第672話 第十二章「六つの鍵が鳴る」後編
ソウジも公開席へ呼ばれる。
「構造分離命令の発令者か」と最初に問われる。
「違う。現時点の記録では、私が発令、準備、署名した証拠はない」
「命令を知っていた?」
「旧非常線の存在は知っていた。現在も自動代行可能とは把握していなかった」
「知らなかったで終わる?」
「終わらない。十五年前の境界測量で、旧線の一部を通過した。停止確認をせず離れた可能性がある。記録を提出する」
ハルが横から言う。
「可能性を、自分が発令したみたいに盛るな」
「責任を」
「責任を取る顔で、分からない所を埋めるなって言ってる」
ソウジは止まる。
「旧線通過は事実。停止未確認は記録不足。今回との因果は不明」
「それでいい」
「よくはない」
「正確って意味」
「分かっている」
「分かってる顔が」
「腹立つ」
「先に言うな!」
会議場に笑いが起きる。
ソウジは少し困った顔をする。
その顔を、ハルは初めて見る気がした。
十五年いなかった父の顔を、一度に父親らしい顔へ戻すことはできない。
知らない表情を一つずつ知るしかない。
知ることは、赦すことではない。
疑うためにも、知る必要がある。
【別航路/夢灯都市・夜明け診療所】
第二病棟は閉じたままだった。
商会資金はまだ入らない。
王都からの患者十二名は、公共会館と第一病棟へ六名ずつ分けた。薬は三日分だけ、各地から借りた。
ソムナは会計鍵を患者組合へ一つ渡す。
「治療へ口を出す鍵ではありません」
「金が切れた時、治療が誰を外すかを見る鍵」とボウ。
「はい」
「病棟を開けたことにするな」
「しません」
「失敗?」
「僕一人で拒否し、閉じたことは」
「交渉を始めたことは」
「まだ結果ではない」
メイが薬棚へ空札を掛ける。
「空を隠さない。それが今日できること」
清廉さは捨てない。
だが、清廉さを一人の所有物にもしない。
病棟は閉じている。
物語は閉じなかった。
閉じた病棟の扉には、三枚の札が増える。
『閉鎖理由――薬品不足。
決定者――ソムナ・リル単独。
再開条件――薬量、夜勤人数、患者組合会計鍵、退出権確認。』
その下に、患者が一枚足した。
『単独で閉じたことを、清廉な英断と呼ばない。』
「厳しい」とソムナ。
「消す?」ボウ。
「消しません」
「傷ついた?」
「はい」
「傷つかない聖人なら、会計鍵はいらない」
ソムナは十五歳である。
町の悪夢をつなぎ、他人の眠りへ入れる。
その力の大きさは、彼の年齢を大人へ変えない。
大人たちは、若い救済者を好む。
純粋で、疲れず、報酬を求めず、失敗しても「成長」と呼べるからだ。
ソムナはその好意に何度も助けられ、何度も使われた。
「商会との交渉を再開する」と患者組合のミト。
「夢記録の広告利用は拒否します」ソムナ。
「全拒否ではなく、項目分け」
机へ四つの箱。
薬品提供。
建物維持。
夢記録利用。
商標掲示。
「薬品と維持は受ける案」とミト。
「商標掲示が治療内容へ影響しない条件」とメイ。
「夢記録は」
「本人が個別に選ぶ。拒否を治療費増額へつなげない」
「商会が飲まない」とボウ。
「飲まなければ、別の資金を探す」
「その間、薬が切れる」
「だから三日分を借りた」とミト。
「借りは誰へ」
「自由港、雷鎖環、学院」
「三か所に返済条件が違う」
「一覧にする」
「一覧で薬が増える?」
「増えない。増えないことを隠さない」
会議は進まない。
進まないことを失敗だけで呼ばない。
ただし、議論しているから治療している、とも呼ばない。
第一病棟では十二人のうち一人が発熱する。
薬は残り三回。
「使う」とソムナ。
「誰の判断」とミト。
「医療判断は僕とメイさん。会計鍵は薬購入と残量公開。治療の一回ごとに投票しません」
「権限分離を言えた」とメイ。
「褒める時間ですか」
「今は少し」
薬を使う。
熱が下がる保証はない。
他の十一人の薬が一回減る。
その損失も記録する。
夜、閉鎖病棟の前に商会代理が来る。
金色の箱。
薬五十日分。
「無条件寄付です」と代理。
ソムナは箱へ触れない。
「契約書」
「ありません」
「記録」
「善意です」
「善意の公開範囲」
「何を疑って」
「後で『救った病院』として広告に使うか。患者の夢を研究成果に含めるか。次回の価格交渉へ寄付実績を使うか」
「そこまで問えば、誰も寄付できません」
ボウが扉の内側から言う。
「寄付できないんじゃない。寄付の値段を言えない」
「あなたは患者ですか」
「患者だった。今は湯沸かし係。肩書で話を安くするな」
代理は笑顔を崩す。
「患者の命がかかっている」
ソムナの顔が白くなる。
その言葉が効く。
効くから、危険である。
十五歳の少年へ、目の前の命を持ち出せば、彼は自分の条件を飲み込みやすい。
ミトが会計鍵を机へ置く。
「単独で受けない。薬は今夜必要。箱を封印して、成分だけ検査。二時間以内に暫定条件を作る。商会は待てる?」
「二時間で患者が」
「今、薬残量は二回。発熱者一。二時間は医学的に待てる」とメイ。
「善意を疑うのですか」
「善意が条件を持つことを責めない。条件を隠すことを拒む」ソムナ。
彼は震えている。
低血糖。
ボウが砂糖水を渡す。
「飲め」
「交渉中」
「倒れた医者へ薬を使う余裕はない」
「医者では」
「夢葬師でも患者でも、飲め」
ソムナは飲む。
自分を後回しにすることを、美徳として続けない練習。
二時間後、商会は三条件を認める。
薬品提供の広告利用は、診療所名のみ。
患者名、夢内容、治療結果は利用不可。
次回価格交渉へ寄付額を自動算入しない。
四つ目――商会監査員の病棟常駐は認められない。
そこで交渉は止まる。
「全部飲ませられなかった」と代理。
「全部拒めなかった」とソムナ。
「妥協?」ボウ。
「未決」
「薬は」
「成分検査後、今夜分だけ使う。残りは封印」
「病棟再開」
「しません。夜勤人数が足りない」
薬が来ても、病棟は開かない。
資金だけで解決する問題ではない。
清廉さだけでも解決しない。
ソムナは閉じた扉の前で、十二人の患者へ一人ずつ説明する。
受ける者。
拒む者。
今は決めない者。
彼は全員を同じ夜明けへ連れていかない。
それでも、誰かが自分の夜を選ぶ間、隣に座る。
王都から、サラの会議記録が届く。
『一人の速さを、全員の救命と呼ばない。』
ソムナはその一行を、閉鎖札の横へ貼る。
自分への戒めとして。
商会への攻撃としてではなく。
患者へ決定を押しつけないためだけでもなく。
次に自分が「僕が全部背負う」と言い出した時、他人が止める根拠にするために。
病棟は閉じている。
その夜、発熱者の熱は下がる。
翌朝また上がるかもしれない。
物語は、良い兆候で完結しない。
【現実/ゼロスター号・船内/救難後十四時間】
ゼロスター号の客員席は、今夜も一つ空いている。
空席は欠員ではない。
誰かが去った痕でもある。
次に座る者のための余白でもある。
ただし今夜、その周囲には物が多すぎた。
ロロの三番腕。
ニアの六本腕を収めた箱。
割れた王家紋章の小片。
共同食堂から届いた豆袋。
自由港の請求予定表。
十三番駅の匿名色結び。
夢灯都市の空薬札。
「片付けろ」とカイル。
「全部、重要」とロロ。
「重要と床置きは両立しない!」
「王家紋章は殿下の寝台へ」
「なぜ!」
「所有者」
「町の歴史だ!」
「じゃ共同保管」
「床で?」
「歴史は下から支える」ハル。
「うまいこと言って床置きを正当化するな!」
エリアが六つの箱を描く。
身体関連。
記録。
共同保管物。
返却物。
未決。
食料。
「未決が一番大きい」とハル。
「決めてない物が多いから」
「食料と未決の境目に豆袋」
「食べるか、種にするか未決」
「半分ずつ」
「勝手に決めない」
サラへ通信する。
『豆袋、用途』
『十袋中、四は食料、四は種、二は返礼。返礼先は未決』
「豆にも保留がある」ハル。
『人より豆の方が決めやすいと思うな』
「すみません」
生活は、壮大な危機の後に細かくなる。
英雄は豆の配分をしない、と物語は思いがちだ。
だが豆の配分をしない英雄は、翌朝、救った人々へ食事を出せない。
ニアは客員席に座らない。
床へ置いた箱の前にいる。
「船へ残る?」ハル。
「王都監査が先」
「終わったら」
「終わらない」
「じゃ、ずっと王都?」
「決めていない」
「保留」
「保留」
ロロが寝台から言う。
「勝手に俺の近くへ残るな」
「残る理由をおまえだけにしない」
「勝手に遠くへ行くな」
「行く理由をおまえだけに決めさせない」
「面倒」
「血縁は効率が悪い」
「サラみたいに言うな」
「有効な文だった」
兄弟姉妹の再会を、距離だけで測ることはできない。
同じ船にいれば近いとは限らない。
別の土地にいても、次に話す時刻と責任を共有していれば、以前より近いこともある。
「七日後」とロロ。
「第三版資料の残り」
「逃げるな」
「逃げた場合の連絡先は共有済み」
「逃げる前提を制度化するな!」
「人は逃げる可能性がある」
「お前は」
「私も」
ニアは、自分だけを例外にしない。
正しい人間としてでも、悪い人間としてでも。
六反応座の再点検は、鍵を集める儀式ではない。
集めないことを確認する作業である。
第一。
零星針はハルが持つ。
ただし所有権は確定していない。
地球から来たハルの身体へ反応し、彼の父ソウジの測量記録とも関係する。それでも、反応した者が所有者になるわけではない。
第二。
王獣鈴はゼロスター号の船腹。
七地域の共同保管。
船は移送役。
ハルたちは、勝手に鳴らせない。
「今回は鳴らした」とカイル。
「七地域へ事後監査」とセレナ。
「緊急だった」
「緊急を免責語にしない」
「費用」
「鈴への負荷、七拍のうち一拍分の摩耗。王都側が補償」
「王家私財?」
「共同復旧債と分ける。鍵利用の負担を住居修理費へ混ぜない」
「私の財産、もう概念だけになりそうだ」
第三。
双界鏡は鏡砂環から動かない。
白い縁だけが遠隔反応した。
向こうから届いた監査文は短い。
『映像複製なし。
反応時刻のみ公開。
鏡を見ない権利を維持。』
「ユノ?」ハル。
「署名は複数」とセレナ。「個人の返答にしません」
ユノは鏡砂環で、公開と非公開、表示と誘導を巡る仕事を続けている。
ゼロスター号の作戦へ一拍を返しても、彼の仕事が船の都合へ戻ったわけではない。
第四。
天雷錨は雷鎖環。
上へ一、下へ一の反応だけ。
『地域小網の医療電力を先に確保。
王都操作への出力は余剰内。
中央命令による再利用を拒否。』
「イヴァの文?」カイル。
「運行組合、医療網、地域監査の三署名」とエリア。
「一人の言葉じゃない」
「一人へ戻さないために」
第五。
夢灯籠は夢灯都市。
退出方向だけを示した。
夢の内容は送らない。
患者情報も。
『反応に伴う睡眠変化、軽微。
同意者のみ観測。
拒否者と無応答者を母数から分離。』
ソムナの個人署名はない。
「彼は関わってない?」ハル。
「関わったかもしれません。個人へ功績を集中しない記録方式」とセレナ。
「名前が消える」
「消すのではなく、役割を分ける。必要なら本人記録を別に」
「誰の物語か分からなくなる」
「全員の物語を、一人の名前で分かりやすくしない」
第六。
白い骨筒。
ここだけが未決である。
ソウジの回収箱から出た。
沈没都の古刻印がある。
六穴。
逆潮水へ反応。
他の五鍵と共鳴。
証拠はある。
名前はまだない。
「ソウジの所有?」カイル。
「回収者は所有者ではない」とソウジ。
「沈没都の物?」
「出土地は旧測量船オルロイ号の二重壁。元の製作地は未確定」
「国の物」
「どの国か未確定」とセレナ。
「誰も所有できない、で使う?」ハル。
「所有を決めないことと、誰でも使えることは別」とエリア。
未所有の道具は、自由な道具ではない。
管理されていない道具は、強い者が最初に使う道具になりやすい。
「仮保管」とニア。
「誰が」
「ソウジ一人から外す。船内三者、沈没都側一者、外部監査一者」
「あなたが決める?」ロロ。
「提案」
「いい」
「誰を」
「それは今決めない!」
「成長」
「腹立つ!」
ハルとソウジは、船尾の手回し炉を点検する。
修理する必要はない。
確認する。
「何で手回し」とハル。
「魔法が失われた時の予備」
「誰でも回せる?」
「二人以上」
「一人で回せるようにしなかった?」
「十五年前は、一人でも回せる設計だった」
「変えた?」
「失踪後に改造された」
「誰が」
「ロロの記録では、複数の修理者」
「いい改造」
「効率は落ちる」
「一人が倒れたら止まるより」
「よい」
ソウジが「よい」と言う時、技術評価に聞こえる。
「人としては」ハル。
「何を」
「二人で回すこと」
ソウジは考える。
「怖い」
「何が」
「片方が手を離す可能性」
「一人なら」
「離れる者がいない」
「でも一人が止まる」
「そうだ」
「俺が手を離すと思う?」
「思う。必要なら」
「信用してない?」
「離れる選択を持つことを信用する」
「言葉が回りくどい」
「おまえに似た」
「十五年いなかったのに、似たって取るな」
「すまない」
「すぐ謝ると会話が終わる」
「では」
「今は一周だけ回す」
二人で輪を持つ。
一周。
ハルは先に手を離す。
ソウジも離す。
炉は余力で半周し、止まる。
「止まった」ソウジ。
「止められた」ハル。
「違うか」
「全然」
動かせることと、止められること。
どちらも、次の扉を考える前に必要だった。
翌朝の再点検へ向かう前、セレナが一枚の札を掲げる。
『六鍵、集合せず。
五反応は遠隔。
第六候補は来歴未確定。
今回の共鳴を、最終用途の証明としない。
扉、帰還、世界接続について結論なし。』
「そこまで書く?」カイル。
「書かなければ、誰かが『六つそろった、扉を開ける時だ』と見出しにします」
「実際、ソウジに案がある」ハル。
「案があることと、実行が決まったことを分けます」
「俺は帰りたい」
その言葉で、船内が静かになる。
ハルは地球へ帰りたい。
それは仲間を捨てたいという意味ではない。
この世界を嫌う意味でもない。
帰る場所が二つになった者は、一方を選べば他方が嘘になるわけではない。
「帰りたい」と、もう一度ハル。
エリアが聞く。
「今すぐ?」
「開け方も戻り方も分からないままは、嫌」
「保留?」
「準備する。勝手に開けない。帰りたいことは隠さない」
「受領」とエリア。
「それ、許可?」
「聞いた」
「ニアの影響」
「便利」
「使用料」とカイル。
「ミラへ」
ノクスが客員席の下から顔を出す。
二本の尾で、零星針と骨筒の箱を別々に叩く。
同じ場所へ置くな、と言うように。
「分かってる」とハル。
ノクスは、分かっていない顔であくびをする。
動物は象徴になることを拒めない。
だから人間は、勝手に意味を読みすぎないよう気をつけなければならない。
ただし箱は、少し離して置かれた。
【現実/ゼロスター号・王都外縁/翌朝】
六つの反応座を、再点検する。
零星針。
王獣鈴。
鏡砂環から届く白縁。
雷鎖環の一閃。
夢灯籠の退出光。
白い骨筒。
ソウジが骨筒を水へ浸す。
今度は吹かない。
潮へ任せる。
骨の内部で、低い音がした。
五つの反応が、別々の場所から返る。
星は針を振る。
鈴は七拍の最初だけ鳴る。
鏡は二重の縁を映す。
錨は上と下へ雷を分ける。
灯は二つの退出方向を示す。
白い骨筒の六穴が、それぞれ別の空へ開いた。
「潮骨笛」とソウジ。
「名前を知ってた?」ハル。
「沈没都の古刻印が、今の反応で読めた。第六の天鍵である可能性が高い」
「可能性」
「正式な共同保管と来歴監査が必要」セレナ。
「誰の物」とカイル。
「今は誰の物とも決めない」とエリア。
六つの鍵は、同じ方向を指さない。
二つの位相。
二つの空。
重なっているのに、接していない。
「扉を開く案がある」とソウジ。
ハルがすぐ聞く。
「目的」
「二つの空の境界を、通行可能な幅だけ合わせる」
「危険」
「全体は未計算」
「止める方法」
「まだ設計していない」
「なら案じゃなく仮説」
「そうだ」
「誰へ共有」
「ここにいる全員。各鍵の保管者。境界へ影響する地域」
「勝手に開けない」
「約束する」
「必ず成功する、は」
「言わない」
「戻る時刻」
「分からない」
「分からないを残せ」
「残す」
父は別案を持つ。
味方だから正しいとは限らない。
父だから信じるとも、失踪したから疑うとも決めない。
ハルは零星針の蓋を叩く。
一度。
針が、上を指した。
次に下。
その二方向が、空の一点で重なる。
音が消えた。
王都の上空へ、細い黒線が走る。
「亀裂?」カイル。
「空間境界」とエリア。「原因、不明」
「俺たちが鳴らした?」
「時刻は一致。因果は未確認」とセレナ。
黒線が開く。
向こうに、海が見えた。
頭上の海ではない。
逆さ海でもない。
青い水平線。
白い波。
遠く、地球の空を飛ぶ一羽の鳥。
潮の匂いが、王都へ落ちた。
ハルは知っている。
故郷の海だった。
空が二つに裂けた。
扉は、まだ開いていない。
ただ、向こう側が見えた。