第677話 第三章「帰る扉」前編

帰郷は、距離の問題だと思われている。

 故郷から遠ければ旅であり、近づけば帰還になる。

 だが実際には、故郷が近づくほど難しくなる問いがある。

 戻った自分を、誰が待っているのか。

 待っていた人へ、何を説明できるのか。

 途中で得たものを、どこへ置いて帰るのか。

 そして何より。

 帰った後、もう一度出ていけるのか。

 片道だけの帰郷は、帰る道ではない。

 選び直せない到着は、別の形をした閉鎖である。

【現実/二世界境界・ゼロスター号船首/覚醒/第五切断艦の固定開始から十九秒】

 灯台の光は、十二秒ごとに海を撫でた。

 白。

 暗。

 白。

 ハルは知っている。

 凪浜市の東端、古い防波堤の上に立つ灯台。

 小学生の頃、配達の近道に使って管理人へ叱られた。

 父が失踪した年、母と二人で夜明けまで座った。

 光の間隔まで覚えている。

「十二秒」とハル。

 エリアは答えない。

「地球の灯台。十二秒で一周」

「記録する」

「俺の家、あっち」

「どの方向」

「灯台から西。丘を二つ。商店街の赤い屋根を越えて――」

 言葉が止まる。

 地図の読めない少年が、故郷だけは説明できる。

 それは地理を知っているからではない。

 生活を覚えているからだ。

「描く?」エリア。

「今はいい」

「了解」

 エリアは描かない。

 描けないのではない。

 本人が今は求めていない線を、善意で完成させない。

 彼女の地図槍は、境界根へ向けられている。

 淡緑の路図が、第五切断艦の白い翼を囲む。

「固定完了まで四十七秒」

「止められる?」

「近づけば」

「近づく」

「船ごとでは間に合わない」

「俺だけなら」

「帰るために飛ぶ?」

 ハルはエリアを見る。

 冷たい声ではない。

 責めてもいない。

 正確に聞いている。

「止めるため」

「帰りたくない?」

「帰りたい」

 言うと、胸が痛んだ。

 仲間に対する裏切りではない。

 それでも、帰りたいと言葉にすれば、この船で過ごした年月へ刃を入れるように感じる。

「俺は、帰りたい」

「受領」

「ニアみたいに言うな」

「聞いた」

「それも」

「では。帰りたいと聞いた」

「止めない?」

「止める権利はない」

「行けって?」

「決める権利もない」

「正確すぎて腹立つ」

「曖昧にすれば優しく聞こえる?」

「もっと腹立つ」

 エリアの右眉が上がる。

「なら正確に言う。ハルが地球へ戻る道を描く。ただし、アステリアへ戻る道も同じ紙へ描けるまで、一本を完成線にしない」

「俺が戻らないって決めたら」

「消す」

「戻るって決めたら」

「描く」

「途中で変えたら」

「訂正する」

「面倒じゃない?」

「地図は面倒を線にする仕事よ」

 灯台の光が再び来る。

 黒い裂け目を越え、エリアの頬へ白い帯を置いた。

 彼女は眩しさに片目を細める。

 ハルの故郷の光が、アステリアで初めて彼女の顔を照らした。

「実験する」とエリア。

「何を」

「現在の門が、何を通し、何を戻さないか」

「俺で?」

「荷物で」

「配達員の前で荷物を先にするの、正しい」

「人命優先では」

「帰還テストに俺を使わない意味で」

「そう」

 ロロが配達鞄から物を出す。

「勝手に!」

「石三、古切符、壊れた時計、飴、ねじ十二、濡れた紙――何だこの鞄、旅の忘れ物墓地か」

「持ち主待ち!」

「雷鎖環のねじも?」

「持ち主が世界のどっかに」

「俺だよ! 返せ!」

「見つかった!」

 小さな木箱へ、重さの違う物を入れる。

 石。

 空瓶。

 布。

 水を満たした革袋。

 箱の外へ長い索。

 索の途中に圧力計。

「対象は一箱」とセレナ。

「中身が別でも?」ハル。

「境界が何を一単位と見るかを調べます」

「箱を一人と数えたら?」

「物へ人格を与えない」

「一個って意味」

「最初からそう言ってください」

 境界が地球側を入口にする潮刻を待つ。

「五秒」とエリア。

 箱を投げる。

 一、二、三。

 木箱は黒線へ入る。

 半分。

 全部。

 索が伸びる。

 圧力計の針が跳ねる。

「通過!」ロロ。

 箱は地球の海上へ出た。

 地球側の重力を受け、海へ落ち始める。

「戻せ!」

 索を引く。

 箱は黒線へ戻らない。

 次の七秒、境界はアステリア側を入口にする。

 だが索の一部は両世界へまたがり、強く引かれるだけで箱を通さない。

「入口が変わっても、通過済み対象を出口として扱わない」とセレナ。

「じゃ箱は」

「地球側」

「索を切る?」

「切ったら実験品喪失!」ロロ。

「箱より船が引かれる!」バズ。

 ゼロスター号の船首が黒線へ向く。

「切る!」エリア。

 ロロが索を切る。

 箱は地球の海へ落ちた。

 小さな水音。

 地球へ戻った最初の物は、人でも手紙でもない。

 石とねじと飴の入った箱だった。

「飴」とハル。

「そこ?」カイル。

「母さんが好きな味」

「拾われるかも」とエリア。

「海へ落ちた」

「浮く設計」とロロ。

「いつした」

「配達鞄から出した時」

「勝手に改造」

「工賃」

「飴一個」

「現物もう地球!」

「請求不能」

「最悪の客!」

 箱は波へ浮かぶ。

 灯台の光が一度、箱を照らした。

 拾われるかは分からない。

 母へ届く確率は、ほとんどない。

 それでもハルは、向こうへ物が戻ったことを目で見た。

「片道」とエリア。

「今は」

「今は」

 同じ言葉でも、ソウジが言った時と意味が違う。

 ソウジの「今は」は、後の説明を保留するため。

 エリアの「今は」は、現在分かっている限界を示すため。

 言葉は、使う者の責任で別物になる。

 エリアは、地球へ落ちた箱の位置を紙へ記す。

 海上。

 灯台から南東、推定百二十メートル。

 漂流方向、西。

「母さんの店は西」とハル。

「箱が店へ行くとは書かない」

「分かってる」

「期待を消しているわけでもない」

「それも分かってる」

「本当?」

「半分」

「正確」

 灯台の下に、赤いものが見えた。

 自転車。

 防波堤へ倒れ、前輪だけが回っている。

「俺のじゃない」

「訊いてない」

「でも、同じ店の配達自転車かもしれない」

「確度」

「色だけなら二。前籠の白帯まで同じなら四。ハンドルに黄色い札が見えたら六」

「黄色い札」

「母さんの店は、配達先が留守だと黄色い札を結ぶ」

「見える?」

「見えない」

「では四未満」

「うん」

 エリアは、赤い自転車とだけ書く。

 ハルの店、と書かない。

 その正確さが、冷たい時と、救いになる時がある。

「帰ったら」とエリア。

「何」

「最初にすること」

「母さんに会う」

「その次」

「謝る」

「何を」

「いなくなったこと」

「あなたが選んで落ちた?」

「違う」

「なら、事故そのものを謝るの」

「心配させた」

「心配させた責任と、事故の責任を分ける」

「帰還前から会話が面倒」

「本番で言葉を失わないように」

「本番って言うな。試験みたい」

「帰還にも準備は要る」

 エリアは紙の端へ、二つの欄を作る。

 帰ったらしたいこと。

 帰る前に決めること。

「したいこと」とハル。

「母さんに会う。店の二階へ上がる。机の引き出しを見る。商店街のパン屋へ行く。海へ行く」

「食べ物が早い」

「こっちのパンも好きだけど、揚げパンは別」

「帰る前に決めること」

「こっちへ戻れるか。ノクスを連れていけるか。連れていけないなら誰に頼むか。カイルが地球で王子を名乗るか」

「なぜ私まで行く前提だ!」カイル。

「行きたい?」

「視察として」

「観光と言え」セレナ。

「外交視察!」

「地球側の許可」

「まだない!」

「じゃ保留」

 ハルは欄へ書く。

「エリアは」

「何」

「地球へ来たい?」

 槍先が止まる。

「あなたを送るために行く、とは言わない」

「うん」

「地球を見たい。海が下にある世界を歩きたい。あなたの店から灯台までの道を、自分の足で測りたい」

「来て」

 言葉が先に出る。

 エリアはすぐに喜ばない。

「今のは招待?」

「招待」

「滞在期限」

「決めてない」

「帰り道」

「ない」

「なら、受領は保留」

「正しい」

「腹立つ?」

「少し。でも正しい」

 彼女は、帰る前に決めることの欄へ書く。

 ――同行者の帰路。

 帰還は、一人の願いだけで作れば、一人以外を荷物にする。

「ノクスは」とハル。

 夜獣は赤い自転車ではなく、裂け目の風を嗅いでいる。

 二本の尾が、地球とアステリアへ分かれる。

「地球へ行きたい?」

「ノゥ」

「どっち」

 ノクスはハルの配達鞄へ頭を突っ込む。

「飴は向こうへ行った!」

「動機、食物」とセレナ。

「本人同意は」

「不明」

「ノクスだけ一番自由」

「選択を言語化できない者へ、自由という美名で放置しない」とニア。

「じゃどうする」

「匂い、身体反応、戻り行動を複数回見る」

「今は」

「連れていかない」

 ハルは頷く。

 地球へ届く距離にいるのに、持っていけないものが増えていく。

 仲間。

 天鍵。

 説明していない事故。

 父の計画。

 自分がいなかった時間。

 帰る荷物は、配達鞄へ入らない。

「鞄の中身」とエリア。

「何」

「地球へ帰る時、全部持つ?」

「持ち主へ返してないものは、こっちに置く」

「あなたのものは」

 赤いマフラー。

 零星針。

 各地の留め具。

 航路札。

「選ぶ」

「今決めなくていい」

「うん」

 エリアは紙を折る。

 完成線にしない。

 帰る地図を描き始め、戻る条件が空白のまま残る。

「この紙、誰が持つ」とハル。

「二部作る」

「一部は」

「あなた」

「もう一部」

「私」

「引き止めるため?」

「戻り道を描くため」

 ハルは、その答えを受け取る。

 約束とは呼ばない。

 まだ約束できる道がないからである。