第643話 第十章「重力弁の都市」前編
都市は、地面の上にある。
この当たり前は、都市の責任を地面へ押しつける言葉でもある。
家が傾けば地盤が悪い。
道が割れれば地震が悪い。
塔が沈めば土地が弱い。
人間がどこへ建て、何を抜き、どの川を埋め、どの区画だけ補強したかは、自然災害という大きな言葉の後ろへ隠れる。
逆さ海の沈没都には、責任を押しつける地面がない。
都市自身が地面を選ぶ。
四方向の重力弁を開閉し、外郭を回し、生活区ごとに床を渡す。
ここでは地面は自然ではない。
公共設備である。
公共設備である以上、故障する。
予算を削られる。
応急修理が恒久化する。
誰かの任期より長く残る。
そして、地面が故障した都市では、歴史そのものが傾く。
【現実/四図重合路・第一段階/覚醒/中枢門閉鎖まで五十八秒】
「走れ!」
誰が言ったか分からない。
全員が言ったからだ。
第四水門の床が、薄い青い膜へ変わる。
第二図の海側反転路。
ハルが先に飛ぶ。
一、二、三。
左肩は腰索二本で保護。
配達鞄は胸へ固定。
ノクスが、その頭上を追い越す。
「先行違反!」
「ナァ!」
「返事が軽い!」
「時間!」セレナ。
「五十一!」
エリアの路図が、四枚の透明板から一本ずつ投射される。
同時ではない。
まず青。
「第二図! 街下、海側! 十二歩!」
全員が壁を走る。
十二歩目。
泡が横へ流れる。
「切替!」
青線が消える。
黄白の第一図。
目の前の壁が、北塔路の床へ回る。
「第一図! 足下、北塔! 八歩、手摺右!」
「右は誰の!」ハル。
「全員の身体をそろえて!」
「難題!」
「私の右!」
「最初からそれ!」
ロロはニアの背後を走る。
ニアの補助腕は二本。
架装幅が狭い通路へ当たる。
「肩を斜め!」ロロ。
「六度不足」
「身体で六度!」
「腰架が当たる」
「第三腕許可、押すだけ!」
現場鍵は遠隔のタラ。
『現在値、許可。十秒。断機なし』
監査鍵、エメ。
『指先感覚、都度申告』
構造鍵、ロロ。
「第三腕、壁じゃなく自分を押せ!」
「許可確認。起動」
三本目が伸びる。
壁へ爪を立てない。
自分の腰架へ当て、身体を九度ひねる。
狭路を抜ける。
「停止!」ロロ。
三本目が畳まれる。
「時間!」
「三十六!」
第三図。
墓地区路が、下から上へ落ちてくる。
正しい表現ではない。
だが、見た目はそうだった。
黒い路面が水の中を回転し、一行の足へ接続する。
「第三図! 潮下へ落下、六メートル!」
「落下が道!」カイルの声が遠隔鐘から聞こえる。
「外から実況するな!」ハル。
『景気を上げている!』
「苺は!」
『一!』
「大丈夫そう!」
ハルが落ちる。
左肩を守り、右手で索を滑らせる。
エリア。
セレナ。
ロロ。
ニア。
ノクスは落下途中で身体を捻り、四足で壁へ着く。
「時間、二十三!」
第四図。
透明な魚膜紙の裏層路。
物理的には、閉じた保守壁の継ぎ目。
全域無基準の今だけ、重力が壁を押さず、薄い膜が開いている。
「鞄外す!」エリア。
ハルが配達鞄を胸から解く。
右手で先へ投げる。
「父さんの――」
途中で止める。
鞄には父の物も、母の店の物も、自分の旅の物もある。
父だけの鞄ではない。
「俺の鞄、先!」
ノクスが口で受ける。
「噛むな!」
「グル!」
「時間!」
「十五!」
ハル、エリア、セレナ、ロロが裏層へ滑り込む。
ニアの架装幅は通らない。
「別路!」エリア。
「第一図保守縦穴へ」ニア。
「合流まで十三秒!」
「間に合う」
「言うな!」ロロ。
「事実」
「機械が聞く!」
「ここに機械しかいない」
「だからだ!」
ニアが別方向へ走る。
残り十二秒。
中枢門が見える。
四枚の円扉が重なった穴。
ハルが飛ぶ。
一、二――。
左肩へ痛み。
三を言えない。
「エリア、押して!」
「腰索を!」
グリムリリーが背へ当たる。
押される。
ハルが門を越える。
セレナ。
ロロ。
エリア。
ノクス。
「ニア!」
残り四秒。
別の壁が開く。
ニアが保守縦穴から落ちてくる。
距離が足りない。
ロロが工具箱を投げようとする。
「二度目は請求が――」
ニアの補助腕が、門縁ではなくロロの差し出した手を掴む。
機械腕ではない。
本人の右手。
触覚は薄い。
ロロの手の温度を、ニアは正確には感じない。
それでも掴む。
ロロが引く。
門が閉じる。
四枚の地図が再び別の形へ戻る。
残り零。
六人一体は、中枢へ入った。
【現実/沈没都中枢・外環制御層/覚醒/入域から二分】
「手、離せ」
ロロが言う。
ニアは離す。
工具箱一個分、距離を取る。
「感覚」とセレナ。
「右指一。左指一。補助腕接続正常」
「ロロは」
「何で俺」
「手を強く握られています」
「痛くない!」
「値」
「零!」
「顔は三」とハル。
「顔を数えるな!」
中枢制御層は、巨大な球の内側だった。
床がない。
球面全体へ、通路と計器と弁が張り付いている。
中央には、四本の軸。
朝側。
海側。
沈降側。
無基準側。
それぞれが都市の外郭輪へ伸び、四方向の重力弁につながる。
軸の間を、巨大な水滴が浮いている。
丸い。
どこへも落ちない。
「中立」とエリア。
「局所だけ」とロロ。「門が閉じたから、すぐどっかへ寄る」
水滴の形が、ゆっくり歪む。
第四軸側へ。
「無基準なのに、第四へ引かれる」とハル。
「完全無基準ではない」セレナ。
「残留偏位」とニア。
「地面が、昔の癖を覚えてる」とロロ。
「機械に感情を付けないで」とニア。
「癖は感情じゃねえ。摩耗だ!」
「その表現なら理解」
「人間の言い方も理解しろ!」
ロロは最初に音を聞く。
四本の軸へ、一本ずつ工具柄を当てる。
朝側軸。
低い回転音。
途中で三回、同じ位置へ引っかかる。
海側軸。
乾いた擦過音。
回っていない。
沈降側軸。
水の脈。
遅い。
第四軸。
強い。
強すぎる。
「第四だけ動いてる」とハル。
「動いているんじゃない」とロロ。「全部を引っ張ってる」
「固定されてる?」
「見る」
補助腕二本で外板を外す。
四本使えば速い。
使わない。
ニアが横へ来る。
「貸与」
「条件」
「お前が角度を指示。切断なし。二本」
「時間は」
「調査優先」
「珍しい」
「学習中」
「人間みたいに言った」
「私は人間」
「知ってる。腹立つけど」
ニアの二本が外板を保持。
ロロが留め具を外す。
外板の中から、灰色の樹脂が現れる。
第四水門の配管を塞いでいたものと同じ。
「また一方向修理」とエリア。
「修理って呼ぶな」とロロ。
「では」
「固定。修理は戻す道を残す。これは戻す部品を外してる」
「当時の目的が応急なら」セレナ。
「応急固定」
「期限記録」
灰色樹脂の下へ、小さな銅札。
泥を払う。
『第四位相保持。
六時間限定。
住民移送後、順次解除。
解除順 第二、第一、第三、第四。』
「六時間」とハル。
「四十一年」とエリア。
「限定が、恒久になった」カイルの遠隔声。
通信は弱い。
中枢門が閉じた後も、伝声索だけが細く残っている。
『誰の命令』
セレナが札の裏を見る。
「署名二つ。地図官オード・シェル。弁守ミア・ヴォル」
「墓にいた」とハル。
「二人とも閉鎖日に死亡」
「解除できなかった」
「できる人が死んだ」とタラの声。
『残った人間は中枢へ入れなかった』
「なぜ閉じた」とハル。
『その答えを探してるんだろ』
四本の軸の周囲に、旧運用盤がある。
手動式。
一人で四本を操作できない。
四人の弁守が別々の方向へ立ち、中央の鐘へ合わせる設計。
「一人へ集中してない」とエリア。
「元は」とロロ。「後の固定で、第四軸だけ中央から操作できるようにしてる」
「効率化」ニア。
「独占化」ロロ。
「両方」セレナ。
運用盤には、四つの鍵穴。
一つは圧力番。
一つは地図官。
一つは弁守。
一つは住民代表。
四地図を封緘した四人の役割。
「三鍵より一つ多い」とハル。
「地図鍵が独立」とニア。
「道を知る者と、構造を切る者を分けていた」エリア。
「住民鍵も」とセレナ。
「昔の方がまし?」ロロ。
「昔を美化するな」とタラの声。「四人が死んだら、誰も動かせなかった」
「代替手順がない」とニア。
「権限分散だけでは、継承に失敗する」カイル。
『王家にも刺さる』とハル。
『刺さっている!』
中枢記録槽を開く。
紙ではない。
貝板。
潮刻ごとに一層ずつ、圧力と弁角を刻む。
四十一年前の閉鎖日。
朝側弁、六十二度。
海側弁、四十九度。
沈降弁、七十度。
第四弁、九十度。
急激な外圧上昇。
「何が起きた」とハル。
「頭上の海が一時間早く落ちた」とタラ。
「フォール・アワーの前倒し」エリア。
「都市が準備前」
記録は続く。
第一外郭、圧壊寸前。
北塔路、切断。
墓地区、沈降。
第四水門、浸水。
四人の弁守は、第四位相へ全荷重を集めた。
「なぜ第四」とハル。
「全域無基準なら、どの方向へも落ちにくい」とロロ。「一時的に都市を浮かせた」
「救った」カイル。
「その六時間は」とセレナ。
「救った」とロロ。「その後四十一年、沈めてる」
応急処置は悪ではない。
応急処置を終える制度がなかった。
それが災害になった。