第661話 第七章「三つの計算」前編
計算は、答えを一つにするために使われる。
二足す二は四。
橋が耐える重さは何トン。
薬が何人分あるか。
しかし社会の計算には、何を足すかという前段がある。
今日生きる人数を足す。
十年後の亀裂を足す。
名簿にない人を足す。
壊してよい家を引く。
誰か一人へ集中する権限を、損失へ入れるかどうか。
式が違えば、正しい答えは複数になる。
問題は、どの正解を採用するかではない。
どの正解が、何を数えていないかである。
【現実/王都下面・第三保守環/覚醒/切断予定まで二十三分】
三枚の紙が、同じ机へ置かれた。
一枚目。
ニアの計算。
『即時切離し。
上層短期生存見込み、修正後二八・九パーセント。
下面切離し域内、避難未了二十六名以上。
全体損失、算定不能。』
二枚目。
ロロの計算。
『切離しなし。
現状維持十九分で中央炉環破断。
全体崩壊開始。
可動継ぎ目六点を開放した場合、荷重余白最大四・二パーセント。』
三枚目。
エメの計算。
数字ではなく、身体図。
左脇。
背中。
欠けた二指の先。
痛む場所へ黒点。
『図面にない負荷、少なくとも九か所。』
「少なくとも、とは」とセレナ。
「痛みのない場所が安全とは限らない」エメ。
「ロード・ペインの反応条件」
「既知の圧力差と、過去に似た損傷。新しい材質、麻痺した部位、ゆっくり増える荷重は拾いにくい」
「身体図だけで九」
「計器で六一致。三は未確認」
三枚は、同じ単位を使っていなかった。
ニアの紙は人数。
ロロの紙は荷重。
エメの紙は痛み。
「比べられない」とカイル。
「比較不能を理由に、一つへ統一しない」とセレナ。
「でも決めるには」
「違うものとして並べます」
机へ三色の札を置く。
赤――今日の生命。
青――構造の継続。
黒――記録されていない負荷。
同じ対象へ複数札が付く。
下面医療区。
赤、患者。
青、持続炉と根管。
黒、戸籍のない滞在者、私設接続。
王城東翼。
赤、避難中の職員。
青、柱群。
黒、百年前に封じた逃がし管。
「一枚の地図にすると」とエリア。
三色が重なり、ほとんど黒に見える。
「見えない」とハル。
「重ねるだけでは情報が消える」
「じゃ、分ける」
「分けすぎれば関係が消える」
「面倒」
「現場は、記録者へ親切に一色ではありません」
「誰に言ってる?」
「地図へ」
エリアは三枚を透過板へし、一枚ずつめくれるようにする。
「赤だけなら、今いる人を最短で逃がす」
「切離し」とニア。
「青なら、切らずに構造を保つ」
「避難時間が足りない」とハル。
「黒なら、未記録負荷を全部確認するまで動かさない」
「確認中に崩れる」とカイル。
「どれも単独では、人を救いながら町を残せない」
ロロが寝台から手を上げる。
「俺の模型は、町を人より優先してる?」
「構造が崩れれば人も死ぬ」とニア。
「質問、姉貴じゃなくエリアへ」
「はい」とエリア。「模型は、荷重として入力された人を守ります。入力されない意思、移動拒否、治療の時間は守りません」
「じゃ俺も人を消してる」
「現在模型では」
「言い方」
「現在、まだ」
「直せる?」
「人の選択を荷重変化として随時入れる」
「計算が遅くなる」ニア。
「遅くなる」
「何分」
「最短で四」
「切断予定へ近い」
「だから入れない?」ロロ。
ニアは答えない。
速さを必要とする時ほど、遅い人が計算から消える。
歩けない者。
決められない者。
名前を言えない者。
数字へ変換する人が到着していない者。
「四分を使う」とニア。
「何で」とロロ。
「第三案の実行可能性が、人の移動で変わる」
「道徳じゃなく構造?」
「両方。だが、今の私は構造根拠で判断した」
「正直すぎてむかつく」
「受領」
エメの三つの未確認痛点を調べる。
一点目。
下面五の旧児童室。
現地映像には、空の部屋。
壁へ小さな手形が並ぶ。
床下で圧が脈打つ。
「図面は空管」とバズ。
「痛みは重い」とエメ。
「開ける」
「待て」とサラ。「その部屋、避難時の静音室だった」
「何がある」
「泣くと呼吸発作を起こす子のため、床下へ湯袋を入れて音を吸わせた」
「湯袋、今も?」
「十五年前から交換記録なし」
床を開く。
湯袋ではない。
古い布。
玩具。
小さな靴。
そして鉛の重り。
「何で重り」とハル。
「重力反転の時、部屋を一定方向へ保つ」とロロ。
「模型へ入ってない」
「公式設備じゃない」
鉛重りは、子供を守るために付けられた。
今は部屋を重くし、継ぎ目を動かしにくくしている。
「外す?」バズ。
「誰の物」とサラ。
「設置者不明」
「元利用者へ確認できない」
「危険」とニア。
「切断時に落ちる。第三案でも負荷」
「なら外すしか」ハル。
サラは手形を見る。
「外す。ただし、捨てない。仮保管。後で元利用者へ公開照会」
「重りまで?」
「守った道具だった」
「今は危険」
「両方書く」
重りを外す。
エメの左脇腹の痛みが、少し下がる。
「一致」とセレナ。
「痛みが真実?」ハル。
「場所の候補が当たった」とエメ。「重りの意味までは分からなかった」
二点目。
王城厨房の香草乾燥管。
痛むが、圧計は正常。
開けると、管の外側へ細い鉄帯が巻かれている。
「補強」と王家技官。
「違う」とロロ。「補強なら縦。これは横へ引く」
鉄帯は、隣の礼拝堂鐘を支えていた。
厨房管が鐘の重さを受けている。
「誰がこんな」カイル。
『鐘楼改修費が却下され、厨房修理費へ混ぜた』古記録。
「王家も無許可改修してる!」ロロ。
「王家内の別部署だ!」
「国民へは一つの王家!」
「正しい!」
カイルが頭を抱える。
鐘を外せば、上層警報が一つ減る。
残せば、可動節の負荷。
「代替鐘」とハル。
「ゼロスター号の船鐘を貸す」とカイル。
「王家の?」
「私物だ」
「王子に私物あった」
「ある!」
鐘を移す。
三点目。
下面葬送棚。
エメは痛む。
計器は何もない。
現地へ行ったバズが黙る。
「何」とエメ。
『管じゃない』
「何」
『名札が風で一斉に鳴ってる。音が昔の切断と同じ方向から来る』
エメの痛みは、圧ではなかった。
記憶。
身体が同じ音へ過去の痛みを返している。
「誤反応」とセレナ。
「違う」とエメ。
「構造負荷ではありません」
「そういう意味なら、違う。私の痛みは本物」
「はい。構造計算へは入れない」
「記録へは」
「入れる」
エメは息を吐く。
「これがあるから、私の痛みだけで切るなと言っている」
「自分の能力を疑う?」ハル。
「疑わない能力は、他人を切る」
ニアが聞いている。
その言葉へ返事はしない。
自分への言葉だと分かっている。
ニアの多数救命計算にも、盲点がある。
登録人口を現在地で数えるため、避難中の人が救難口を越えるたび、下面側の損失が減る。
「つまり、早く上へ行けば切りやすくなる」とハル。
「計算上」とニア。
「避難を進めるほど、残った人が少数になる」
「そうだ」
「最後の一人は」
「全体の一として扱われる」
「最初の四千人の一じゃなく?」
「現在残数の一」
「なら最後の一人が全部?」
「損失率は一〇〇パーセント」
「数字って、どっちにもなる」
「分母を変えるから」セレナ。
「どの分母が正しい」
「問いによります」
「質問を作る人が強い」
「だから公開する」
カイルは上層人口を分母にした計算を見る。
下面だけ。
全王都。
避難前。
現在。
十年後推定。
同じ切離しが、二・八パーセントの損失にも、二一・四にも、全体崩壊にも見える。
「政治家は、都合のいい分母を選べる」
「選んできた」とセレナ。
「私も選ぶ」
「選ばないことはできません」
「なら、選んだ分母を表題へ書く」
「それが最低条件です」
カイルは全域放送へ、四つの数字を並べる。
批判が殺到する。
『数字を増やして逃げるな』
『一つへ決めろ』
『上層を先に』
『下面を切るな』
『王都全体を捨てろ』
「一つへ言ってほしい」とカイル。
「王子だから」とハル。
「民衆が、ではなく、私が言いたい」
「何を」
「大丈夫だと」
「言える?」
「言えない」
「じゃ、言わない」
「王子らしくないな」
「王子らしさのせいで町が固まった」
カイルは通信へ言う。
「大丈夫ではない。切離しも、現状維持も、損失を持つ。第三案は未完成。選択した根拠と、数えなかったものを公開する」
『頼りない!』
「そうだ」
『王子が認めるな!』
「認めないと頼れるようになるのか!」
怒鳴り返す。
軽妙ではない。
王子も市民も、恐怖の中で言葉を乱す。
その乱れを、広報文で整えすぎない。