第676話 第二章「三隻の追跡」後編
終端艦の白い翼が一度閉じた。
加速ではない。
地球側へ広がる海風を切り、アステリア側の雲流だけを船底へ入れる。
同じ場所にある二つの風から、一方だけを選ぶ操船だった。
「速い!」ハル。
「追う船じゃない」とエリア。
「前へいるから追う!」
「笛へ向かっていない。裂け目の次の反転点へ先回りしている」
「追跡じゃなく待ち伏せ?」
「閉鎖位置の確保」ニア。
ゼロスター号は、同じ真似ができない。
片帆は地球の海風も、アステリアの雲流も、どちらも受ける。
全部を受ける船は、優しい船ではない。
互いに逆向きの力を同時に受け、船体を壊しやすい船である。
「左舷、海風を逃がす!」ロロ。
「どうやって!」カイル。
「帆へ穴を開ける!」
「直す前提で壊すの!?」
「壊れる場所を選ぶ!」
ロロの補助腕が、帆の古い縫い目を一本だけ外す。
裂くのではない。
縫い糸を抜き、地球側の風だけが通る細い口を作る。
「修理可能な損傷」とセレナ。
「褒めて!」
「費用記録」
「褒めてない!」
船が前へ出る。
そこで、地球側の橙色浮標が裂け目から吸い込まれてきた。
海上保安の警戒浮標。
赤い灯。
細い鎖。
鎖の先には、まだ地球海面がつながっている。
「避けて!」エリア。
「切ったら向こうの警戒線が消える!」ハル。
「絡めばこっちの舵が消える!」ロロ。
「どっちも消さない!」カイル。
「王子語!」
「具体案は今考える!」
浮標が船首へ来る。
ハルは投げ索を構える。
「取るの?」エリア。
「船体へ当てず、鎖を帆の外へ流す」
「左肩」
「右手」
「戻り」
「腰索」
「許可」
一、二、三。
投げ索が浮標の上環へ入る。
引かない。
強く引けば、地球側の鎖が境界根へ食い込む。
ハルは索を船首から船尾へ走らせ、浮標の進路だけを横へずらす。
「力を加えず、方向だけ」とエリア。
「配達荷物を角へ当てないやり方!」
「比較が生活!」
浮標が片帆の外側を通る。
赤い灯が、ハルの顔を照らす。
短い発光。
長い発光。
短い発光。
「信号?」
「自動識別。たぶん位置と時刻」
「地球側が境界を観測してる証拠」とセレナ。
「人がいる」とハル。
「浮標だけで人数は分かりません」
「でも、誰もいない海じゃない」
「そう記録する」
浮標を地球側へ戻すことはできない。
入口が変わるまで七秒。
「鎖を外す」とロロ。
「切らない?」
「境界に噛んだ部分だけ、留め輪を開く。浮標はこっちへ流す。地球側の鎖は向こうへ残す」
「地球の物を盗む?」カイル。
「証拠保全!」ハル。
「返却条件」セレナ。
「道ができたら返す。壊さない。信号は止めない」
「所有権、地球側」
「分かってる」
ロロが留め輪を外す。
浮標はゼロスター号の船尾へ係留される。
赤い灯が点き続ける。
この小さな灯が、後に地球側との通信基準になるかどうかは、今は分からない。
今分かるのは、終端艦が切ろうとしている境界の向こうに、観測し、警告し、位置を記録する誰かがいるという事実だけだった。
「終端艦へ送る」とハル。
「何を」
「浮標の信号。海上人員、不明を、無人にしないため」
セレナが記録を添える。
第五切断艦へ送信。
返答は短い。
『地球側活動痕、受領。損失不明の評価を上方修正』
「作戦は止めない?」
『止めない』
「でも数字は変える?」
『変える』
敵が証拠を無視しないことは、味方になる証拠ではない。
ただし、話す価値がある相手の証拠にはなる。
切断艦から計算表が届く。
境界を地球側で閉じた場合。
アステリア側の圧力回復、八分。
王都への追加水量、現在値の一・七倍で停止。
地球側の喪失範囲、直径三百二十メートル。
海上人員、不明。
沿岸気圧変動、観測不能。
境界を閉じない場合。
二世界の圧力均衡まで、推定三時間から三年。
王都外縁崩落率、三十八パーセント。
逆潮環の重力炉異常、六地域。
地球側気象影響、不明。
「不明が多い」とハル。
「知らない世界だから」とニア。
「知らない方を切る?」
「終端議会の管轄外。計算に入れる入力がない」
「入力がない人は、いない人になる」
「そうなる」
「おまえも同じ計算をした?」
ニアは答える。
「した」
「今は」
「入力がないことを、損失零とは置かない」
「じゃ反対しろ」
「反対だけでは止まらない。代案の実行時間を出す」
「残せる数を言え、じゃなく?」
「残せる時間を言う」
エリアが路図へ潮周期を重ねる。
「第五切断艦の発射位置まで九分。ソウジの固定まで三分。境界中心の次の跳躍まで一分二十秒」
「全部違う時計」とカイル。
「災害は会議の開始時刻へ合わせない」セレナ。
「王子の予定にも合わせない」
「私の予定は災害に合わせて空けてある!」
「王太子として最悪の生活」
「友人としてもな!」
カイルは笑い、すぐ肋部へ手を当てた。
「痛み」とセレナ。
「二」
「正確に」
「三・五」
「盾、次は二拍」
「三」
「二」
「交渉の余地は」
「ありません」
「議会より厳しい!」
境界中心が跳ぶ。
地球の海が右へ回る。
アステリアの雲海が左へ回る。
空そのものが巨大な蝶番になり、三隻の船を別方向へ振った。
「測量艇、下へ!」ハル。
「どの下」とバズ。
「ソウジの下!」
「人名基準を航法に使うな!」エリア。
「今そこが一番早い!」
ソウジの測量艇は、地球の海面へ向けて落ちる。
切断艦は、アステリアの雲へ横滑りする。
ゼロスター号は、両者の間で帆を裏返した。
帆布は、風を受ける面を選ばない。
縫い目の向きだけが、どちらからの圧へ耐えるかを決める。
「裏帆、十秒!」ロロ。
「破れる?」ハル。
「十一秒で!」
「十秒使える!」
「そういう前向き、修理工には害!」
ゼロスター号が加速する。
地球の塩風。
アステリアの星風。
境界の黒い引力。
三つを帆へ受け、船は本来進めない方向へ進んだ。
前とは、船首の向きではない。
追いつきたいものがある方向である。
「測量艇まで二百!」エリア。
「切断艦、先回り位置まで四百!」セレナ。
「どっち先」とカイル。
「笛!」ハル。
「境界根!」ニア。
声が重なる。
ハルとニアが互いを見る。
「笛を止めれば父を止められる」ハル。
「根を切られれば、止めても帰路が消える」ニア。
「両方」
「船は一隻」
「俺らは複数」
出航直後に交わした言葉が戻る。
反復は、同じ意味で戻るとは限らない。
「分かれる」とエリア。「ゼロスター号は境界根へ。ハル、測量艇へ先行索を投げる。接舷はしない。通信と位置標だけ」
「俺が行く」カイル。
「盾が必要」とセレナ。
「どこに」
「こちらに」
「王子は残れ、と」
「役割を言っています」
「王子だからじゃない?」
「肋骨が三・五だからです」
「身体差別!」
「医療判断!」
ハルは配達鞄から細索を出す。
端に鉄輪。
投げる。
一、二、三。
輪は測量艇の尾へ届かない。
境界の下が変わり、途中で上へ曲がる。
「失敗!」ロロ。
「実況すんな!」
「二投目、補正右十五!」エリア。
「右は」
「ハルから見た右!」
「航法の人が人名基準使った!」
「今だけ!」
二投目。
鉄輪が測量艇の安定翼へ掛かる。
「取った!」
索は二隻をつなぐ。
距離を縮めるためではない。
互いの位置を、異なる重力の中で一つの実測値にするため。
「ソウジ、位置標を受けろ!」
『受けた』
「戻る気は」
『今はない』
「正直ならいいってもんじゃない!」
『分かっている』
「分かってるを万能語にすんな!」
通信へ終端艦の声。
『ニア・ピクス。降伏期限、二分』
「降伏先がない」とニア。
『所属は残っている』
「死者として?」
『訂正する』
「被害記録は」
『内部監査』
「順序が違う」
『境界閉鎖後に争える』
「閉じた向こうの人は争えない」
『未知の人員を理由に、既知の数万を危険へ置くのか』
ニアはすぐに答えない。
終端議会の問いは、彼女が何年も自分へ投げてきた問いだった。
未知の一人。
既知の数万。
数万を救うため一人を切れば、判断は残酷である。
切らずに数万が死ねば、判断は優しいのか。
人類はこの問いを繰り返し、問い方だけを洗練させてきた。
しかし「一人」がいつも誰か別の人である限り、洗練は残酷さを見えにくくするだけでもある。
「既知の数万も守る」とニア。
『根拠』
「まだない」
『それは計画ではない』
「だから、時間を買う」
『誰の時間で』
ニアの唇が閉じる。
今度はハルが答えた。
「俺たちの」
『少年一人の自己犠牲を根拠にしない』
「俺一人じゃない!」
「ハル」とエリア。
「分かってる。俺たちが払うって勝手に言うな、だろ」
「そう」
「じゃ、聞く。全員、時間を買う作戦へ参加する? 保留でもいい!」
カイル。
「参加。盾二拍」
ロロ。
「参加。修理代は全空域へ請求」
セレナ。
「参加。記録公開、撤退条件必須」
バズ。
「参加。ただし停止条件は、境界圧八、船体裂傷二、誰かが『全部俺がやる』と言った時!」
エメ。
『参加。ニアが単独切断へ移った場合、現場鍵を出さない』
ニア。
「参加。私の判断は三鍵待ち」
エリア。
「参加。帰還も残留も今決めない」
ノクス。
「ノゥ」
「参加?」カイル。
ノクスはカイルの指を噛む。
「翻訳違い!」
「本人同意、不明」とセレナ。
「じゃ乗員として現在位置を離れない選択」とハル。
ノクスは噛むのをやめた。
「合ってた?」
「たぶん」
「証拠ではありません」
終端艦は沈黙する。
説得されたのではない。
計算を更新している。
その沈黙の間に、第五切断艦は境界根へ到達した。
白い翼が、地球の海を挟む。
「閉鎖準備!」エリア。
「砲ではない」とニア。「最初に根を固定する。固定後、切断砲」
「何分」
「固定、七十秒」
終端艦から最後の勧告。
『ニア・ピクス。帰投せよ。あなたの救命実績を、過去の加害だけで失わせない』
ニアは髪へ編んだボルトを一個回す。
「救命実績で、加害を失わせるな」
『なら、両方を持って戻れ』
「戻る場所を、おまえたちだけで決めるな」
降伏期限が切れた。
第五切断艦の白い翼が閉じ始める。
地球の海が、細くなる。
遠く、水平線の灯りが一つ見えた。
ハルの故郷にある灯台だった。