?」

「感情は、後で言葉にする」

「後っていつ」

「不明」

「期限を書け!」

「当危機後七十二時間」

「王家文書に引っ張られてる!」

 試験結果を受けて、タラから三人の候補名が届く。

 サナ。

 ミレ。

 タウ。

「技師ではない」とニア。

「現場鍵候補」とタラ。

「一人は私に帰れと言った」カイル。

「だから候補」

「停止権へ、技術知識は不要?」ニア。

「技術を知らないから止める場合もある」エメ。

「不合理」

「合理だけで進む技師を止める」

 ロロはニアを見る。

「お前専用?」

「私を含む」

「自分で言えた」

「褒める?」

「今は事実」

 ハルが笑う。

「移った」

「何が」と二人。

「褒め方」

「うるさい!」ロロ。

 第二試験の準備が整う。

 都市を昔へ戻すのではない。

 現在の暮らしを基準に、少しだけ動かす。

 歴史上、改革は大きな弁を一気に回した者の名で語られやすい。

 実際の町を救うのは、〇・五度動かし、数値を読み、止め、支払方法を相談する人々である。

 その地味な作業の後に、ロロは固定樹脂の裏へ新しい工具傷を見つけた。

 試験の後、ロロは固定樹脂の裏へ、別の工具傷を見つけた。

 古い傷ではない。

 樹脂の粉が白い。

 水へ溶けていない。

 金属油が酸化していない。

「最近、誰か触った」

 全員が近づく。

「どれくらい最近」とハル。

「この水温なら、三日から七日」

「父さん?」

「まだ」セレナ。

「分かってる。可能性」

「自分で言えた」

「褒めた?」

「今は本当に」

 工具傷は、普通のレンチではない。

 六角の角へ、七つの微細な歯形。

 ロロは拡大鏡を当てる。

「星晶義手の可変爪」

「型は」とニア。

「古い。終端議会式じゃない。七歯。一個だけ地球の規格っぽい丸み」

 ハルの呼吸が浅くなる。

「地球の規格を知ってる?」

「お前の工具で見た。プラスでもマイナスでもない、十字頭。ここのネジに合わないのに、無理やり回した痕」

「ソウジの義手」とニア。

「断定はまだ」とセレナ。

「知ってる!」ハルの声が低くなる。「他の痕は」

 ノクスが匂いを追う。

 二本尾。

 一本は新しい金属油。

 一本は、人の汗と古い布。

 第四軸の裏へ。

 そこに、小さな作業台がある。

 地図紙。

 角が丸く切られている。

 空の時計鎖が置かれた跡。

 薄い円形の錆。

 机の端に、石が一個。

 裏返されている。

 ハルは石へ触れない。

 父は曲がり角ごとに端の石を裏返し、帰路で戻す。

 母が何度も話した癖。

 自分も知らないうちに、似たことをしていた。

「いつ」と聞く。

 セレナが机の水膜と塵を調べる。

「三日以内。少なくとも四十一年前ではありません」

「生きてる?」

「工具を使った人物が生きていた時刻の痕です。現在の生存までは」

「分かってる」

 今度の「分かってる」は、会話を止める言葉ではない。

 分からない範囲を受け入れる言葉だった。

 作業台の下に、保守通路がある。

 新しい足跡。

 片方は地球製作業靴の平らな底。

 もう片方は、星晶義足ではない。

 左足と右足。

 一人分。

 足跡は、沈没都のさらに中心へ続いていた。