第673話 第一章「二つの空が割れる」前編
海は、国境を知らない。
知っているのは岸である。
岸がここまでを陸、ここからを海と呼ぶ。
人間はその線へ港を築き、税を置き、灯台を立て、遭難者へ向かって「こちら側へ来い」と光を投げる。
空も同じだ。
空そのものに国境はない。
だが人は、飛べる高さ、届く風、通れる扉へ線を引く。
二つの世界が接した時、最初に破れるのは空でも海でもない。
どちらが入口で、どちらが出口かという、人間の説明である。
【現実/冠都環ルーメン・王都外縁上空/覚醒/空間境界発生から四秒】
故郷の海が、空から落ちてきた。
「右へ!」
エリアの声と同時に、ゼロスター号が左へ傾いた。
「右って言った!」ハル。
「船首から見て右! あなたの右へ行けば水柱!」
「俺の右を船へ合わせろ!」
「世界が二つある時に個人基準を増やさないで!」
黒い裂け目は、もう線ではなかった。
幅二十メートル。
長さは王都の城壁三つ分。
向こう側に青い水平線が見える。
白い波。
灰色の防波堤。
地球の空を旋回する一羽の鳥。
その海面が、裂け目へ向かって盛り上がった。
水が山になる。
山が横倒しになり、アステリアの空へ突き出す。
「地球側から流入!」セレナ。
「量は!」カイル。
「幅二十、深さ不明、速度――」
「数字より先に当たる!」
カイルが右籠手を上げる。
深紅の炎が盾へ広がりかけた。
ハルはその腕をつかんだ。
「水全部、盾で止める気か!」
「止めずに曲げる!」
「痛みは!」
「あとで数える!」
「今数えろ!」
「三肋骨分!」
「分かりやすいけど駄目!」
ロロの二本の補助腕が、船腹の曲板を起こす。
「火じゃなく板! 王子、左肩で押せ! 右籠手は最後!」
「命令が具体的で助かる!」
「助かったら修理代払え!」
「王都予算!」
「私財!」セレナ。
「災害中に会計監査!?」
「災害後に忘れる方を防いでいます!」
曲板が水流へ斜めに入る。
地球の海水が船腹を叩いた。
塩。
冷たさ。
油の匂い。
ハルの喉が、名前を思い出すより先に締まる。
凪浜の海だった。
同じ海である証拠などない。
海水の成分はまだ測っていない。
見えている防波堤の形も、記憶と一致しただけだ。
それでも身体は、地図より早く故郷を知る。
「ハル!」
エリアが呼ぶ。
彼は曲板の固定索へ飛びついた。
一。
二。
三。
右手で索。
両足を船縁。
左肩へ荷重が来る前に腰索を掛ける。
水が船を押す。
ゼロスター号は裂け目の下を滑り、王都外縁の仮設塔から三十メートル離れた。
塔の先端へ、地球の魚が一匹落ちた。
銀色。
掌ほど。
空を泳ごうとして、石床で跳ねる。
ノクスが船首から身を乗り出す。
「食うな!」ロロ。
ノクスはロロを見た。
「食う顔!」
夜獣は鼻をひくつかせる。
二本の尾が、別々の方向へ向いた。
一方は地球の海。
一方は王都の雲海。
次の瞬間、魚が上へ落ちた。
「え」ハル。
石床から浮く。
裂け目へ戻る。
水滴も、曲板に残った海水も、船の甲板を離れた。
「重力反転!」エリア。
「全員固定!」カイル。
地球からアステリアへ流れていた水柱が、途中で止まる。
止まった、と人間には見える。
実際には、水の一粒一粒が新しい下を探していた。
水柱の先端がほどける。
青い帯がねじれる。
今度はアステリアの雲海が裂け目へ吸い込まれた。
白い雲が細い川となり、地球の海面へ落ちる。
「双方向じゃない」とエリア。
「交互」とセレナ。
「時刻!」
「最初の流入、発生から四秒。反転、四十七秒」
ソウジが骨筒へ手を伸ばす。
重力を吹き替える骨笛〈タイド・ボーン〉。
まだ第六の天鍵と確定したばかりの、白い骨。
六つの孔。
沈没都の塩が溝へ残り、先端には王都の水が付いている。
「触る前に」とセレナ。
「記録する」ソウジ。
「許可」
「現在の仮保管は――」
「船内三者、沈没都側一者、外部監査一者」とニア。「緊急観測だけなら、セレナ、エメ、私の三確認。起動は別」
「吹かない」とソウジ。
「握るのも荷重」とロロ。
「骨が重くなる?」ハル。
「道具の話じゃねえ。責任の荷重!」
「今のロロ、姉に似た」
「請求倍!」
ソウジは骨筒へ触れず、星晶義手の指を一センチ手前で止める。
骨筒の六孔から、音がした。
誰も吹いていない。
低い音。
海鳴りより細く、笛より太い。
王都の上では、第二の天鍵たる王獣鈴が一拍だけ返す。
遠い鏡砂環から白い縁。
雷鎖環から上と下へ分かれる一閃。
夢灯都市から二方向の退出光。
ハルの零星針が、地球とアステリアを交互に指す。
「六反応」とカイル。
「集合ではありません」とセレナ。「遠隔反応。王都下面区で更新した監査札どおり」
「分かってる」
「今、見出しを考えた顔でした」
「王子にも報道感覚が必要だ」
「不要です」
骨筒が、もう一度鳴る。
今度は四十三秒後。
裂け目の流れが反転した。
「一致」とエリア。
彼女の地図槍グリムリリーが、白い日傘から細身の槍へ変わる。
穂先で空へ三本の線を引く。
地球からアステリアへ。
アステリアから地球へ。
どちらにも流れない、反転直前の一瞬。
「重力を反転する潮刻〈ターン・タイド〉と同じ周期?」ハル。
「近い。でも通常の逆潮環は地域差がある。ここは骨筒の音へ固定されている」
「笛が裂け目を作った?」
「時刻は一致。因果は未確認」とセレナ。
「今日はそれ何回言う」
「断定が減るまで」
王都から警報鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
上層避難。
下面区圧力異常。
異世界水流入。
鐘の数に、新しい意味が追いつかない。
歴史上、王都は空賊、疫病、星脈炉事故、王位空白へ備えてきた。
地球の海が空から落ちてくる場合の鐘はない。
制度は、想定外の危機で無力になるのではない。
既存の鐘を鳴らしすぎて、どれを聞けばよいか分からなくなる。
「王都へ連絡」とカイル。「裂け目直下を無人化。下面区の水門は閉じず、圧力逃がしを残す。王命は二時間で失効」
「二時間後に継続審査」とセレナ。
「署名」
カイルは籠手を外し、左手で書く。
王族礼法で矯正された右ではない。
本来の利き手。
「地球側へ警告できる?」ハル。
「通信方式が不明」とエリア。
「光」
「見えても意味が伝わらない」
「赤を三回」
「地球の救難信号?」
「海で危険を知らせる時、赤い光を三回。絶対じゃない。でも何もしないより」
「確度を表示する」セレナ。
「地球へ表示札は見えない」
「こちらの記録へ」
カイルが盾型籠手を空へ向ける。
火を壁にしない。
小さな赤い光を、三度。
地球の防波堤で、人影が動いた。
見えたのか。
偶然か。
誰かは分からない。
ハルは手を振らない。
今、向こうに自分を見つけてもらうことと、こちらの水流から避難してもらうことを混ぜない。
「裂け目、拡大」とエリア。
二十メートルが、二十四。
地球側の海面が、潮のない引き方をする。
防波堤の根元が露出する。
アステリア側では雲海が薄くなり、王都の浮力灯が一列暗くなる。
「質量が移ってる」とロロ。
「消えてはいない」とソウジ。
「分かってる。どっちかの床が減って、どっちかの天井へ増えてる」
「このまま反転を繰り返せば」エリア。
「両側の圧力差が増幅する」とニア。
「増えたり減ったりじゃない?」ハル。
「同じ量が戻っていない。入口の幅と出口の幅が違う」
ニアは六本腕の箱へ触れる。
触覚は薄い。
箱の冷たさは分からない。
振動だけが掌へ届く。
「骨筒の孔が、全部同じ仕事をしていない」と彼女。
「見ただけで?」ロロ。
「音の立ち上がりが六つずれる」
「俺も聞いた」
「高音域は」
「聞こえにくい。ゴーグルで見た」
姉弟は同じ道具を見て、違う欠損から同じ異常へ着く。
それを和解とは呼ばない。
共同作業の開始と呼ぶ。
王都外縁の仮設塔から、細い救難鐘が鳴った。
大鐘ではない。
作業員が腰へ下げる、掌ほどの真鍮鐘。
「塔の下!」ハル。