第659話 第六章「清廉さで閉じる病棟」前編
清廉は、汚れないことである。
政治家にとっては金を受け取らないこと。
医師にとっては患者を商品にしないこと。
宗教家にとっては教義を曲げないこと。
どれも正しい。
そして正しさは、食べ物にならない。
薬棚を埋めない。
看護人の夜勤代を払わない。
手を汚さなかった者が、閉じた扉の外で倒れた人間を見なくてよい理由にはならない。
【別航路/夢灯都市・夜明け診療所/覚醒/王都切断予定まで四十三分】
「受けません」
ソムナは契約書を閉じた。
薄い青緑の髪が、肩へ落ちる。
綴灯杖の退出札が、風もないのに触れ合った。
「まだ条件を全部読んでいない」と商会代理。
「三頁目に、治療記録の匿名利用」
「個人名は消します」
「夢の形で本人が分かります」
「研究目的です」
「六頁目に、商会薬の優先採用」
「品質保証です」
「九頁目に、病棟名へ商会名」
「寄付者表示です」
「十二頁目に、資金停止の一か月前通知」
「一般的な条項です」
「一般的に、患者の生活より先に撤退できる」
代理は笑みを崩さない。
「では、修正案を」
「受けません」
メイが方眼上着の袖を上げる。
「ソムナ」
「何」
「薬棚」
「知っている」
「低糖補液、今夜まで。抗熱粉、二日。睡眠拒否患者用の非鎮静薬、零」
「知っている」
「夜勤二人、未払い三日」
「僕の報酬から」
「あなたの報酬も払ってない」
「いらない」
「食事はいる」
「患者より後で」
「その順番で倒れる治療者を、私は何人も診た」
患者組合の机から、紙が鳴る。
ボウ・レンが赤い毛糸帽の縁を折った。
「誰が決める」
「何を」とソムナ。
「受けないこと」
「診療所の治療原則は僕が」
「会計も?」
「治療と切り離せない」
「切り離せないから一人で決める?」
「患者の夢を売らないため」
「病床を閉じるのは売ってない?」
「売っていない」
「じゃあ何だ。無料で閉じたから清潔か」
ソムナの指が白くなる。
「商会が入れば、治療へ条件が入る」
「今も条件がある」メイ。「薬のある患者だけ」
「僕は選んでいない」
「資金を選ばないことで、選んだ」
夜明け診療所は、夢を所有しないために作られた。
患者本人が退出を選ぶ。
記録の公開を選ぶ。
夢を見ない治療を選ぶ。
その理念は正しい。
理念の下で、第二病棟の扉が閉じられようとしていた。
「王都下面から、十二床の受入照会」とメイ。
「空床はある」
「薬がない」
「他院へ」
「三院とも満床」
「自由港」
「輸送に二時間」
「署名なし救難線」
「雷鎖環から先が途切れてる」
ソムナは通信紙を見る。
『切断予定まで四十一分。
下面医療区、歩行不能三十八、持続炉依存十七、透析九、移送先未定二十六。』
彼は紙を裏返す。
「第二病棟を開ければ、今いる患者の薬が足りなくなる」
「閉じれば、来る患者は入れない」ボウ。
「どちらも傷つく」
「だから一人で決める?」
「僕が始めた診療所だ」
「患者が使ってる診療所だ」
ボウは帽子を脱がない。
残る決心はしていない。
「商会案を全部飲めとは言ってない。金を汚れと呼ぶ前に、条件を一本ずつ切れ」
「切っても残る」
「残る。だから監査する」
「僕が間違えたら」
「患者組合が止める」
「患者へ負担を」
「もう負担してる。閉まった扉を」
ソムナは退出札を一枚取る。
契約書の上へ置く。
「匿名記録利用、削除」
「商会が拒否する」と代理。
「では受けない」
「薬優先採用」メイ。
「品質と価格を患者組合が比較。独占は不可」
「病棟名」ボウ。
「売らない」
「資金停止」
「六か月前通知。代替薬の移行費を積む」
「会計鍵」
ソムナが止まる。
「僕とメイ」
「二人とも治療側」ボウ。
「患者組合から一人」メイ。
「三者」
「今日の王都みたいだな」とボウ。
ソムナは意味を知らない。
だが、遠方の危機から届く手順が、診療所の机へ形を変えて現れることはある。
「商会へ修正案を返します」とソムナ。
「今すぐ金は来ない」と代理。
「分かっています」
「病棟は」メイ。
「閉鎖する」
ボウが帽子の縁を握る。
「交渉したのに?」
「交渉を始めたから、薬が増えたわけではない」
「……正しい」
「正しいから、人が入れない」
ソムナは第二病棟の札を裏返す。
『閉鎖』
その下へ、自分で書く。
『理由――薬不足。
決定者――ソムナ・リル一名。
異議――患者組合三、身体医一。
再審時刻――四時間後。』
「一人で決めたことも書く?」ボウ。
「消したくない」
「じゃあ、次は一人で決めるな」
「受領」
清廉さは守られた。
病棟は閉じた。
両方が事実だった。
閉鎖札を掛けても、病気は帰らない。
第二病棟の前へ、三人が座っていた。
一人は夢を見れば死んだ夫の声が聞こえるため、眠りを拒む老女。
一人は夢治療を受けたくないが、眠らなければ手術ができない紙屋根職人。
一人は治療を受けたいのに、商会へ記録が渡るなら帰ると言う少年。
同じ扉の外にいる。
理由は違う。
「閉鎖なら帰れってこと?」少年。
「違います」とソムナ。
「入れないのに」
「第一病棟の待機室へ」
「待機室は床だろ」ボウ。
「寝台を移します」
「何台」メイ。
「二」
「三人いる」
「僕の寝台を」
「あなたはどこで寝る」
「診察椅子」
「三日寝てない人が、また椅子?」
「患者より」
「後、を禁止します」
メイはソムナの手へ糖片を置く。
「食べて」
「今は」
「声が低くなった」
「元から低い」
「文末が消えてる。低糖」
「治療中」
「あなたも身体です」
ソムナは糖片を口へ入れる。
甘い。
嫌いではない。
自分のために使った糖が、患者から一片減ったように感じる。
その感覚自体が、会計を歪めるとメイは知っている。
「糖片の在庫は患者分と職員分を別にしています」
「同じ箱」
「札が違う」
「箱が同じなら」
「あなたが勝手に罪悪感を混ぜている」
ボウが赤帽の縁を折る。
「商会より厄介だな」
「誰が」とソムナ。
「無料で自分を使い潰す院長。値札がない分、止めにくい」
「僕は所有者では」
「なのに全部決める」
患者組合の会計板が開く。
収入。
小口診療費。
共同食堂の寄付。
修理代との相殺。
支出。
薬。
食事。
灯油。
寝具洗浄。
退出札の紙。
夜勤。
不足。
今月、二千四百七十ルク。
「商会案なら、六か月分」と組合員。
「代わりに夢記録」とソムナ。
「匿名」
「夢は匿名になりません」
「全部拒否すると、今の三人は床」
「条件を削る案を」
「商会が受けなければ」
「別の資金」
「いつ」
「分からない」
「分からない間、誰が床」
ソムナは答えない。
答えないことは、中立ではない。
床へ寝る者を、現状のまま選ぶ。
老女が笑う。
「若い先生、あたしの夢を売るのが嫌なんだね」
「はい」
「じゃあ、あたしが売るって言ったら」
「今の困窮で選んだ同意は、自由とは」
「困ってない時なんか、あったかね」
「それでも」
「守られる側へ、きれいな同意を要求するのも贅沢だよ」
「あなたの記録は、夫の記憶を含む」
「夫は死んだ」
「死者の同意が取れない」
「なら売らない。けど、あたしが売ると言ったことを先生がなかったことにするな」
「……記録します」
「反対も」
「はい」
少年は商会契約を指す。
「僕は嫌。匿名でも。母さんの声が入ってる」
「拒否を受けます」
「拒否したら、治療の順番が後になる?」
「しません」
「商会が金を出した患者が先って言ったら」
「契約しません」
「じゃ、床?」
同じ問いへ戻る。
ソムナは床を見る。
夢の中なら、扉を増やせる。
現実の病棟は、壁を壊しても薬が増えない。
メイは三つの予算案を作る。
一。
商会条件をそのまま受ける。
病床二十増。
薬半年。
記録利用と優先薬。
二。
全部拒否。
理念維持。
第二病棟閉鎖。
現在患者の治療も四日後に縮小。
三。
条件を分割。
薬購入だけ短期借入。
記録利用なし。
利率高。
返済不能時、診療所建物の一部を担保。
「三は建物を失う」とソムナ。
「一は記録を失う」とメイ。
「二は患者を失う」とボウ。
「どれが正しい」
「全部間違いを持つ」とメイ。
「医療は、もっと」
「きれいだと思ってた?」
「きれいにしたかった」
「汚れを患者へ押しつけて、治療者の手だけきれいにしないで」
ソムナの退出札が鳴る。
彼は怒る時、声を上げない。
体温が下がる。
指が細かく震える。
「僕は患者を売りたくない」
「売らない方法を一人で決めないで」とメイ。
「僕が責任を」
「責任を取るって、何をする」ボウ。
「病棟を閉じた責任を」
「金を払う?」
「払えない」
「辞める?」
「辞めない」
「謝る?」
「謝る」
「謝られて薬が増える?」
「増えない」
「なら責任って言葉で、気持ちよくなるな」
ボウの言葉は荒い。
荒いが、彼自身も無料の支援を疑い、必要な治療を遅らせている。
「あなたも」とソムナ。
「何」
「娘さんへ連絡を避けている。心配させないためと言って、選ぶ情報を渡していない」
赤い帽子の縁が止まる。
「今それを使うか」
「あなたが僕の一人判断を指摘したので」
「患者情報で殴るな」
「診療で知ったことではありません。あなたが患者組合で話した」
「だからって」
「ごめんなさい」
ソムナはすぐ謝る。
正しい反撃ではない。
相手の矛盾を示しても、自分の矛盾が消えるわけではない。
「今のは、僕が責められた痛みを返した」
ボウは帽子を脱がない。
「そうだな」
「撤回します」
「言ったことは消すな」
「では、攻撃として使ったことを記録する」
「面倒な子だ」
「長い」
「生きるため?」
「その言葉を、今は使いません」
患者組合は、採決をしない。
代わりに条件ごとに色札を置く。
夢記録利用。
赤、全員反対。
優先薬。
赤多数、黄二。
短期借入。
黄多数。
建物担保。
赤と黄が同数。
商会名を病棟へ。
赤。
会計監査を患者組合へ。
青、全員賛成。
「全体で賛否を取ると、少数条件が飲み込まれる」とメイ。
「王都の切断と同じ」とソムナ。
「町と病棟を同じにするな」とボウ。
「同じではない。似た手順の危険」
「それなら受領」
ソムナは商会代理へ修正案を渡す。
「今日中の返答を」
「検討に三日」と代理。
「患者は今日いる」
「だからこそ、最初の案を」
「受けません」
「院長の一存?」
ソムナは答えかける。
止まる。
「患者組合、身体医、治療責任者の三者で拒否。条件別記録を添付」
「全員一致?」
「夢記録利用と病棟命名は。借入案は保留」
「保留なら契約できません」
「できないことを、僕たちの決断不足と呼ばないでください」
代理は契約書を持って帰る。
金は残らない。
第二病棟も開かない。
だが次に商会が「院長が拒否した」と説明することはできない。
誰が何へ反対し、何を保留したかが残る。