第675話 第二章「三隻の追跡」前編

追跡には、二種類ある。

 逃げる者を捕まえる追跡。

 先に着いた者が何をするかを止める追跡。

 前者では速度が問題になる。

 後者では、目的地の定義が問題になる。

 三隻の船は同じ黒い裂け目へ向かっていたが、目指す場所は同じではなかった。

 ソウジの測量艇は、二つの空が引き合う移動中心。

 第五切断艦は、地球側の境界根。

 ゼロスター号は、その両方へ届く途中。

 途中とは、地図上では何もない場所である。

 だが歴史上、最も多くの選択が生まれたのは、しばしばそういう途中だった。

【現実/二世界境界外縁・ゼロスター号/覚醒/緊急移送開始から二分十三秒】

「船尾帆、半分閉じる!」エリア。

「閉じたら追いつけない!」ハル。

「開けば地球の風へ持っていかれる!」

「半分って便利だな!」

「便利だから半分があるの!」

 片帆をさらに半分にする。

 四分の一帆。

 帆船としての自尊心があるなら泣いているだろう。

 ゼロスター号に自尊心があるかは不明だが、船体は不満そうに軋んだ。

 右舷索はアステリアの雲へ膨らむ。

 左舷索は地球の海風へ引かれる。

 船首だけが境界の「下」へ落ちようとする。

「三方向!」バズ。

「四」とニア。

「どこ!」

「境界中心が移動している。三つの下に加え、中心へ向かう仮重力」

「下が増えた!」カイル。

「王家の仕事より多い!」

「俺の仕事を方向で数えるな!」

 エリアの路図へ、四本目の線が引かれる。

 淡緑。

 青。

 銀。

 黒。

 黒い線は止まらない。

 地球側の潮とアステリア側の重力脈が重なるたび、渦の中心が数百メートルずつ跳ぶ。

「中心は点じゃない」とエリア。

「移動する点?」ハル。

「点と呼ぶと、止まっている気になる」

「じゃ、逃げる点」

「それで」

「地図用語になった」

「今だけ」

 ソウジの測量艇は、その逃げる点を先読みして斜めへ切り込んでいる。

 小舟は速い。

 速さのために、生活を積んでいないからだ。

 寝台なし。

 調理炉なし。

 予備水も二日分。

 帰る予定を短く設定した船ほど、往路では軽い。

「父親の設計」とハル。

「どこで分かる」とセレナ。

「帰りの荷物が少ない」

「感想です」

「測量艇の補給表」とロロ。「水二日。食料三。予備帆なし。帰投先はオルロイ。ハルの感想、証拠へ昇格」

「昇格制度あるんだ」

「修理工の裁量」

「法的にはありません」とセレナ。

「降格!」

「でも記録します」

 ハルは笑えなかった。

 通信時計は二分四十秒。

「ソウジ。三分まで二十」

『聞いている』

「戻る操作を」

『境界中心へ二十七秒。そこで笛を固定し、王都から引き離す』

「三分後は使用停止」セレナ。

『固定は使用に含むか』

「含みます」

『停止すれば裂け目が王都へ戻る可能性』

「可能性で期限を無効にしないでください」

『なら延長を申請する。十二分』

「根拠」

『潮周期を二回測る』

「操作内容」

『固定のみ』

「恒久接続を試さない」ハル。

 通信が一拍遅れた。

『今は』

「今は、を期限にするなって言われただろ!」

 セレナが割り込む。

「延長、条件付き。六分。圧力値を全共有。笛孔へ新規入力なし。船位変更は事前通告。違反時、共同保管権者は回収行動へ移る」

『受ける』

「異議」とニア。

「何です」

「共同保管権者が誰か未確定。回収主体を今決めると所有へ近づく」

「では『現場保全班』」

「受領」

「受領は許可に聞こえる」とロロ。

「聞いた」

「直った!」

「一回だけ」

 ニアの両手は、固定帯の上に置かれている。

 指先はほとんど動かさない。

 動かせないのではない。

 動かしても、触れたかどうか分からないからだ。

 六本の補助腕が消えた背中には、空の接続座が並ぶ。

 ロロはそこを見ないふりをしない。

 見続けもしない。

「右手、温度」

「不明」

「左」

「圧なら二。温度は不明」

「冷却布、替える」

「自分で」

「触って分かんないだろ」

「だから声で確認する」

「姉っぽく指示すんな」

「患者として」

「もっと腹立つ!」

 ロロは文句を言いながら布を替える。

 無断では触れない。

 ニアが「右」と言ってから右手へ巻く。

 家族の距離は、近さではなく、触る前に聞けるかで測れる時がある。

 第五切断艦が白い翼を開いた。

 翼ではない。

 境界へ切断面を合わせるための測角板である。

 だが空に白い刃が左右へ広がれば、人間はそれを翼と呼ぶ。

 機能より形が先に意味を持つのは、兵器も鳥も同じだった。

「砲口、笛へ向いてない」とカイル。

「地球側の下端」とエリア。

「下端って海面?」ハル。

「境界が海水を入口として掴む根」

「そこを切ると」

「地球からこちらへ流れなくなる」ニア。

「じゃ助かる?」バズ。

「こちらは」

「地球は」

「境界へ入った部分が切断面へ残る。海水量は現在幅なら限定。だが空気、鳥、船、人が同じ時刻にいれば、同じ扱い」

「人を区別しない」とハル。

「切断は善悪を見ない」

 ニアの言い方は弁明ではない。

 道具の限界を言う。

 だが限界を知って使った者には、限界の外へ落ちた人の責任が残る。

「接近通信」とセレナ。

 金属三打。

 次に、低い女性の声が船内へ流れた。

『第五切断艦より、主任機関士ニア・ピクスへ。生体鍵消失を確認。救護、装具回収、職務復帰手順を用意している。現船を停止し、潮骨笛の保全権を終端議会へ移せ』

「主任ではない」とニア。

『職籍抹消は受理されていない』

「提出していない」

「それ離職じゃなく無断欠勤じゃん」とハル。

「公的には死亡扱い」

「もっと悪い!」

『現時点では、死亡記録を訂正し、過去の無許可行動を緊急権限下として再分類できる』

「免責の提案」とセレナ。

『救命経験を持つ技師を失うより、監査下で使う方が合理的だ』

 声は冷たい。

 冷たいが、嘘ではない。

 終端議会はニアを英雄として戻そうとしているのではない。

 危険な技術者として、管理し、使おうとしている。

「条件」とニア。

『第一、現作戦への協力。第二、潮骨笛の引渡し。第三、終端議会への全設計記録開示。第四、外部審理は議会内監査後』

「被害者側審理より先に内部監査」エメ。

 通信へ、オルロイ号からエメの声が入る。

『ドック監査員』終端艦。

「旧姓を知ってる?」

『焼失記録を含む照合がある』

「返せ」

『何を』

「私の旧姓を、おまえらの照合表から」

『本人確認に必要だ』

「本人のためじゃなく、管理のためだろ」

 エメの声はざらついている。

 怒鳴らない。

 怒鳴らないから、返答の余地が狭い。

『現在は二世界衝突回避が優先』

「優先順位へ私を使うな。圧力値だけ送る」

『受領する』

「許可したんじゃない」

 ニアがわずかに口元を動かした。

 笑いではない。

 自分の癖を他人に指摘された者が、同じ癖を耳にした顔だった。