第674話 第一章「二つの空が割れる」後編

 地球海水の最初の流入で、塔の昇降籠が外れている。

 籠には二人。

 下面区の水門点検員。

 一人は安全索を柱へ掛けている。

 もう一人は、外れた籠の底で足を挟まれていた。

 名前はまだ聞こえない。

 救難では、名前を先に呼べる時と、呼ぶ前に手を伸ばす時がある。

 名を知らないから人数へまとめてよいわけではない。

「距離、二十六!」エリア。

「帆を寄せる!」カイル。

「次の反転まで九秒」とセレナ。

「九秒で乗せる!」

「二人を九秒で助ける、ではない」とニア。「反転前に索だけ渡す。身体を急がせるな」

「正しいけど言い方が遅い!」

 ゼロスター号が塔へ横腹を寄せる。

 ハルは配達鞄から投げ索を出す。

 左肩で振らない。

 右手。

 腰。

 脚。

「一、二、三!」

 索の輪が飛ぶ。

 籠の外枠へ掛かる。

「取った!」

「取ったのは枠」とエリア。「人ではない」

「分かってる!」

 船と籠が一本につながる。

 その瞬間、潮刻が反転した。

 アステリアの雲が地球側へ落ち始める。

 籠の下が、塔の外壁から裂け目へ変わる。

 二人の身体が索へ吊られた。

「引く!」カイル。

「待て!」ロロ。

「何で!」

「足を挟んだまま引けば、助かる人数一、脚を失う人数一!」

「じゃどうする!」

「籠を先に固定。身体は次!」

 ロロの二本の補助腕が巻胴を別々に回す。

 一本は籠。

 一本は船。

 同じ速度で引かない。

 船を二十センチ離し、籠だけを五センチ上げる。

「隙間!」

 挟まれた足の上に、指二本分の空間ができる。

 ハルは索を伝って籠へ渡ろうとする。

「肩」とセレナ。

「索は腰で!」

「距離」

「六メートル!」

「戻り方法」

「同じ索!」

「切れたら」

「籠の安全索!」

「許可」

 許可は、勇気へ与えられたのではない。

 戻り方が示されたことへ与えられた。

 ハルは滑る。

 籠へ。

 足を挟まれた点検員は、四十代ほどの女性だった。

 痛みで口が白い。

「触る! 足、どこが痛い!」

「膝下……三箇所」

「三箇所を一つずつ! つま先、動く?」

「少し」

「感覚」

「ある」

「引っ張らない。籠を開く」

 ハルは配達鞄の平金を出す。

「専用工具!」ロロの声。

「ない!」

「赤い留め具、右回し!」

「右は誰の!」

「籠の扉を正面に見て右!」

「最初からそれ!」

 平金を差す。

 回す。

 留め具は錆びている。

「硬い!」

「肩で押すな!」

「脚で!」

 片足を籠枠へ。

 腰で捻る。

 留め具が一段動く。

 水門点検員が、痛みに息を吐く。

「止める?」

「続けて」

「本人同意だけで続けない」とセレナ。「足部色、脈」

「色、まだ普通! 脈、ある!」

「続行」

 もう一段。

 籠底の板が開く。

 足が抜ける。

「引く!」

 ゼロスター号の巻胴が動く。

 一人目。

 二人目。

 最後にハル。

 船へ戻る途中、地球側から流れてきた海藻が索へ絡んだ。

 緑ではない。

 褐色の長い葉。

 ハルはそれを知っている。

「わかめ」

「今、食材?」カイル。

「地球の海だって証拠の一つ!」

「採取!」セレナ。

「食うなよ!」ロロ。

 ノクスが鼻を近づける。

「ノクスも!」

 夜獣は海藻ではなく、点検員の濡れた靴を嗅いだ。

 地球の塩。

 アステリアの機械油。

 同じ靴に、二つの世界の匂いが付いている。

「名前」とハル。

 助けた後で聞く。

 二人は名乗る。

 セレナは本人の公開範囲を確認して記録する。

「救助完了?」カイル。

「搬送開始」とセレナ。「足の診察、塔の昇降籠停止、代替水門点検が残る」

「救助って終わらない!」

「生活へ戻るまで続きます」

 ゼロスター号の甲板で、点検員の一人が王都へ連絡する。

『水門は閉じないで。圧力逃がしを残して。私がいなくても、手順三番を』

 英雄的な礼は言わない。

 自分が離れた後の仕事を伝える。

 ハルは、故郷の海を見ながら思う。

 帰ることも、きっと同じである。

 戸を叩いて終わりではない。

 自分がいなかった間の仕事と、待った人の生活と、戻った後の手順が残る。

 オルロイ号から通信が入る。

『ゼロスター号、応答。こちら星帆測量船オルロイ号。逆潮外縁から王都側へ引かれている。船内重力、六分割。エメ監査員、圧痛あり。バズ配管士、主索維持』

「生存確認!」ハル。

『生存。客員航路士一名はそちらか』エメ。

「ニアはいる」

『必要とする。赦してはいない』

「今それ言う?」カイル。

『危機のたび省くと、後で協力が赦免へ変換される』

「受領」とニア。

『許可したように聞こえる』

「聞いた」

『よし』

 オルロイ号が裂け目の下へ現れる。

 十五年前の旧測量船。

 破れた主帆。

 複数の重力修理痕。

 船首下に、取り外し式の一番測量艇が固定されている。

 その後ろから、黒い船影が三つ浮いた。

 細長い船体。

 白い切断線。

 帆はない。

 重力差を船底の刃で割って進む。

「終端議会」とニア。

 声が低くなる。

 数字を言わなくなる。

 本当に動揺した合図だった。

「固定派?」セレナ。

「船腹紋、切断派保全艦」

「元の同僚」ロロ。

「一部」

「敵?」ハル。

「目的を確認してから」ニア。

「砲口、こっち向いてる!」カイル。

「砲口の向きは目的の証拠になりません」とセレナ。

「撃たれてから確認しろと!?」

「先回り位置を見てください」

 終端艦は、潮骨笛へ直進していなかった。

 裂け目の地球側端。

 水流が最も細くなる、反転直前の線へ向かっている。

「笛を奪うんじゃない」とエリア。

「境界を切る位置へ行く」とニア。

 ソウジが初めて骨筒を握った。

「起動許可は」とセレナ。

「求める時間がない」

「それを緊急免責へしないでください」

「免責は求めない。後で責任を負う」

「後で負う人が、今の選択を所有するな!」ハル。

 ソウジはハルを見る。

 笑わない。

「裂け目へ行く。潮骨笛を固定しなければ、次の反転で幅が倍になる」

「根拠」

「六孔の共振と圧力増分」

「止め方」

「現地で探す」

「またそれかよ」

「ハル」

「三回呼ぶ前に説明しろ!」

 ソウジの義手の歯車が止まる。

 恐怖。

 それでも彼は骨筒を持つ。

「一番測量艇を使う」

「共同保管物です」とセレナ。

「持出しを記録する。返却期限、境界安定時。使用範囲、測量と固定試験。恒久起動は――」

「しないって言え」とハル。

 ソウジは、一拍遅れた。

「現時点では約束できない」

 その一拍で、ハルには分かった。

 父はすでに別の案を持っている。

 全部は話していない。

「乗るな!」

 ハルが船縁へ走る。

 左肩が引かれる。

 腰索を外す前に、セレナが外套ごとつかんだ。

「飛距離、十二メートル。現在の肩では着地不能」

「ソウジ!」

 父はオルロイ号へ渡る索へ入る。

 エメが通信で言う。

『測量艇の出航権限、証拠船側にある』

「拒否するか」ソウジ。

『出航は認める。潮骨笛の所有は認めない。帰還期限を四十五分。越えた場合、追跡と回収』

「四十五分で世界の境を?」バズ。

『復唱するな。停止条件を』

『了解、つまり四十五分。ただし、停止条件は境界幅三十、圧差六、乗員発作――』

「私の発作も入れろ」とソウジ。

『本人申告だけにしない。義手歯車停止二十秒』エメ。

「受ける」

「勝手に進んでる!」ハル。

 エメの声が低い。

『止められる権限が、今こちらにない。なら無記録で行かせず、追う条件を作る。許したのではない』

 ハルは歯を噛む。

 必要とする。

 赦してはいない。

 その言葉は、人だけでなく判断にも使える。

 ソウジが一番測量艇へ乗る。

 小さな艇。

 地球製に似た直線的な船底。

 古い手動舵。

 星帆は一枚だけ。

 潮骨笛を中央固定具へ置く。

「ハル」とソウジ。

 一度。

「今度は一回?」

「追ってこい、とは言わない」

「言われなくても追う!」

「そうだと思った」

「分かった顔すんな!」

 測量艇が離れる。

 地球の海が、またアステリアへ流れ始めた。

 終端議会艦は地球側端へ。

 ソウジの測量艇は裂け目の中心へ。

 ゼロスター号はその後ろへ。

 三つの目的。

 三つの船。

 同じ空を見ているから、同じ未来を選ぶとは限らない。

 最初に境界へ届く船が、最初に未来を決めるとも限らなかった。