第646話 第十一章「沈没都の中心」後編

【第三段階/第三弁開放/開始】

 第三弁は、沈降軸。

 もっとも危険だった。

 軸が壊れているのではない。

 生きすぎている。

 四十一年間、第四弁の偏位を補うため、細かな上下動を繰り返した。

 歯は薄い。

 軸は疲労。

 圧力脈は不規則。

「二度だけ」とロロ。

「二・一で破断可能性」とニア。

「一・八で止める」

「沈降停止に不足」

「折れたら全部終わる」

「一・九」

「一・八」

「一・八五」

「工具に小数ない!」

「角度計にある」

「人間の手で止める!」

「なら一・八三」

「細かくすんな!」

 エメの声。

『一・八。監査鍵』

 タラ。

『一・八。現場鍵』

 ロロ。

「一・八。構造鍵」

 ニアは頷く。

「一・八で停止」

 自分の案を引く。

 第三弁の固定楔は六。

 セレナが記録。

 ノクスが圧力漏れの匂いを追う。

 一本目。

 二本目。

 三本目。

 軸が震える。

 ノクスの二本尾が、同じ方向へ伏せた。

「停止!」ハル。

「まだ〇・四」とニア。

「ノクス拒否!」

 全員止まる。

 音を聞く。

 最初は何もない。

 次に、壁の向こうで細い水音。

 セレナが左眼の単眼鏡を切り替える。

「継ぎ目に新しい気泡」

「漏れ」とロロ。

「場所」

 ノクスが鼻を向ける。

 第三弁下部。

 現在の足下では上。

「ややこしい!」ハル。

「何の下か!」タラの遠隔声。

「弁面下部、今の足下上!」

「よし!」

 漏れは小さい。

 小さいから危険。

 大きければ停止する。

 小さいと、無視して進める。

「補修」とロロ。

「時間」とニア。

「やる」

「沈降加速まで三十九分」

「だからやる!」

 ロロは補修材を出す。

 新品の樹脂ではない。

 第四水門で外した古い四方向継手の一部。

「旅先の部品」とハル。

「町の部品を町へ返す!」

「修理代」

「住民価格!」

「無料?」

「一ルク!」

「尊厳価格」

「分かってきたな!」

 ニアが継手を保持する。

「温度分からない」と言う。

「俺が読む」ロロ。

「圧力」

「エメ!」

『値を読む。腿四、計器二・〇』

「角度」

「エリア」

「第三図基準、弁面下へ二度」

「何の下!」ハル。

「今言った!」

「確認!」

「成長した?」

「今は作業!」

 継手を当てる。

 工具を回す。

 ニアの指先感覚が落ちる。

「右零」と申告。

「停止!」ロロ。

「左一、補助腕振動で継続可能」

「右零は停止条件!」

「片手」

「決めた条件を作業中に変えるな!」

「時間」

「お前が必要不可欠になる方が危険!」

 ニアの補助腕が止まる。

 彼女は離す。

「交代」

「誰と」

「ハル」

「俺?」

「右手で保持。力ではなく位置」

「左肩使わない」

「条件」

 ハルが継手を持つ。

 重い。

 ニアほど正確ではない。

「二ミリ左」とロロ。

「俺の左?」

「弁面!」

「また!」

「目印青!」

「最初から!」

 ハルが動かす。

 継手が入る。

 ロロが締める。

 漏れが止まる。

 ノクスの尾が、一本ずつ起きる。

「本人確認」とセレナ。

「ナァ」

「再開」

 第四楔。

 第五。

 第六。

 第三弁が動く。

 〇・六。

 一・二。

 一・八。

「停止!」

 全員で止める。

 都市が、沈むのをやめかける。

 巨大水滴が中央で丸くなる。

 外部の声が重なる。

『第四水門、安定!』

『北塔、安定!』

『墓地区、砂落ち停止!』

『外郭変位、零へ!』

「成功?」ハル。

「現在値では」とセレナ。

「長い!」

「生きるため」

「知ってる!」

 その時、第四軸が鳴った。

 今までで最も大きく。

 中央保持索が、自動で巻き戻る。

 第二弁。

 第一弁。

 第三弁。

 動かした三本を、第四位相へ引き戻し始める。

「自動復帰!」ロロ。

「六時間限定保持が、解除を故障と判定してる」とニア。

「停止方法!」

「中央保持索を切る」

「切るしかない?」ハル。

「機構を止めればいい」とロロ。「巻揚げ歯を外す!」

「時間十二秒」とニア。

「外すのに四十!」

「断機なら一」

 白い荷重線が、第四軸から三本へ伸びる。

 一本。

 中央命令索。

 これを切れば、自動保持は二度と働かない。

 都市は一人の中央命令で第四位相へ固定できなくなる。

 戻せない。

「構造鍵」とニア。

 ロロが見る。

 十二秒。

 十一。

「切れば、今後は四弁全部を現場で動かすしかない」

「そうだ」

「人手がいる」

「そうだ」

「楽じゃなくなる」

「そうだ」

「中央から一発で救えない」

「一発で切り捨てもできない」

 十。

「構造鍵、許可」ロロ。

「監査鍵」とニア。

 エメの返事。

『切断後の影響、中央単独操作不能。現在住民区への即時圧損なし。監査鍵、許可』

「現場鍵」

 タラ。

『住民代表へ確認済み。戻せないことを説明。賛成百五十二、反対十一、保留八、未回答十二。全会一致ではない』

「許可?」

『全会一致を条件にしていない。反対者の記録と再接続案の研究義務を残す。現場鍵、許可』

 七。

 ニアの右手は触覚零。

 左は一。

「断機を誰が保持」とロロ。

「補助腕二本」

「指で止められない」

「三鍵で停止」

「それでも暴走したら」

「お前が電源を抜け」

「俺に姉を止めさせる?」

「技師を止める。家族だからではない」

 五。

 ニアは、荷重線を一本だけ切る術〈カットオフ〉を起動する。

 白い刃。

 以前は、世界の一部を切り離すための力だった。

 今、切るのは住民区ではない。

 壊れた配管でもない。

 戻らない人でもない。

 一人の技師、一つの中央、一回の命令が、都市全体を固定できる権限。

「残せる数」とハル。

 ニアが答える。

「全員ではない。反対者十一の選択を損失として残す。未回答十二を賛成へ数えない。現在生存百八十三。中央単独権限、零」

 三。

「切断」

 刃が走る。

 中央保持索が切れる。

 音は小さい。

 都市を四十一年縛った命令は、一本の糸が切れるほどの音で終わった。

 巻揚げが止まる。

 三本の弁が戻らない。

 巨大水滴が、中央へ留まる。

 沈没都の沈降速度が、零になる。

 成功の直後、機械は壊れた。

 中央保持索が切れた反動で、第四軸の古い歯車が一枚外れる。

 球面通路へ飛ぶ。

「伏せろ!」

 何の下か言う暇がない。

 歯車は現在足下ではなく、第四軸側へ落ちる。

 エリアが路図を出す。

 踵の痛み。

「八! 十秒!」

 光路が歯車の進路を示す。

 止めない。

 避ける。

「ハル、右!」

「俺の?」

「あなたの!」

 飛ぶ。

 セレナを押す。

 左肩へ痛み。

 カイルは外。

 盾はいない。

 ロロが折れた広告梁の残りを出す。

「まだ持ってた!」

「部品は旅する!」

 梁を歯車へ噛ませる。

 砕ける。

 速度が落ちる。

 ニアの補助腕二本が受ける。

「感覚零!」ロロ。

「振動で」

「停止条件!」

「離すとセレナへ行く」

「俺が持つ!」

 ロロの二本が加わる。

 四本。

 二人で歯車を支える。

「重い!」

「一・一トン」

「数えるな!」

「残り保持七秒」

「数えろ!」

 ハルとエリアが、床レールを切り替える。

 セレナは転倒しながら、赤札を中央へ差す。

「全点停止!」

 外部弁が固定。

 歯車を逃がす空間が開く。

「今!」

 ロロとニアが離す。

 歯車は空間へ落ち、緩衝水槽で止まる。

 静かになる。

 静かすぎる。

 エメの声。

『圧、安定』

 バズ。

『北塔、安定。ただし中央自動指令、消失』

 タラ。

『第四水門、床変位停止』

 カイル。

『外郭盾解除。苺十三』

「診ろ!」ハル。

「作業後、確定」とセレナ。

『ようやく!』

 都市は浮上しない。

 沈みもしない。

 現在の深さ。

 現在の向き。

 現在の生活。

 完全に安全ではない。

 四つの弁は、今後も手動で調整が要る。

 中央命令索は戻らない。

 住民は人手と費用を負う。

 反対者十一の意見は消えない。

 未回答十二の返事は、後で聞かなければならない。

 奇跡ではない。

 保守作業の始まりだった。

「終了?」ハル。

「第一安定」とロロ。

「長い」

「生きるため!」

「知ってるって!」

 ニアは背の補助腕を二本とも畳む。

 自分から。

「触覚」とエメ。

「両手零。回復見込み三時間」

『工具へ触るな』

「振動なら」

『触るな』

「必要なら」

『今は必要ない』

 ニアは手を下ろす。

「了解」

『自分の判断か』ロロが先に聞く。

「自分の判断で休止」

「よし」

「記録」とセレナ。

「今日はもう好きにしろ」

 中枢の保守扉。

 赤い糸。

 ハルが結んだ位置印。

 今度は、全員で行く。

「カイルは外」とハル。

『私は後から入れるか』

「次の四図重合まで二時間」エリア。

『待つ。王子は待つのも仕事だ』

「珍しい」

『成長を記録しろ、セレナ!』

「予約済みです」

『予約なのか!』

 ハルは保守扉へ手を掛ける。

 新しい工具油。

 地球製靴跡。

 裏返された石。

「位置」とエリア。

「中央東十二。扉前。全員一緒」

「受領」

 扉を開く。

【現実/中枢保守区・仮設休止点/覚醒/都市第一安定から十八分】

 父の声へ向かう前に、ハルは座らされた。

「歩ける」と言った。

「歩けるかを聞いていません」とセレナ。

「じゃあ何」

「左肩、内耳、呼吸、現在地認識」

「全部一」

「単位」

「俺」

「非採用」

 セレナは右手首を使わず、左手で瞳孔灯を持つ。

「現在の足下」

「中央弁側」

「街下」

「保守区の青線面」

「潮下」

「第四軸から緩衝水槽」

「次下」

「三十一分後に墓地区側」

「名前」

「凪野ハル」

「年齢」

「十五」

「父親の名」

 一拍。

「凪野ソウジ」

「父さん、と呼ばない?」

「医療質問に感情入れる?」

「順序混乱の確認です」

「ソウジ」

「記録」

 セレナはそれ以上聞かない。

 会う前の呼び名を、正そうとしない。

 エリアは壁へ背を預け、両踵の冷却布を巻き直していた。

「痛み」とハル。

「右七、左八。歩行は可能。路図は休止」

「俺より悪い」

「比較しない」

「一緒に行ける?」

「行く」

「役割を聞いてる」

 エリアが顔を上げる。

 助けを求める時、具体的な役割を一つだけ頼む。

 彼女が自分へ課してきた方法を、ハルは彼女へ返す。

「父さん――ソウジの説明を、俺が会いたいから正しいと思いそうになったら止めて」

「止める」

「怒って、何も聞かずに帰ろうとしたら」

「それは止めない」

「何で」

「帰る権利はあなたにある」

「じゃあ」

「聞きたいのに、怒った自分を格好悪いと思って逃げるなら止める」

「細かい」

「具体的」

「一緒にいて」

 それだけは、役割ではなかった。

 エリアは地図針へ触れない。

 顎も上げない。

「いる」

「短い」

「長くすると、契約みたいになる」

「今はそれでいい」

 ハルはマフラーの結び目を締め直す。

 ほどかない。

 ロロとニアは、工具箱一個分の距離を保っていた。

「手」とロロ。

「触覚零」

「義手の奴と会っても触るなよ」

「診断?」

「命令」

「権限」

「弟」

「それは権限ではない」

「じゃ、同じ修理工」

「受領」

「あと」

「何」

「ロロ坊って呼ぶな」

 ニアは即答しない。

「了解、ロロ」

「……今だけな」

「期限」

「決めてない」

「保留」

「それでいい」

 姉弟は和解していない。

 同じ場所へ行くため、呼び名を一つ選び直しただけだった。

 ノクスが観測室側の空気を嗅ぐ。

 油。

 古い布。

 人の汗。

 低い体温の皮膚。

 生きている匂いか、とハルは聞きかける。

 聞かない。

「現在、何がある?」

 ノクスは一度、低く鳴いた。

 人。

 それ以上の意味を足さない。

「行こう」

 ハルは立つ。

 左肩で扉を押さない。

 右手を使う。

 全員へ位置を告げる。

 そして、父のいる観測室へ向かった。

 保守通路は狭い。

 壁へ、手書きの測量線。

 角は丸く切られている。

 地図の余白に、三つの注意。

『第四弁へ触るな。

 住民区を浮上させるな。

 中央索を切るなら、戻せないことを先に伝えろ。』

「知ってた」とハル。

「この人物は」とセレナ。

「切る案を予想していた」ニア。

「でも、自分では切らなかった」とロロ。

「三鍵がなかった?」

「住民へ伝える手段がなかった」エリア。

「待ってた?」ハル。

「断定しない」セレナ。

「誰かが来るのを」

「可能性」

 ハルは地図の端へ触れる。

 紙は新しい。

 その下に、古い紙。

 父はここにいた。

 数日前。

 なぜ出てこなかった。

 なぜ都市が沈む間、観測室へいた。

 怒りが戻る。

 会いたい気持ちと同じ速度で。

「ソウジ!」

 初めて、声を出して呼ぶ。

 父さんではない。

 名前。

 通路の奥に、円形の観測室。

 扉は閉じている。

 内部から、機械音。

 七つの微細な歯車。

 星晶義手の音。

 ハルの足が、一歩前へ出る。

 エリアは止めない。

 ロロも。

 ニアも。

 セレナも。

 位置は共有されている。

 戻り路もある。

 都市は止まった。

 今は行ってよい。

 観測室の向こうで、低い男の声がした。

「あと一つ曲がれば、届くと思ってた」

 温かい声。

 責任を問われる前だけ、安心させる速度で話す声。

「思ったより、ずいぶん遠回りさせたな」

 ハルは扉へ拳を当てる。

 叩かない。

 声が出るまで、一拍かかる。

「遠回りさせたの、誰だよ」

 観測室の向こうで、義手の歯車音が止まった。