第660話 第六章「清廉さで閉じる病棟」後編
王都から二度目の受入照会。
『持続炉依存十七。うち十二、移送先なし。
夜明け診療所へ、薬持参なら床だけ使用可能か。』
メイが読む。
「床だけなら」
「病棟を開ける?」ソムナ。
「薬を王都側が持つ。職員は不足」
「患者組合から介助者を」
「資格」
「本人が必要とする作業だけ。治療判断はしない」
「退出口」ボウ。
「第二病棟は外からしか開かない旧鍵」とメイ。
「俺が内鍵を付ける」
「報酬」
「後払い。金額を今書く」
「無償じゃない?」
「感謝で取り立てられるのが嫌だからな」
ボウは修理札へ額を書く。
高くない。
安すぎもしない。
「十二床、床と水だけ提供」とソムナ。
「病棟閉鎖と矛盾」と組合員。
「治療受入ではなく、一時避難所」
「言葉を変えて開ける?」
「違いを条件にする。薬が途切れたら受けない。現地医療者が同行。最大六時間。延長は三者」
「王都から来られる時間」とメイ。
「最短五十八分」
「切断予定は」
「四十六分前後」
間に合わない。
それでも、十二床の行き先がゼロから候補へ変わる。
遅い正しさは、今日の全員を救わない。
だから無価値なのではない。
救えない人数と、救える条件を隠さず次へ渡す。
ソムナは王都へ返す。
『十二床、一時避難として条件付き受入可。
到達見込み、切断予定後。
現時点の救命計画には算入しないこと。』
「使えるって書けば、希望になるのに」と組合員。
「間に合わない希望を、避難計算へ入れません」
「冷たい」
「冷たく見えても、時間を偽らない」
メイが頷く。
「その代わり、到達後は受ける」
「はい」
病棟は閉じた。
扉の内側では、ボウが新しい内鍵を付け始めた。
閉じることと、二度と開けないことは同じではない。
【現実/王都下面・第十二医療根/覚醒/切断予定まで三十四分】
「十二床、受入不可!」メイの通信。
「代替!」ハル。
『現時点でなし。病棟は薬不足で閉鎖』
「ソムナは!」
『資金交渉を始めた。今夜の薬にはならない』
「分かった!」
『怒らないの』
「怒ってる! でも今、患者を運ぶ!」
下面医療区は、湯沸かし場より重かった。
寝台。
透析水。
炉式呼吸器。
骨接ぎ枠。
薬庫。
人だけを抱えて走れば、設備から切り離した瞬間に死ぬ患者がいる。
「退避時間」とニア。
「最短五十二分!」サラ。
「切断まで三十二」
「全員じゃない。切断線内側から救難口まで」
「二十六名が超過」
「二十六って言うな」ハル。
「現場識別が必要」
「人を消すなって意味!」
「消していない。名前を公開できない者が七。色結びで個別管理」
「……なら受領」
サラが反対札を読む。
「切断延期へ反対八。理由、上層共倒れの危険。保留十三。延期賛成四十一」
「多数決では決めない」とニア。
「でも読む」
「読め」
「代表命令はしない」
「しなくてよい」
ハルは持続炉を押す。
左肩を使わないため、右腰へ幅広帯。
ソウジが隣へ入る。
「交代」
「まだ」
「左肩が上がっている」
「見て分かる?」
「おまえが痛みを隠す時の姿勢は知っている」
「八年前から?」
「八年前のおまえは、左肩を壊していない」
「じゃ、知らないだろ」
「今見た」
「一回で分かった顔するな」
「分かっていない。交代を提案している」
「……三十歩」
「十五」
「二十五」
「二十」
「交渉するんだ」
「訓練中」
二十歩で交代する。
父子の和解ではない。
荷重の分担である。
それだけでも、昔より一つ多い道だった。
下面医療区には、移動できない患者はいなかった。
移動すれば死ぬ可能性が高い患者がいた。
言葉の違いは大きい。
「動かせない」と書けば、本人の意思を聞かず残す理由になる。
「危険が高い」と書けば、危険を知った上で本人が選ぶ余地が残る。
第一寝台。
持続炉依存。
切断線まで三十一分。
救難口まで通常十五分。
現在の逆重力下では二十四分。
「行く」と患者。
「炉の接続切替で心停止危険二割」とメイの遠隔診断。
「残る危険」
「切断実行なら算定不能。全体崩壊なら高い」
「数字になってない」
「比較できる資料がない」
「じゃ、行く」
「理由を」とセレナ。
「娘が上にいる」
「記録」
「生きたい、じゃ駄目?」
「駄目ではありません。娘の存在を、移動同意の強制理由にしないため分けます」
「面倒だな」
「生きるためです」
「流行ってるのか」
第二寝台。
透析中。
移動を拒否。
「上へ行けば、戸籍を照合される」と本人。
「匿名色結びで」とサラ。
「王城救難口の先で剥がされる」
「カイル!」ハル。
『今、匿名受付を臨時命令へ』
「失効」セレナ。
『危機終了後七日。延長は本人側監査を含む』
「王命を信用しない」と患者。
「しなくていい」とカイル。
「王子が言う?」
『信用を条件に救難を受けさせない。命令文を見て、拒否してもよい』
紙が届く。
患者は三度読む。
「七日後、追跡される?」
「延長しなければ匿名保護が切れる」とサラ。
「じゃ、七日前に出る」
「行き先」
「今は保留」
「保留札」
「行く」
同意は、信頼が生まれたからではない。
信用しなくても使える条件ができたからである。
第三寝台。
九歳。
骨接ぎ枠。
保護者不在。
「誰が決める」とハル。
「本人」とサラ。
「九歳」
「分かる範囲で本人。医療上の一時代理は身体医。行き先の最終決定は保留」
「怖い?」ハル。
「どっちが下?」子供。
「今は水が落ちる方が二つ」
「それ、答え?」
「俺も迷ってる」
「お兄ちゃん、地球から落ちたんでしょ」
「落ちた」
「帰った?」
「まだ」
「じゃ、避難下手?」
「長距離は」
「短距離は」
「得意になった」
「ほんと?」
「左肩を使わない、止まる条件を言う、分からない道は地図の人へ聞く」
「地図の人、怖い?」
「正確」
「怖いってこと?」
「違う。怖い時に正確」
エリアの通信が入る。
『聞こえています』
「怖い!」子供。
『受領。骨接ぎ枠は縦へ回さず、現在の床を維持。路図を送ります』
「行く」
骨接ぎ枠は、壁ごと外す。
家の一部を担架にする。
ロロの遠隔指示。
『ねじは切るな! 壁骨を四点、床板を二点!』
「負傷者が指示してる」とハル。
『頭は無傷!』
「性格は」
『元から!』
持続炉の一台が止まった。
赤い灯。
「手動へ!」バズ。
手回し軸は、患者の寝台下。
現在の重力では天井側。
ハルが登る。
左肩の固定帯が管へ引っかかる。
「切る!」ソウジ。
「帯を切ったら肩が」
「管側の留め具!」
「先に言え!」
星晶義手の小刃が留め具だけを切る。
ハルの身体が落ちる。
ソウジが右腕で受ける。
義手ではない。
「何で右」
「左義手の圧が一割低い」
「先に言えた?」
「今言った」
「落ちる前に!」
「落ちると予測していなかった」
「分からないを先に!」
「今後」
「今後多いな!」
二人で軸へ届く。
手回し。
重い。
一周に三秒。
患者の必要脈は二秒半。
「足りない!」
「二人で」
「狭い!」
「位相をずらす。おまえが押す、私が戻す」
「同時じゃなく?」
「同時だと腕がぶつかる」
「親子の比喩?」
「機械の話だ」
「逃げた」
「回せ」
ハルが押す。
ソウジが戻す。
交互。
炉が再点火する。
患者の呼吸が戻る。
「一緒に回したから、昔が消える?」ハル。
「消えない」
「助けたから父親に戻る?」
「戻らない」
「じゃ何」
「今、二人で炉を回した」
「それだけ」
「それだけを、なかったことにもしない」
ハルは次の一周を押す。
「その答えは、採用」
上層救難口へ着いた患者から、戻りたいという申告が出る。
「何で!」班長。
「猫を置いた」
「猫籠は搬送済み」
「違う猫」
「名簿に」
「名簿へ入らない。夜だけ来る」
救難班は困る。
「戻せません」
「本人が戻る権利」とサラ。
「危険域です」
「説明して、それでも戻るなら」
「死なせる」
「止めれば生かしたことになる?」
ハルは患者へ聞く。
「猫は、今どこにいると思う」
「葬送棚の裏」
「誰か他の人が連れて来るのは」
「噛む」
「名前」
「ない」
「呼び方」
「灰」
ノクスが耳を上げる。
「行ける?」ハル。
ノクスは道具ではない。
命令へ自動で従わせない。
患者が自分で聞く。
「灰を、探してくれる?」
「ノゥ」
「同意?」ハル。
「たぶん」と患者。
「たぶんを記録」セレナ。
ノクスは葬送棚側へ走る。
患者は戻らない。
猫を人より優先したのではない。
本人が危険域へ戻らずに済む別の道を、猫自身の同意らしきものを含めて作った。
七分後。
ノクスが灰色の猫に追われて戻る。
「追われてる!」
「救助どっち!」
猫はノクスの尾へ噛みつき、患者の胸へ飛ぶ。
「ニャア」
「ノゥ!」
「怒ってる」ハル。
「道具の翻訳を――」セレナ。
「今のは夜獣の抗議として記録!」
医療区を出る最後の寝台は、切断予定時刻へ間に合わない。
患者本人は、残ると言う。
「一人なら運ぶ時間が減る」
「あなたを数から引いて、間に合わせたことにしない」とサラ。
「でも全員が」
「あなたも全員」
「きれいな言葉」
「嫌い?」
「嫌いじゃないから怖い」
ハルが座る。
「俺も、全員助けるって言うのが怖い」
「言わないの」
「言う時もある。言った後で、誰を全員に入れたか聞かれる」
「私は」
「入ってる」
「猫も」
「別欄」
患者が笑う。
「じゃ、運んで」
「危険」
「知ってる」
「途中で止める条件」
「呼吸が二回飛んだら」
「一回で医師へ確認」
「細かい」
「生きるため」
寝台を押す。
全員ではない。
助からない可能性もある。
それでも、一人を計算から先に引かない。
避難計算を更新する。
バズが管の切替時間を足す。
サラが未登録寝台を足す。
メイが移送後の薬接続を足す。
セレナが名前を出せない患者を人数から消さずに足す。
最短。
四十八分。
切断まで。
二十七分。
『延期可能な構造余力を立証できれば、第三条件』ニア。
「余力は」ハル。
『現状、十二分』
「足りない」
『足りない』
「でも切れば上も崩れる」
『それは第一条件として立証済み』
「じゃ止めろ!」
『停止操作をすれば、私一人へ再起動権が残る。止める時間は作れるが、手順を変えなければ次の一秒で同じ問題』
「今は一秒でも!」
『同意。暫定停止を実行する』
切断盤の表示が、三十秒止まる。
そして警告。
『遠隔終端から再起動要求』
「拒否!」
『現地停止鍵と遠隔執行鍵が競合』
時計が再び進む。
二十六分。
病棟を閉じたソムナの正しさは、王都へ薬を増やさなかった。
下面を切らないニアの正しさも、切断盤を止めなかった。
原則は、現実へ接続する手順を持たなければ、人を扉の外へ置く。
下面医療区の退避は、切断時刻を越える。
その事実だけが、誰の善意より重く残った。